結城リクの瞳
彼の名前はリクだ。結城リク。マスターから結城の下の名を聞いたとき彼女はすぐにわからなかったが、
いま合点し深く頷いた。彼が先ほどから話すストーリーに出てくる登場人物の一人の男の名がそうリクだった。そして結城はこう言っていた。
リクは、ユウリとアラタの親友だと。
樹里は見事なまでに結城に心を奪われてしまっていた。今までの人生で得た恋愛経験がすべて偽りなのかと思うほどだった。
結城リク…リクか。
リクは漢字でどう書くのかしら。陸?
彼女は彼の名を心のなかで何度か呼びそして未知のなかにいる自分の存在を意識した。私はこの先なにかが壊れてしまうのだろうか。彼女はトイレから戻ってくる結城に気づくと少女のように頬を赤らめていた。
彼女は考える。もし色で例えるならば彼はいったい何色なのだろう?と。不思議な影に覆われたままの群青色が似合うか。それよりもマグマのように沸る赤?どれも違う、彼には色がない謎だらけ。彼に覆われた影は私が思うただの幻想だと考える、彼女は彼を少しでも現実的に見ようと思った。この先私は私で居続けなければならないのだから。と。男によって生きる意味はきっとこの先も見いだせないのだから。
「もう!相変わらず歩く姿もかっこいい。わたしはね今日は抱き枕を抱きしめてよく眠れるわ、小娘よ、仕事しな」
捨て言葉を残して急いで定位置へと戻っていくマスターは僅かに両肩を揺らしていた。彼女はマスターのそんな背中に向けて
こちらにはもう来ないでくださいねと呟いた。
カウンターの定位置に戻ったマスターは上唇をめくりあげこちらを窺ったままだった。グラスを拭く手はなんだかおろそかにも見えた。さてマスターはいったい何が心配で何が気に喰わないのか。彼女も同じく歩いてくる結城リクに見惚れていた。マスターが心配なのは決して私のことではない、私に誘惑される彼のことが心配なのだ。
「まだ話しを聞いてくれるのか?君の仕事の邪魔にならないか?」
結城は再びスツールに腰掛けるとテーブルに置いたままの黒く鈍く光る眼鏡の隣りにある煙草に手を伸ばした。
「是非お聞かせください。ご安心くださいご覧いただくようにお客様もまだ少ないですから結城様の前に居座り続けてもマスターに怒られる心配もないでしょう。それよりもいったいどうなっていくのでしょうか。先程、お話してくれた場面のところがいまも私の心を色濃く染めております。ユウリ君が同級生のハヅキちゃんを助けるために起死回生の行動をしたのにはびっくりしましたし感動もしました。結城さんの話し方がとても上手くまるで映画のワンシーンのように情景がリアルに思い浮かびました。実際に私もユウリ君やハヅキちゃんと一緒に音楽室にいるような錯覚に」
いまから話すことは深く考えずにただ聞いてほしいんだ。もしかしたら少し長い話になるがいいのか?
差し障りない会話を続けながら彼女がシェイカーを振りカクテルを調合しているときに、結城が唐突に会話を切りあげていった言葉だった。
「わかりました。私などでよろしければぜひお聞かせください。結城さんがこれから話すストーリーはフィクションなのか或いはノンフィクションなのかなどとは考えずに。ですね?」
結城の手元にある空いたグラスに、調合を終えたギムレットを注ぎながら樹里はにっこりとほほ笑んだ。
「ああ。つまらない話しかもしれないがよければ聞いてほしい、ありがとう」
樹里が結城の話を聞きはじめてすぐにこの男性自身の中学時代の記憶を話しているのがわかった。作り話にしては空想的や冒険的な要素があまりに少なく現実的だった。すべてがノンフィクションで虚構などないのだろう。
そして彼女は結城が席を外している間に登場人物のリクが男性自身なのもわかった。
髭面の小太りとしたマスターが「今日は土曜じゃないのに結城ちゃん来たな、あ、そっかもう年末ねお仕事お休みなのねきっと」とキャッキャと喜ぶ姿を見てから一時間ほどは経過していた。いままでせめて一度くらいは上ではなく下の名前で彼の来店を教えてくれてもよかったのにと樹里は思った。
目の前にいる男がそう、リクだ。そう思うと彼女はますます話のなかにのめり込んでいった。話す彼の表情にもうっとりと見とれた。結城が旧友であろう仲間達の名前を口にするときの眼差しは何とも言い難い甘さなるものが浮かんでみえた。
