毒蛇と蛾
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立花隆太は毒蛇に侵されていくような全身を執拗に両手で擦り続けていた。体内を流れる血液のうめき声が脳内に響く音と変わり境界線を侵蝕していくのがわかる。いま自ら執拗に身体を擦るのはすべてがまだ早いという制御反応によって繰り返されている。隆太の喉仏がこりこりと蠢くように上下に幾度か動き黒いパーカーのフードが微風で揺れた。滾り始めた血が訴えはじめている、僕はたえず獲物を求めてしまう獣になるのだろうか。激しい濁流のなかへ、人が人を殺意のままに突き落とす光景を目撃してから隆太の体内で飼われ始めたのは毒蛇だった。いや…そうではないのか。人が人を殺める光景以上に、そのとき隣りにいた麗奈の存在が重要なのだと隆太は気づき始めていた。麗奈という少女は自分の命を救ったのだ、自分が生きる価値を見出すなにかを少女は持っていた。飼われた蛇はきっと命令され血を吸い上げるたびに成長していくのだと隆太は気付いていた。
日が沈み線路の脇に広がる畑の真ん中あたりに三人の姿があった。一人は仰向けに倒され一人はその上に馬乗りになり、もう一人は数メートル離れた場所にいた。
コウジと呼ばれる少年の上にまたがり、少年の左手を掴み上げ人差し指を逆方向に捻じ曲げたとき隆太は自分の手先が酷く震えてるのがわかった。少年の悲鳴や骨が鳴る音が心に響き渡り隆太はすべての行き先を見失ったように思えた。
「早くあっち側に連れていこうよ」
少し離れた所にいた麗奈が言って線路があるほうを指差す。
コウジは泣き叫びながら麗奈に僕を許してと何度も懇願した。
許してください、殺さないで。死にたくないよ。
少年は何度もいう。
「コイツうるさいな。ねえ、コウジ。あんた私のことどれだけブスって言った?言われるたびに私がどれだけ傷付いていたかわかる?あんたは私のなんなの?赤の他人になぜそこまで言われなければならない?私の心を何度も何度も言葉の刃で突き刺した。あんたさ生きてる価値ないよ」
麗奈の言葉を聞きながら隆太は力を抜いていく。
結局のところ自分は。
自分はまだ悪魔ではないのだ。
白は黒に喰われ黒は漆黒に覆われるのだろう。
いま隆太の瞳は目の前の少女に向けられていた。
麗奈はまだ幼い。だがすでに恐ろしいほどのなにかが宿っているのが隆太にはわかった。彼女の体内にはすでに真の悪魔が巣食っている。
「隆太君、やっぱり痛めつけるだけじゃ駄目なんだよ、こいついま死なないとだめなんだけどな」
麗奈は残念そうに言う。
「いこう」
隆太は麗奈の手をとりコウジから離れながら言った。
「すまない僕には殺せない」
過去に
麗奈は自分の名前が嫌だといった。
だって私すごく不細工でしょ。
この名前がとんでもない重りとなり額に吊るされてるの。
私は重りに引っ張られるように絶えず俯いて生きるだけなの。
私も葉月ちゃんのように可愛かったらな。そうなら私は白を食い漁る黒になれるのにな
麗奈は隆太と繋ぐ手に力を込めた。
「新汰君も悠理君も、あと、あのバカなコウジもね、葉月ちゃんのことが好きなの、公園に来る他の男子もみんな葉月ちゃんのこと気にしてた、私はそれを見続けていた」
麗奈は振り返ってコウジを指差した。
まだその場にうずくまってるのが月明かりで見えた。
「隆太君。葉月ちゃんは強いよね、お母さんと妹の四葉ちゃんの死からいま立ち直ってきてる。それに犯人の狂気じみたあの女は現れない、はぁ、なんだかさ、正直いうとね期待はずれなんだよね。隆太君はまだ弱いよ。あいつは…コウジはさっき列車に踏ませて殺すべきだった。そして鴉が群がるのを二人で見届けるべきだった、コウジはこの世にいたらだめな人なの、浄化させないと」
「浄化?」
隆太が聞き返すと麗奈は、そう、あいつが生きていたらこれから不幸な人が増えちゃう、だから私達で浄化するの。
と言った。
ねえ隆太君。葉月ちゃんがその気になれば漆黒になれると思わない?漆黒のアゲハ蝶みたく世の人を魅了しまくる。
いいなぁ漆黒のアゲハチョウ。
対して私は蛾ね。幼虫のときから醜いだけの生物で目障りでただ汚くて視界に入れたくないもの。
「わたしね実は悠理君のことが大好きだったの。あの子の大きな瞳で見つめられたら私はたえず小さな興奮をしてた。毎日忘れられない興奮が私をあの公園に何度も向かわせた。実際には家からかなりの距離だよ。でも私は行った。だから悠理君を虐めるコウジが私は許せなかった。コウジは死んでも当然な奴だった。はぁ、残念。見たかったなあいつの肉や皮が鴉に喰われていくところ。でもなんで人は残酷な光景をこうも見たくなるんだろうね。昔から処刑場にはたくさんの人が見物に来てたっていうし、交通事故があれば誰か死んだのかなって見に行って、道路にネコの死体があればあら可哀想ぺちゃんこねってやっぱり怖がりながらも人は見ていく。隆太君、人はなんでこんなに残酷な世の中を好むのかな、不思議な生き物だよね」
