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雨夜月に抱かれて 第一部 初恋編  作者: 冬鳥
2010年12月23日。愛知県西尾市の須和新汰。そして原点。始まりの過去へ。
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空手


七海家でこちら側に残されたのは葉月と葉月の父親の二人だった。葉月にとって妹の四葉と母親の愛子とはある日突然の別れが訪れた。妹と母親をどれだけ愛し必要としていたか、その大きさは誰もが計り知れないものがあった。


七海家の二人は助けあい励ましあいながら生きていくことになった。と。



少なからず・・・


幼い悠理の目にはそう見えていた、いや誰もがそう思っていたはずだった。






四葉がこの世から消えて一ヶ月ほど経過したときのことになる。


須和新汰は一人でマンションに帰るところだった。日はすでに暮れ始めておりいつも新汰の隣にいる悠理もこの時はいなかった。さっきまで悠理も一緒に公園にいたはずなのにな。と、一人呟いて新汰は首を傾げる。気付いたときには悠理が公園から姿を消していたのだ。この日は他にも遊ぶ仲間が多くて新汰も悠理から目を離すことが多かった。悠理と葉月は四葉が突然消えてしまったことにまだ酷く落ち込んでいたし自分も同じ思いだった。だが他の仲間たちは違った。四葉が亡くなったことに対して心の変化があったのはせいぜい一週間くらいであった。そのことに関して新汰は腹を立てることはなかった。人と人は距離がそれぞれ違うのだと新汰なりに解釈していた。だから自分との遊びを求めて仲間が公園まで来るならば素直に受け入れようとそう思った。


葉月はまだ一緒に遊ぼうとはしなかったし学校も休んでるようだった。葉月のことを思うと新汰はたえず込み上げてくる吐き気のようなものを覚えた。どう葉月を励まして救い出していけばいいのか、いくら考えても答えは見つからないままだった。四葉のことが起きてからのこの1ヶ月で遊ぶメンバーは少しだけ変化していた。麗奈をまったく見かけなくなったのだ。新汰には麗奈が葉月だけでなく四葉とも仲良く話していた記憶がある。四葉のことがよほどショックだっだのだろうと考えた、また時の経過とともに麗奈はここに姿を見せるだろうと新汰は予想していた。だから麗奈がほんとは自分らと同じ学年じゃないかという疑問はその時にまた聞けばいいなと考えた。だが新汰のその予想は外れることになる。麗奈が再びここに現れることはなかった。



悠理を公園で見失ってからコウジも公園にいないことに気付いた。二人でどこかに行ったのか?いや違うと、新汰はすぐに思った。二人がそこまで仲良くはない感じがするのは理解していたからだ。


とりあえず105号室のチャイムを押してみようと新汰は急いでマンションの入り口まで来た。そのとき10歩ほど先を歩く人影を見つけた。人影は新汰より先にマンション内部に入り込んでいた、そして階段を目指していることが新汰には分かっていた。後ろ姿で誰なのか瞬時に新汰には理解できていた。このマンションの住人で仕事帰りに綺麗なスーツ姿の大人は一人しかいなかった。葉月の父親だ。


