渇望幻影
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結城リクが不意に視線を上げたときにはすでに陽は傾きいまにも山の向こうへ沈もうとしていた。巨大な赤の半円が大地との際でじわりじわりと西の山々に喰われていく様はリクの目にはなんだか痛々しく見えた。
異様なまでに世界は赤く寂しげでありどこか攻撃的でもあった。リクは迫り来る暗闇をいま描いてみようと試みる。当たり前に陽は食われていきやがて訪れる暗闇に覆われる空間は簡単に想像が出来て愚見化できるだろう、陽が完全に落ちて夜が更けてしまえば堰を切るかのように世界はすべての答えを導いてくれるのだろうか。このオレの腐りゆく心を救ってくれるのだろうか。厚い雲の隙間から覗く夕陽の残像を見つめながらポケットにおさまるカッターナイフに触れてみる。自分を覆う膜の向こう側に広がるいまにも灰色に掻き消されそうな淡いオレンジ色が眼前にあるのは視界をチクリと刺激する夕焼けだなとリクは思った。
記憶はいつも曖昧でいいのに、死神の大鎌の切先が頬を撫で付ける程度でいいのに。永遠に介在する記憶などこの世には存在しないのだよと誰かが耳元で囁いてくれればいいのに。心を焦土にさせることも或いは転換することも不可能ならば記憶の鉈で切り刻まれたいほどだ。
リクの内外のあらゆるものが日々変化した。築き上げてきた自尊心や自意識なるものが一瞬にして転落していった日もあれば世界のすべてが薄っぺらいと感じる日もあった。ある日には月が満ち欠けを繰り返す歳月から内面離脱したようにも思えた。数日の間、心は闇の世界にいた、明かりを求める自分がいた。温かい光はどこにある?おれにとっては母親と一緒にいる時間なのか?じゃあ聞くけど男を追いかけ続ける母親との時間にいったいなにがある?はぁ、なんだかな、生きる屍のような腐りかたが脳内から進行していくのがわかる。心は深い混迷のなか見事なまでに腐敗していくんだ。
リクは横顔をオレンジ色に染めたまま一人苦笑いをする。
繋ぐのは母親の存在だけ?
いや、違うと思う。
きっと自分は美しいものをもっと知りたいからなんとか生きている。と思った。
たとえば・・・うーん、たとえば・・。
リクは美しいと感じるものを指を折り必死に想像していく。
彼がほんとに美しいとおもえるものに出会う日まで。
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秋月悠理と空手の距離感。
空手は悠理の生への執着となった。
日々自らの体と心を練磨していく。ゆっくりと積み上げていく武道の精神や強さなるものは大きな自信へと転化はしていく。行うのは膨大な数の反復練習だった。少しずつ削り上げるように研ぎ澄ませていく空手の技、そして他人への礼儀を通して培われる存在意義。その二つは大きな原動力とすり替えられていく。まるで仏教徒が厳しい戒律のなかで修行をしてやがて悟りを開いていくように。
12月27日は葉月の誕生日だった。この年の葉月は11歳になった。
公園で悠理と新汰は葉月にプレゼントを渡した。それは二人が書いた葉月を祝福する手紙だった。そのあとは105号室の悠理の家に行き三人でケーキを食べた。
この頃になると悠理は葉月との間に微妙な距離を感じていた。少しずつ大人に近づいていく葉月と子供のままの自分。うやむやともいえるわだかまりがいまもケーキの甘さに追尾しているように思えた。
その日の夜に悠理は嫌な夢を見た。それは悪夢といえた。まるで誰かが悠理の内部に映像を引き連れて踏み入ってきたように明確に悠理の記憶に残るような夢だった。頭の片隅にある小さな暗闇でひっそりと目を光らせた悪魔が棲息している。悠理は夢のなかで不快なる体温を感じることができた。
目の前に浮かび上がる映像はマンションの隣にあるいつもの公園だった。現実とちがうのは赤い土に覆われた地面と赤色の空だ。そして上下にある世界がわずかに歪む領域となっていた。夢の中で悠理は滑り台の前に一人ぽつんと立っている。青く塗られた滑り台は唯一矯正されたかのように狂いない原型を留めていた。悠理はしばらくその場に一人でいた、心には孤独があり恐れもあった。そんななかふと悠理は背後に気配を感じて思わず振り返った。先程まで現存していた滑り台は跡形もなく消え失せており変わりに大きな姿見があった。それは悠理の背丈ほどある大きな鏡だった。
やがてどこからか二つの息遣いが聞こえてきた。そのとき突如姿見に映る影像があった。怯える自分と肩越しから覗く者の姿。
悠理は全身を強張らせたまま背後にいる者を鏡越しに注視した。その者は醜い薄ら笑いを浮かべていた。二人は姿見を通して目が合う。怯える瞳と蔑む瞳。背後にいる容姿は異様といえた。目立つのは大きな一本の角だ。鏡の上部から優にはみ出るほどの頭頂から生える角は何かを暗示しているように勇ましく巨大だった。体形は獣姿でライオンほどの大きさだ。四本の肢には巨大な鉤状の爪が鋭い光を放っていた。数カ月ほど前に見た嫌な夢では顔が半分溶けた老人が出てきた。最近見た夢では顔を隠すマスクが真っ黒で新月の夜空のような道化師だった。
いま背後にいるのは獰猛な獣。
「さあ次にあの世へと連れていくのは葉月だな、次はあいつを殺してしまおう」
唾液が大量に混ざるせせら笑いをする獣に悠理は振り返り叫んだ。
「やめて!葉月を連れて行かないで!」
悠理は叫ぶ。だがそこに葉月がいた。瞳を閉じたままの葉月は獣の背中に乗せられていた。
悪は悠理の無力さに向けて嘲笑う。
「くっくっく。悠理よ。お前はただ泣き叫ぶだけの男だ。弱い男だな。さあ葉月を連れて行くぞ」
「だめ!連れて行かないで!」
悪は葉月を担いだまま空へと飛んでいく。
悠理は地上に突っ立ったままにただ泣き叫ぶ。残されたのは目の前にある姿見。空は黒く大地は赤く空気は黄色い。涙を拭いておもむろに見る鏡に映る自分のすぐ後ろで何かが動いた。大きな獣が牙を剝き出して悠理の首筋に喰らいつく。
「次は貴様の番だ!」
うわぁ!やめて!死にたくない助けて!
「うわぁ!」
叫び声と共に夢から覚めた悠理は布団から飛び起きた。首筋に触れると汗で指がべとりと濡れた。悠理は全てが夢であったことに胸をなでおろす。寝汗が肌にまとわりつき喉がからからに乾いていた。布団から立ち上がり襖をゆっくりと開けると隣の六畳間では父親の孝介が布団も敷かずに畳の上で仰向けに寝息をたてていた。悠理はその寝息の音が、夢で見た化け物の笑い声を連想させた。