「結城さん、ユウリ君はかっこよすぎますね。大好きなハヅキちゃんを守るために単身で音楽室に乗り込みイジメはリスクある遊びだというのを逆に加害者側に恐怖感として植えつけさせた。イジメを続ける覚悟はあるのか?と。このようなことは中学生では考える事も実行することもかなり難しいことだと思います。たとえ大人であってもほとんどの方が考えつけないことであり或いは実行の寸前で尻込みしてしまうことだと私は思います」
結城は彼女の言葉に小さく頷いてから煙草に火を付けた。
「ユウリはそんな奴だ。仲間であるおれですら想像しなかったことをいとも簡単にやってのける、そんな男だった」
「しかもユウリ君は中学生ですでに武道の使い手でもあった。喧嘩をすれば負けなしだったですよね?」
彼女は結城の話すユウリという友達の顔がどうも想像しきれずにいた。反対にもう一人の登場人物であるアラタという男はうっすらと出来上がる投影なるもがあった。そして大きな疑問がある、ハヅキはどうしてイジメを受ける側の女の子になってしまったのだろう。もしユウリとアラタがいなかったらハヅキはもっと落ちるところまで落ちてしまっていたのだろうか。
「そうだとにかくあいつは喧嘩がめっぽう強かった。とくにあの蹴り技にはなにかが宿っているようにも見えた。だがあいつは…それは逆にユウリの弱点でもあった」
「え、弱点?ですか、喧嘩が強いのは大きな強みになるイメージですけど違うんですか?」
その質問に対して結城の答えはなかった。
「次はユウリ君のライバルであるアラタ君の挽回ですか?アラタ番長がハヅキちゃんを悲しませる人達をまとめてぎゃふんといわすのでしょうか。それともユウリ君とアラタ君が力を合わせて退治するのでしょうか。早く続きが聞きたいです気になります。ちなみに私が恋をするならアラタ君のほうかな。ユウリ君はあまりにも完成されていて近寄りがたいところがありますよね。アラタ君からは壮大な大地のような温かみが感じられるんです。でも一番素敵なのは二人の騎士を見守るリク君かな。あ、すみません、私のタイプは関係ないことですよね、でもこれだけは感想として言いたいのはとてもハヅキちゃんは羨ましいなということです。ハヅキちゃんは二人の男からとても愛されていたんですね」
彼女はくすくすと笑いだした。
「私は結城様が話す物語の世界にすっかり入り込んでしまってますね。これも結城様の語りがお上手だからですよ」
「それは嬉しい」
結城はグラスに口を付けてからタバコを灰皿に押し当て眼鏡を手にした。
「少し酔ったかな。すまないがまたトイレに行ってくるよ。もし続きが聞きたくなったらまたいつでもおいで。おれはまだしばらくここにいるから。若い奴らでここが賑やかになるのも嫌いではないからね」
「はい!ありがとうございます」
結城は眼鏡をかけてから席を立ちあがると、樹里に微笑みを返してからトイレがある方へと歩きだした。結城にはわかっていた、手の平で震える携帯電話のバイブ音は事の始まりを告げていたのだ。
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結城は震えたままの携帯電話に全神経を集中していた。止まらないバイブの振動はどこかただならぬ雰囲気なのを自覚していた。理由はおおいにある。なぜバーテンダーに中学時代の自分の過去をくどくどと話したのか。それはいま震える携帯電話に深い意味があるからだった。ここから決して予想できない未来が待ち受けてるのを結城にはわかっていた、これから起こるであろう出来事に少しでも冷静でいたい、過去を克明に思い出しその過去を償うためにいまから戦うことになる、冷静さがなければこちら側に勝ちはない。過去の話しをした自分が確かにここにいる。リクは震えはじめた身体に何度もいう。
ついにこの時が来た。ついに。
扉を引いてトイレに入ると、誰もいないことを確かめてから震え続ける携帯をポケットから取り出した。着信者の名前は予想通りだった。ディスプレイ画面に浮かびあがるのは水樹という名。水樹は結城にとって大小関わらずあらゆる平和や安らぎを与えてくれる女だった。
結城は安堵による呼吸をする。水樹の声が訊けるのは素直に嬉しい。ああそうか、一人で抱え込むことができないほどに俺は弱っていたのかと自嘲したくもなる。深い呼吸が喉元を通り過ぎ、やはり水樹の存在は大きいのだとも気付かされる。リクそこまで不安になることはないよ私もいる。水樹ならきっとそう伝えてくるはずだ。昔からいつも微笑みをくれる女であり知恵や秘密を共有する女であった。だが同時にある男をより克明に浮かび上がらせることにもなるのだが。