新汰も続けてマンション内部に入ろうとしたときにしわがれ声で呼び止められた。


「おい小僧」


新汰は足を止めた。マンションの入口脇に隠れるようにしてその人物はいたのだ。


「びっくした、げんじいか?」



小柄で白髪の男がいた。新汰が苦手とする老人だった。


「小僧、いまの男は七海の父親か?」


げんじいが新汰に聞いた。


「そうだよ、葉月の父さんだよ」


新汰は即答した。


「七海のとこは二人亡くなってるだろ、なのにあの親父は」


ヘラヘラと笑みを浮かべるげんじいに新汰はなんだか苛立ちを覚えた。



「なあげんじい」



新汰が質問しようとしたがまだげんじいは薄ら笑いを浮かべていた。


「そうかそうか」


と笑っていた。その笑顔は新汰が大人になっても忘れることができないほどに歪んだ笑顔だった。げんじいはニタニタと笑ってまた「そうか」と言った。


「お、そういやお前のいつもの相棒、さっき畑で殴られてたぞ」


「え?」


「ほら、お前の白い肌の相棒さ。線路の手前にあるだろ畑が。そこでガツンとやられてたな、しかしおまえのまわりは小鬼ばかりだな。いろんな色の鬼があらゆるもんを貪る」



新汰はげんじいの話を最後まで聞かずに走り出していた。


「ちくしょう!悠理なのか?誰にやられてるんだ」




新汰は走りながら最後に言ったげんじいの言葉を思い出していた。


いろんな色の鬼がむさぼる?・・・


畑に来た新汰は悠理を殴るコウジを後ろから掴み突き飛ばした。


「おいコウジ!なにしてんだ!」



「ち、違うよ、悠理が」



コウジがまだなにかを言ってる途中だったが新汰がまた力強く突き飛ばす。


「おいコウジ!おれの親友になにするんだ!二度と俺の前に顔見せるな!」


新汰は泣き顔を浮かべた悠理とマンションへと帰っていく。



マンションに来るとまだげんじいが立っていた。


「お。ガキ大将、お仲間を助けてきたか」



「なあげんじい、いままで悠理を殴ったりしたことはいないよな?」


「わしが?するわけないだろ」




「悠理行こうぜ」



新汰が悠理を引っ張ってマンションのなかへと入っていく。


「悠理。コウジにやられてたんだな。気付かなくて悪かった」


悠理は新汰に、僕が弱くてごめんと言いたかった。




生者必滅であり転化無常。


人は会者定離の苦しみから時間をかけて記憶を少ずつ馴化させていく、まるで食物が次第にその地域の環境に適した性質を持ち芽吹いていくように。人は生きていくためにいまある現実に否応なしに納得させ調整し順応していく。人は嘆き戸惑いながらも平静を取り戻すために前を向き歩んでいく。


透き通るほどの青空から一片の白い羽がひらひらと舞い落ちる。


それは悠理、新汰、葉月の広げる小さな掌の中へと引き寄せられていった。だがきっと包み込んだ時には消え失せているのだろう、きっとそうだ。


だが


感触だけは残るしっかりと記憶に残るのだ、優しく繊細に感じたあの四葉の手触りがいつまでも。




四葉がいなくなってから一年が過ぎ悠理と新汰は10歳になり四年生になった。葉月は一つ上の五年生。三人はそれぞれに傷痕を心に宿しながらも成長していった。男二人のうち悠理と新汰の発育に関して言えば新汰のほうに著しさが見られた。


葉月にも本来の無邪気さと強さが戻りつつあると悠理には見えた。


悠理は学校から帰宅すると部屋の中央にランドセルを投げ捨てるように下ろしてから台所に行き蛇口を捻って水をコップに入れ一気に飲み干した。それから間髪入れずに公園へと駆けていく。マンション入口にある自転車置き場まで来ると同じく公園に向かう新汰の背中と出くわした。


「新汰!今日は何する?」


悠理の声は高く大きい。


新汰は背後の声をすでに予測していたかのようにすかさず返答する。


「野球だ!すでに一組の奴らには集合かけといたからよ大勢来るぜ!」


葉月も30分ほど遅れてから公園に直行する。そして悠理と新汰が大勢に囲まれて野球をするのを一人ブランコに揺られながら応援をする。



「悠理も新汰もがんばれ!」


葉月の黄色い歓声が耳に届くと俄然本気になる二人だった。



その翌日には新汰のクラスメイトの男子が投げたボール目掛けて葉月は力いっぱいにバットを振った。


「打ったぁ!葉月!ホームランだ」


弧を描いて飛んでいく白球を見て手を挙げて喜ぶ葉月がいた。


悠理と新汰もジャンプして喜んだ。夕焼けに染まる大地は、はしゃぐ声に染まっていた。



繰り返される日々。充実した日常。あっという間に一日が終わっていく。公園では悠理と新汰のクラスメイトが一緒に遊ぶときもあったし葉月が学校の友達を連れてくることもあった。悠理たちを取り巻く小さな世界は再び違和感がない空気に包まれていったようにみえた。


