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雨夜月に抱かれて 第一部 初恋編  作者: 冬鳥
2010年12月23日。愛知県西尾市の須和新汰。そして原点。始まりの過去へ。
20/40

ハンバーグ


12月25日。深夜。新発田市


唸るような強い風が北西方面から吹き荒れてくる。それは明らかに異常なまでに不機嫌さや怒りが感じられるような風だった。大陸から佐渡を抜けて運ばれた寒風が一人の男の心を揺さぶり続けていた。真冬の深夜に歩くこの男に向けて吹く北風は酷く挑戦的ともいえるようだった。だが彼はいくら冷たい風に襲われようと感情が拾われるようなことはなかった。彼はコートの襟に触れることも手に息を吹きかけることもしなかった。やがて上空からは雪が落ち始めた。


12月26日に変わろうと突き進む時の流れ。強い北風はおさまり変わりに細かい雪が空気に混ざり始めていた。小さな結晶が彼の頬を僅かに濡らしていく、まるでなにかを労わるかのように優しい雪のよう感じられた。彼は結晶を指に抱き僅かに香りを嗅ぐとすぐに全身が冬の香りに包まれていった。



過去の記憶はときに鮮明でときに曖昧で、苦しみはまるで風船のように中身なく膨らんでいくもので逆に喜びなどは遠い前世の記憶のようにすぐに萎み始めていく。きっと人は辛い過去を忘れながら生きていかなければ破滅するのだと彼は自覚していた。


彼は雪の優しさにふれたときに、過去のあのときから立ち止まったままの自分のことを酷く空虚なものだと感じた。永遠がもしあるならばあの人を想い続けたいと願いながらもきっと永久なんてものはこの世に実在しないのもわかっていた。ただいえることは愛する人を守ることができなかった過去の悔恨がいいまも巨大な重りとなり背中に圧し掛かる日々だった。


人は前に進むために過去を忘れていくというのに。人は生きていくために捨てていくものがあるのに。自分にはどうしても捨てられない過去がある。


必死に手探りで掴もうとする、もう一度もう一度だけ逢いたいと繰り返す。彼は影に手を差し出す、もう一度だけ僕の手を握ってくれお願いだ。と。


空虚でもいい、永遠に立ち止まったままでもいい、ずっと僕の心はあなたのものなのだから。


やはり自分はあの人を絶対的に忘れられないのだと自覚する。



国道7号線を走り抜けていく大型トラックの群れが荷台の幌を鳴らす。その乾いた音がいまある現実の空間へと彼の心を戻らせる。目の前に広がる暗闇と色あせた情景は生きる生命が進行形に積み木を積み上げている世界だった。車がタイヤを転がしていくように時も同じく進んでいくのだ。

立ち止まってはくれない。


彼の溜息が宙に舞う。



彼は自分自身の強く握り締めた右手を見つめる。30年間生きてきた証が年輪のように皺となり浮かび上がっている。過去の絶望と虚無はいまも身体中に刻まれたまま。対照的にその失意なるものを嘲笑うかのように空手で鍛えた勇ましさの刻印が拳に宿っている。あらゆる感情と記憶がこの手はいまも掴み続けていることになる。


固く盛り上がったままの拳骨がある、頭巾状に膨らんだままの中指があり僅かに曲がったままの薬指がある、日々の鍛練の繰り返しによって鋭い凶器と変貌した手足はいまも彼の思い通りに解き放つことができる。


身につけた強さを憎んだかい?


彼は影に話しかける。




影はいう。僕はあの人を守りたくて一途に強さと勇気を欲した。



続けて、あの人を心から愛していたからといった影は恥ずかしげに頬を染める。





深夜にも関わらず輸送トラックが行き交っている。喧噪たる師走は深夜にも影響を及ぼす。


突如。



彼の頭のなかにショパンのノクターンが現れる。円舞曲なので優美であるがこの曲は夜想曲でもある。前半を支配するのは情緒であり静けさが漂い寂しさと儚さも追尾する。後半は一転してワルツならではの舞踏に引き連れていく。ショパンのノクターンといえば第二番が有名だが彼は第一番部分が好きだった。


流れ始めるクラシックに彼はありのままに耳を傾ける。



自分は深い深い森の中にいる。そこは暗黒が支配する世界だ。未知なる恐怖から逃れるために暗黒に身を潜める。何故そんな暗く湿ったところに一人でいる?何故?自らが答えるには変革を求められることが怖いからだ。いつしか森は徐々に失われていき木々の隙間から射し始めた光が優しく誘う、手招きするように。自分は思った、この光はなんて美しいのだと。自分の身体の一部が求めだすのがわかる、鬱積が心のドアを激しく叩きはじめる。出よう、この森を。出るんだ!身体中に伝播し始めた好奇と希望によって意を決するそれは自分だけの積木をまた積み上げるために。


ゆっくりと平原へと向かう、押しつぶされそうになる不安と猜疑心を抱えながらそれでも一歩ずつおそるおそる進んでいく、彼は慣れ親しんだ森の深い闇を何度も振り返りながらも光を目指す。そして森を抜け燦然たる光を全身で浴びたときにいままでの過去を悔やむ。


ああ、これほどまでに森の外は・・・光は・・・空気は・・・温もりは眩しくて暖かくて気持ちいいのだと。


頭のなかで流れるクラシックと視界に広がる暗闇が同調する。


薄汚れたガードレール。道沿いに佇む朽ち果てた建物。発展していく文明の片隅で脱却を失う深い森の中。走り去る車は果たしてどれだけの好奇と希望を運んでいるというのか!