結城は目の前にある鏡に映る眼鏡をかける自分を悲しい表情で見つめた。15年前と変わらない部分をいま探してみる。悠理はいまの俺を見てどう思うだろう、それは鏡に映る自分を見るときにたえず気にかけてきたことだった。気づけばあれから15年が経過していた。悠理、俺たちは30歳になったよ…。
悠理と共にいたあの中学生三年間がリクのすべてといえた。
秋月悠理と別れたあの日から俺の中で死んだままの何かと同時に生まれた何か。
リクは携帯の通話ボタンを押した。こちらが声を出す間もなく向こうの張り上げた声が鼓膜まで響いてきた。
「リク!いまどこにいるの?」
「名古屋にいる」
「名古屋に?いつから?」
「いつから?」
水樹椎奈の受け答えにひどく違和感を覚えた。
「椎奈。なにかあったのか?」
「いまのあなたはリクね、あなたからの着信が続けて二回あったてことはついに現れたってことだよね、そしてわたしから早急にリクに伝えなければいけないことがあるの、さっきここに電話があった」
リクの鼓動が急激に早まる。
「だ、だれから?ま、まさか」
「うん、ユウリの名前を出した。私は出れなくて受付の子にただ名前を言って水樹に伝えてほしいと言って切れたって」
リクの唇はガタガタと震えだしていた。
「リク・・・。敵もこっちにいるってこと?愛知に?それでこれから私はどうすればいい?。葉月先輩が危険ならすぐに先輩のところに行くよ、場所はわかってる。それとも新汰に?敵は新汰にいくのも考えられる?」
「何言ってんだ新汰なわけないだろ、まず守らないといけないのはお前だ!」
守るのはお前と…
「悠理だ」
「いまどこにいるんだ、まだいまも職場にいるのか?」
「うん」
結城は事の再開を告げる笛の音を確かに聞いた。
@
その2日前。12月25日。
新潟県新発田市。
渡辺商事の営業部に一本の電話が鳴り響いた。
「秋月部長、電話です」
パソコンに向かい今日発注する見積もり書の入力をしていた男は顔をあげた。
「誰から?」
秋月と呼ばれた男は右手でマウスを動かしながら受話器を握る事務員と目を合わせた。仕事関係ならばデスクに置かれた個人所有の携帯電話にかかってくることがほとんどだ。営業部のそして直接自分宛てに電話をしてくるのは会社の上層部くらいしか考えられない、彼は手にしていたマウスを離すと大きく背伸びをした。いやはや、今日はなにを言われることやら。つい先日は専務取締役からの叱咤激励をくらったばかりだった。果たして今日は。
「さては渡辺社長か?」
福井県に本社を置く機械部品中堅メーカーである渡辺商事はいま新潟での新規開拓に力をいれていた。なぜ新潟なのか?簡単な理由だ。震災があれば復興に使われる機械が売れるからだ。人が災難にあった日を吉日とみる。震災に見舞われた新潟中越をビジネス一大拠点として捉えたのだ。その先頭を切るのが若くして営業部長までのしあがった秋月悠理だった。30人の営業部社員を束ねる役目も兼ねながら新規顧客を開拓していく。洪水のように押し寄せてくる重役達の期待を一身に背負う新潟県新発田支店営業部は毎日が戦争であった。とくに年末においては一分一秒でも無駄にできない忙しさだ。見積書を作成して得意先を回り会議までに帰社してまた発注書や依頼書の作成が待っている。予定は午後九時までびっしりと埋まっていた。たとえ今日がクリスマスだとしても変わりはなかった。
彼はいま事務員への受け答えも煩わしく思えていた。再びパソコンのモニターに顔を向けて事務員の女性の名前を営業部内の通称で呼んだ。
「まりちゃん、どうせ社長か専務あたりだろう。トップでも誰でも関係ないから適当に俺はどこか外出していると言っておいてくれ。ほんとに適当でいいから、ったく、この忙しいときに本社は呑気なものだ。他の支店の売上の悪さをこちらにぶつけてきやがる。また週末は本社に呼ばれ社長の説教を長々と聞くことになるんだ。ああそうだ、社長ならまりちゃんからも少しは嫌味を言っておいてくれ、君なら大丈夫だ必ず許される」
彼の声が聞こえた社員が一様に笑顔を浮かべた。
ぶつぶつ言いながらパソコンのキーを叩く悠理に事務員だけは困惑した表情をみせた。
「あの・・・いえ・・男性の方で部長に、いえ秋月悠理さんに愛知のユウキリクと言えばわかるといってますが・・どうしますか、適当に外出中と伝えておきましょうか」
「な、なに?ユウキリク?」
彼は顔色を変えた。