悠理と新汰は時々見つめあい微笑みあった。二人一緒に安堵をするのだ、葉月に笑顔が戻ってきたことに。




そんなある日。悠理と新汰が下校時にいつもの公園に目をやると葉月が一人でブランコに腰を下ろしていた。


「あれ葉月一人でここにいるなんて珍しいな、今日は五年生は早く学校終わったんだな」


新汰が隣にいる悠理に呟いてから大きな声を出した。


「葉月ただいま!」


葉月はこちらに顔を向けて笑顔でおかえり!と言ってから手を大きく振った。


「よし!」


二人はいつものように葉月のところまで駆けていく。真剣になる。どちらが先に葉月のもとへ行けるか。


どちらが葉月を・・・。


かけっこになると新汰が歯噛みする結果がいつも待っている。それは今日も例外ではなくいつの間にか悠理が新汰を追い抜いていた。


「葉月聞いてくれよ、今日はさ悠理がやっちまったんだ、めちゃバカなんだぜこいつ」


葉月の赤いランドセルはブランコから少し離れた滑り台の上に置いてあった。葉月は学校帰りにそのまま公園に立ち寄ったのだろう。新汰が学校であった出来事を楽しそうに話しだす。それは悠理が遣らかしてしまったおっちょこちょいな失敗談だった。


「あー新汰!葉月だけには内緒にしといてって言ったのにー」


二人は葉月の前でとっつかみ合いをしてはしゃぎあう。それを葉月が見て声を出して笑う。いつもの光景だった。変わりない穏やかな風が三人の周りを流れていった。


しばらく三人はその場で話してから402号室の葉月の家にテレビを見に行くことに決まった。


「夕方にはお父さんとあの人帰ってくるかも」


葉月の言葉に新汰が「あの人って?」と訊いた。


「うん。お父さんと仲良しの女性がいて…最近はよく…」


言いづらそうにする葉月に二人は顔を見合わせた。


「仲良しの女性?」


悠理がなにか言い出すまえに新汰が遮った。


「オッケーじゃあ夕方まで葉月の家で!」


三人が

ランドセルを背負ってすぐマンションへと向かい三階まで来たときに新汰が「このまえビデオ録画したの持ってこようかな、みんなで観ようぜ、ちょい先行ってて」と303号室の須和の表札がかかる玄関ドアへと走っていった。


「新汰は何が観たいんだろうね」


四階へと伸びる階段の一段目に足をかけたままの葉月が悠理に顔を向けた。


「たぶんあれだよ」


「あれって?」


「いま俺たちの間で人気凄いんだよね。葉月はとにかく楽しみにしといてね」


悠理の顔はなんだかにやついていた。そんな悠理の表情を見た葉月は両肩を竦ませた。


「もしかしてジェイソンとか怖いやつ?ダメだよ絶対に私観ないよ」


「え?ジェイソン?ジャイアン?なに?誰?」


葉月はホラー映画の例え話を簡潔に話し始めた。すると悠理の表情から徐々に笑みが消えていった。五分ほどして新汰が玄関を開けて二人に近づいていくとどういうわけか悠理が階段のところで背中を丸めて座り込んでいた。


「おい悠理どうした、震えてるぞ。腹痛むのか?」


「僕はもう夜にトイレにいけない、絶対いけないから」


涙目の悠理を見て新汰は首を傾げ、葉月はくすくすと笑っていた。


「おい悠理何言ってんだ」


悠理がそうなった理由を葉月から聞いた新汰は大いに納得した。映画の話とはいえ葉月が人が死ぬ場面を口にすることができる、新汰はそのことが嬉しくも思えた。


「さあ葉月の家にいこうぜ」


それから数十分後には葉月の部屋で三人はテレビ画面を見て興奮していた。悠理は両手を強く握りしめて新汰は自分の太い腿を何度も叩く。葉月は両目を隠す指の隙間から画面を見ていた。