麗奈は隆太の顔を見つめて、隆太が被るパーカーのフードの先端にそっと触れる。
「隆太君二人でもっと見ていかない?残酷な世界と残酷な光景を。私たちはきっと忌み嫌われる生物なんだよね、あなたはコウジを殺せなかった、あなたはまだ弱いよ。ま、仕方ないか。また後日しっかり言っといてねコウジにわたしの名前をだしたらどうなるか」
この先、麗奈が七海葉月に対して獰猛な牙を向けはじめる意味を隆太だけがすでに理解していたのかもしれない。
二人は広くはない住宅街の夜道を歩いていた。夜になって間もない時間なので空腹を認識する香りがいろんな住居から流れてくる。一つ向こうの大きな通りでは多くの車がすれ違うライトの明かりが見えて目の前では高校生の集団が自転車で追い抜いていった。麗奈がしゃべり隆太が聞く。いつもの二人に戻っていた。コウジのことはすでに遠い昔の事柄のように話題に出なくなっていた。麗奈は隆太の前ではとにかくよくしゃべった、いろんな話しを隆太に聞かせて隆太は時々小さな笑い声をたてた。
そんなときにふと前から来た二人連れの男女とすれ違った。
「あれ?」
麗奈が突然足を止めた。
「どうした?」
黒のパーカーのフードを被ったままの隆太は二、三歩先で止まり振り返った。
麗奈は背中をこちらに向けて後ろを見続けていた。
「いまの声って…もしかして…隆太君、あの二人の後つけてみようよ」
ここは最寄り駅からそんなに遠くはない場所だった。
仕事帰りのような服装にみえたので駅から徒歩でここまできたのだろう。距離を開ける隆太と麗奈まで聞こえるくらいに男女は楽しそうに笑い声を出しいあいながら歩いていく。
「ほら。あの声。隆太君聞き覚えない?」
数メートル後ろを気配を消しながら付いていく隆太と麗奈は前を歩く男女の革靴とヒールの鳴らす音のなか、隆太は必死に聞き耳をたてて声を拾い上げる。
「もしかしてあの女なのか?じゃあ男のほうは」
男の手には鞄で、女の手にはなにか買い物を済ませた膨らんだ袋があった。
「間違いないね、あれは葉月ちゃんのお母さんと四葉ちゃんを殺した女で、男のほうは葉月ちゃんのお父さんだよ」
麗奈が予想した通りだった。
いつもの公園手前にあるマンションの入口に向かう二人の後ろ姿があった。
そのマンションは葉月と悠理と新汰が住む麗奈にも見慣れた建物だった。
「なんていえばいいのかな」
麗奈は隣りにいる隆太の手を握った。
「すごく楽しくなってきたといったら隆太君は私を嫌う?」
「嫌わないよ、君らしいと思う」
二人は電信柱の影から四階の葉月の部屋の明かりを見続けていた。やがて麗奈は一階の悠理の部屋の明かりへと視線を落とす。
「わたしいま思ったのは、人が人を殺すときにあらゆる計画なんてしてたら逆に警察に捕まってしまうんじゃないかって」
隆太の喉仏が動く。
「どういう意味?」
「あのときあの女は計画なんてなかったはず葉月ちゃんのお母さんを殺して葉月ちゃんのお父さんが欲しかった、ただそれだけだといまの二人の背中を見て思ったの。
四葉ちゃんは可哀想だけどお母さんの道連れになってしまった。目撃した人はあの女の幸運なことに」
「俺たちだけ」
麗奈は大きく頷く。
「そう、わたし達だけよ。わたしと隆太君は目撃したのを秘密にしている。運がいいのよねあの女。運のいい人だけが完全に人を殺すことができる」
「そして捕まらないってわけか」
そう隆太が返答したときに
すぐ後方に気配を感じた。
隆太が振り向いたときと自分の肩先を掴まれるのが同時だった。
「おまえ、ここでなにしてんの?」
身長は隆太と同じくらいで年齢も近いようにみえた。長髪の男が隆太と向かい合わせにいた。男の右手が隆太の服を引っ張りあげて被るフードが大きく揺れた。
高校の学生服を着た長髪の男は冷静に隆太を見続けていた。
「ごめんなさい、気持ち悪くて吐きそうに」
麗奈が咳き込み電信柱に向けて嗚咽を繰り返す。
「おまえの妹?」
男はまだ隆太の肩先を掴み上げながら訊ねた。
隆太は無言のまま睨み返す。
「うん、わたしのお兄ちゃんだよ。ごめんなさい。行こ、お兄ちゃん」
男は隆太の被るフードを叩くように引っ張りあげて顔を曝け出させた。
隆太の瞳が男を捉える。
「おまえさ、そんな目で俺をみるな。消えろ」
「行こ」
男を睨み続ける隆太を麗奈が引っ張っていく。
しばらく麗奈は強引に隆太を引っ張っていき公園前まで来たときに足を止めて隆太のパーカーのフードを顔を隠すように被してあげた。
「大丈夫?隆太君。やっぱりいま怒ってる?」
麗奈の言葉に隆太は返事をしなかった。
「あの男は新汰のお兄ちゃんだよ。前に一度だけ会ったことある。たしか隆太君と同い年くらい」
隆太は自分の肩に触れて男に掴まれた部分を数回指先で払った。
毒蛇が喉を鳴らす。




