存在
渡辺という名の指導員の面影が母親の頭のなかに浮かんでいた。数ヶ月前のたった二時間ほどの稽古の見学の時しか会っていない男なのに何故か克明なまでに母親の脳裏に浮かびあがっていた。自分が一心不乱に宗教を信仰していなかったら第一印象から渡辺を見るイメージはがらりと変わっていたのかもしれない。良い物が良いとはすぐに認められなくなったために渡辺の存在をいますぐにでも末梢したいほどだと思った。いまも母親は悠理が空手や渡辺の話を出せば頑なになる選択肢を選んでいた。
悠理を連れて道場に初めて入るまで空手道場の指導員は無愛想で威圧感のあるがさつな人をイメージしていた。身体はでかく人を傷つけることだけしか能力のない男達。空手なんてものは所詮は野蛮人がやること。学生時代の時に空手をやってると自慢していたクラスメイトがいたが傷害事件を起こしたりのかなりの問題児だった。悠理には空手なんてやってほしくないしとにかく似合わないのだ。夫の孝介が悠理の空手を許したばかりに話は急加速した乗り物のように景色を押し流し進んでしまった。母親はとにかく反対だった。悠理なら稽古の厳しさに付いていけなくなりすぐに音を上げ辞めるだろうと思ってしまう自分も嫌だった。
なのに、それなのに。
渡辺は母親が抱く想像とは大きく異なっていた。
空手指導者への先入観との差が克明に脳裏に印象を残させたのだ。
「秋月さん今日は稽古を見に来ていただいてありがとうございます、私事ですがご主人様には大変お世話になっておりまして」
渡辺は物腰が柔らかくたえず穏やかな表情を浮かべていた。年齢は自分よりかなり若いはずなのに真の落ち着きさが心や全身から滲み出ているのを彼の表情や息遣いや発する声から感じ取れた。新興宗教の在家信者となっていた母親は孝介には内緒事のまま宗教施設に頻繁に赴いていた。そこには自分探しを続ける信者ばかりがいる。自分が見つけられないために負の感情がちょっとしたきっかけによって表に顔をだしてしまう。喪失したままの日々は自分も当てはまることなのでよく理解できた。きっと夫の孝介もそうなのだろう。と。悩み事を自身の奥底に内包し自尊心を失いたくない者が世の中に多いことを母親は宗教を通して知った。
だが。
母親は空手の稽古を指導する渡辺という男性は自分という存在の意味を知り、日々の目的を明確に作り上げ実践しているのだと思った。
見学する稽古中に見せた渡辺の体得した空手の技は強さと美しさが素人目にも垣間見えた。そして時折見せる優しさや発する冗談は道場生達を上手くまとめ上げていた。母親は認めたくはなかったのかもしれない。空手は暴力を振るうことが好きな者の吹き溜まりの野蛮な場所だ、悠理がするべきことは日々祈ることによって手を差し伸べてくれる神の存在に触れていくことだ。と。
「ねえ悠理。その人の話はあまりききたくないな。空手はすぐに辞めてもいいんだよ、痛い思いするだけだよ」
「え?」
母親はすぐ隣に寝そべる悠理に顔を向けてゆっくりとした口調で話す。
「母さんは空手なんかやる悠理はあまり好きじゃないの、指導員の渡辺って人も悠理とは合わないよね」
父親のいびきが隣の部屋から聞こえてくる。暗く陰湿な世界に導くような音と母親の言葉の意味を探るなか悠理は耳を塞ぎたくなる。
「え?どういうこと?」
「空手なんてやってもあまり意味ないの」
「え・・・お母さん」
母親の言葉は剃刀を心に押し当てられたように痛みの前兆の冷たさをひしひしと感じた。
悠理は勢いよく布団から身体を起こす。
「どうして?どうして?空手はどうしていけないの?」
母親は驚き悠理を見つめた。だかそれ以上に悠理の視線はは暗い部屋のなかでもわかる強さだった。
「お母さん!僕は辞めないよ」
「悠理、聞いて。空手は単なる暴力でしょ。暴力はいけないことよ。人を傷つけることがすごいとかかっこいいとかなんて思うのはおかしいこと。悠理は友達を叩いたり蹴ったりしたいの?されるのも嫌でしょ?必要のないことよ、人を傷つけるのを練習するなんておかしいよ駄目だよ。そう母さんはそう思うんだけどな」
「違う、強くないと守れない」
悠理はコウジに叩かれた日のことを思い出す。四葉がいなくなってから流した葉月の涙を思い出す。
母親は悠理が空手をやりたいと言ったときから断固として反対していた。
「空手なんて駄目よ。スポーツの習い事したいなら水泳とか野球にしなさい」
母親の意見をねじ伏せたのは父孝介だった。
「おまえは黙ってろ。空手か、いいじゃないか。悠理、そのいまはひ弱い素手を研ぎ澄ませた太刀に変えてみろ、おおいにやればいい。渡辺はかなりの手練れらしいぞ、ただし途中で投げ出すなよ。やるならとことんやれ。わかったな?」
孝介は悠理の華奢な指先を見つめながらいった。
「うん!お父さんありがとう!お母さんいい?空手やっていい?」
「ええ・・・お父さんが良いっていうなら・・・」
悠理はわかっている。朝の父親は優しい父親だ。こちら側で腕を組み見守る父親だ。僕ね憧れる人だ。
空手を始めてすでに何ヶ月か経過している、とくに毎週土曜日は渡辺指導員に会えると悠理は目を輝かせていたし稽古から帰ってきても同じように表情は明るかった。悠理の口から空手を辞めたいと出ることは難しいと母親は思わざるをえなかった。
母親はしばらく間を置いてから口を開いた。
「ねえ悠理。ちょっといいかな、見せたいものがあるの」
母親は布団から起き上がると箪笥の引き出しから慎重に包まれた物を手にした。布を開くと一枚の紙切れが出てきた。
お札?
「これはなに?」
「いい?悠理。よく聞いてね。これはね神様が宿るお札なの。このなかにね神様がいるの。いまから私が唱える言葉を覚えて」
母親は暗号のような短い言葉を唱えた。
「いまお母さんが唱えた言葉を毎日唱えるのよ。このお札が閉まってあるタンスに正座をしながら。そうするだけで悠理にも善良なる神様が味方に付いてくれる。いい?わかった?そうすれば怖い夢も見なくなるし二人で祈っていけばお父さんから邪気が抜けてずっと優しいお父さんになる。空手なんて辞めていいの、大きなけがをするかもしれない、暴力なんて覚えても意味がないの。わかった?母さんは悠理には空手をすぐにでも辞めてほしい、これがお母さんのほんとの気持ち」
「う・・・うん」
祈る?善良なる神様?ずっと優しいお父さん?
悠理は母親が言った言葉に疑問符をいくつも付けた。
祈ることによって父が変わってしまったらそれは父ではなくなるように感じた。
それよりも、それよりも。
布団のなかに潜り込み悠理は渡辺のことを考える。すごいんだあの人の蹴り技は。
きっとどんな悪魔も逃げ出してしまうだろう。
これからずっと葉月を守るために僕はあの人のようになりたいんだ。