「いけ!そこだ!」


「決まったぁ!すっげー今の見たか悠理よ、すげえ」


「きゃっ!」


人が人を殴るシーンに小さな悲鳴をあげる葉月。


悠理と新汰が熱中しているのは中国カンフーの映画だった。二人のなかでとくに映像に釘付けになったのは悠理だった。恵まれた体格を持つ新汰以上に悠理はその精巧ともいえる強さに憧れた。


僕に強さがあれば葉月を守ることができる。もう二度と葉月を悲しませたくはないから。



悠理がいま何よりも欲しいもの、それは純粋ともいえる男としての強さだった。


「かっこいいね強い人って」


エンディングテロップが流れるテレビ画面を目を輝かせて見ていた葉月がいった。その言葉を隣で聞いた悠理は一人何度も頷いていた。



その日の夜。105号室で少年は母親に頼み事を何度も口にした。


「ねえお願いだよ」



「だめよ。暴力ではなにも解決しないのよ」



母親は悠理の肩を強く握り締めて真剣な表情でだめよと言い続けた。そこに父親の孝介が帰宅する。孝介の顔は酔ってるようには見えなかった。


「やれ。空手道場ならある。仕事の知り合いに渡辺という人がいてそこで指導をしているらしい。悠理、空手でもいいか?」



「うん!空手やりたい!」



悠理は手を叩いて喜んだ。






「こんばんわお邪魔します」


ある日の夜、久しぶりに葉月が悠理の家に来ていた。前日に母親がマンション入口で会った葉月にたまには家に来てねと夕食に誘っていたのだ。


「おばさん・・・その顔の傷・・」


葉月が母親の頬に貼ってある絆創膏を見て不安げに聞いた。


悠理はビクッと肩を動かす。葉月はそんな悠理の動きを見逃さないようにじっと見つめた。夕食の時間に悠理の父親がいたことはあまりない。


悠理は葉月の視線を感じると無理やりに笑顔を作り上げた。母親は絆創膏に僅かに触れてから口を開いた。


「こ、これね・・・さっき自転車で転んじゃって」


母親は葉月に背中を見せてカレーライスを盛りつけ始めた。そして振り返ったときにはわだかまりない表情に戻っていた。


「うわー、ぼ、僕ね大好きなんだよね・・カレーライス。葉月も好き?」


悠理の顔にはいまも大きな動揺が残っている。ホラー映画のことを話した時と同じ表情だと葉月は思った。悠理は怖がりで泣き虫。葉月は悠理のことがよくわかるからこそいま同じく不安に押しつぶされて泣き出したくなるのだ。葉月は必死に涙を堪えて鼻をすすった。


悠理は父親のことをどう捉えたらいいのか混乱していた。酒を飲むと人が変わってしまう。顔を赤らめて帰宅した父親はすぐに豹変する。大声を張り上げて母親の頬を叩きそのまま髪を鷲掴みにする。ときには部屋の隅に隠れる悠理にまで暴力は及んだ。


「あなた!やめて!悠理には手を出さないで!」


悠理の上にかぶさるようにして抱きしめる母親に向けて父親は躊躇なく蹴りを入れる。


「どけ!こいつの俺を見る目が気に入らねえ!お前はなんて目をしやがる!」



酷く混乱する少年がいた。父親の見せる二面性は悠理を何より臆病にさせ感情を不安定にさせた。そして悠理は徐々に表情を殺していくことになる。内なる闘志と外なる冷静が彼を覆う。押し殺す感情のなかで空手という名の砥石で心の刃を磨いていく。




それが彼の精一杯なる自己防衛だった。








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