歩行を続ける行為は何一つ違和感が消えゆく。いま同化を繰り返すのだすべての物体と。


心を無にする。


肺に溜まった酸素を長い呼吸によって吐き出していく。





彼は自らの胸をいつものようにゆっくり強く二度叩く。内部に籠る心臓に訴える。



冷静に受け止めろ。何事であっても冷静を欠いたら負けなのだ、心の前面は冷静に支配させるただし心臓だけは違う、いま滾らせろ誰よりも熱く熱く。


空手というものを一から教えてくれた渡辺という男の言葉を彼は心臓に刻み込んでいた。二度ゆっくりと強く叩き再び覚醒させる。



心臓が血液に乗せて全身に送り込むのは自信であり希望のみ。


空手の試合の勝敗は一瞬の技の攻防で決まる。


彼は脳内に流れるクラシック音楽のボリュームを上げた。それによって身体は震え出す。外部の音は何も聞こえない。

目の前には加治川を超える大きな橋が見えていた。


彼はいま影がすぐ隣にいる気配を感じ始めていた。





あの事故が起きてから七海葉月はよく秋月悠理の家に夕食を食べに来るようになった。悠理はとてもうれしかった、大好きな葉月と一緒にご飯を食べれるのだ。そして食べ終わったら母親と一緒に流し台に並ぶ葉月の後姿を見ていられるのだ。


ピンポーン。


チャイムが鳴り悠理は待ってましたと言わんばかりに小さな二つの部屋とキッチンがある部屋の中を駆け足で玄関へと向かう。



「はいはいはい!」


勢いよく玄関のドアを開けると予測通りの胸のドキドキが悠理を襲い始めた。


目の前に葉月がいる。


「葉月上がって、どぞどうぞ」


「ねえ悠理。ほんとに今日もいいのかな。おばさんに悪くないのかな・・・」


「いいからいいから、気にしないしない。上がってよ。お母さんだって葉月が来るのすごく楽しみに待ってるんだよ。さあ気にしないしない」


悠理の喜ぶ大きな声は葉月をリラックスさせていくようだった。葉月は笑顔になると上がり口で脱いだ白い靴を綺麗に揃えてから中に入っていた。


「葉月ちゃんいらっしゃい。お腹減ったでしょ、どうぞどうぞ遠慮なくまずは座って」


「ありがとうございます」


「ううん、いいのよ気にしないで。さ、たくさん食べてね」


テーブルに並ぶのはハンバーグとエビフライだった。


「やった!ハンバーグだ」


悠理は早速ハンバーグに箸を付けようとする。


「こら悠理。きちんといただきますをして」


「はいはい、いただきます!うっめえ!お母さんのハンバーグは最高に美味しい!葉月も早く食べてみて」


はしゃぐ悠理を見て葉月はくすっと笑った。



とても楽しい食卓だった。学校での出来事や下校後に公園で遊んだことを身振り手振りで楽しそうに話す悠理。


葉月も悠理や新汰と一緒に公園で遊んだ時は悠理の母親に楽しそうに話した。


「公園でみんなでかけっこしたら悠理が断トツで一番だったよね」


「うん。かけっこは誰にも負けないよ、ほかは新汰に全部負けちゃうけどね」


悠理がボールを投げる真似をすると手がコップに当たりそうになり慌てて引っ込めた。


「悠理と新汰はほんと仲良しだもんね」



葉月が箸を上手に使ってハンバーグを口に運ぶ。悠理はそれを見ながら


「葉月も仲良しだ、みんな仲良し。でしょ?」


「うん!」


満面の笑顔になる葉月。


母親はフライパンにある残りのハンバーグを見て思い出したかのように


「あ、葉月ちゃん今日も葉月ちゃんのお父さんの分もあるから帰りに持って行ってね」


と言った。


すると箸を動かしていた葉月の手の動きが突然止まった。


「・・・・・」


葉月は箸を落とした。そして泣き出した。


「・・・ありがとうございます・・・」


「ううんいいのよ、明日もいらっしゃいな葉月ちゃんはなにも気にしなくていいから。明日も明後日も来てね」


「はい・・・」


声を押し殺して泣く葉月。一滴の涙がハンバーグの上に落ちた。


悠理は必死に堪えていた。僕は泣かない。


新汰と誓ったから。


葉月を必ず守る。


食べ終わると葉月が手伝いますと言って母親と二人で食器を洗いだした。葉月は背伸びをしながら一生懸命に手伝っている。悠理は二人の背中を頬杖をつきながら見続けた。


悠理はこの光景をずっと見ていたいなと思った。


毎日見たいと。


「葉月!明日も絶対に来てね!」


「うん!」


振り向いて大きく頷く葉月に悠理も笑顔で応えた。




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