四葉との別れ
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それはある日突然だった、目と鼻に触れるほどのわずかな距離に悪魔が現れる。驚きのあまり悠理は悲鳴をあげようとするが声は遥か過去に失われたように出すことができない。身体も動かすことができず瞳を閉じることすらできなかった。すべてを受け入れるしかない定め事のように悪魔は悠理の顔に寄せ合うほどに近づき裂けた口元から生温かい息を頬にゆっくりとそして長く吹き付けていく。悪魔、それはいにしえの人間達がどれほどの叡智を駆使しても創造すらできないほどの極限なる醜い姿だった。生きとし人を死の世界へと断然と忽然に連れていく狡猾な残忍さを、突き出る二本の牙に宿していた。
得体の知れない大きな力によって招かれるように死地へと赴いて行った七海四葉と四葉の母親。悠理が描く悪魔が連れ去っていった。まだ六歳だった四葉はこれからどれほどの数の幸福を知ることができたのだろう?悲しみや苦難を乗り越えたさきにある喜びや達成感をどれだけ味わえたのだろう。九歳の悠理が感じた悪魔の存在。醜い残忍な何かが葉月にとってかけがえのない家族の命を一度に二つ奪っていった。
悠理は寝付けない日々が続いた。四葉が見せてくれた笑顔と愛くるしい声。そして悠理が想像する四葉が感じたであろう死ぬ間際の恐怖に絶望的な痛みや苦しみ、悲しみ、それらを考えるとあらゆる感情が入り混じり涙が止まらなった。夜中に目をはらしながら何度目かのトイレに行く。隣の部屋では父親が酒を飲みながら眠ったらしく明かりとテレビが付いたままだった。同じマンションの住人が亡くなってもこの人はまったく意に介さないというのか。悠理は冷たい視線を父親に向けながら忍び足でトイレに向かった。
部屋に戻ると悠理の隣で寝ていたはずの母親が起きていた。
「眠れないの?」
「・・・ねえお母さん。・・・悪魔っているよね。四葉は悪魔に連れて行かれたのかな。四葉は痛かったよね・・・悲しくて辛くて。お母さん・・・死ぬってどういうこと?どこに行っちゃうの?僕はもう二度と四葉に会えないの・・・」
悠理は泣きじゃくりながら母親に問いかけてた。
母親は言った。
「悠理おいで。一緒に寝よ」
母親は悠理を抱きしめたまま横になる。母の柔らかい胸の膨らみが悠理の頬を包み込んだ。
大きく柔らかい母親の胸に顔を埋めていると深い優しさと温もりによって守られているという安心感に包まれていく。やがて悠理に深い眠りが訪れた。
四葉を奪った悪魔がいる。
その悪魔は人か?想像か?運命を決行する処断人か?
事故から一週間ほど経ったころにマンションの住人のなかで繋がりがある者たちが七海家に集まった。七海家の表札が掛かる402号室は四階の左端から二つ目の部屋になる。
悠理がいつも背伸びをして押すチャイムを今日は母親が押した。
一階の階段を上がる時から「葉月!四葉!あそぼー」
悠理は名前を連呼しながら二階、三階と駆け上がっていく。
三階で新汰が顔を出して悠理の後ろを付いていく。
「おい待てよ!俺も一緒に遊ぶからな!」
402号室の玄関チャイムを鳴らすと葉月と四葉がすぐに出てくる。そしてここにいるみんなが和んだ表情を浮かべた。
「悠理の声はほんとよく聞こえるんだよね」
葉月がいう。
「おにいの声はうるさい」
四葉がいう。
だが今日は違った。
玄関を開けたのは葉月一人だった。
「悠理・・・」
いつもの笑顔なんてなかった。
あるのは泣きはらす葉月の顔だった。
悠理は必死に涙を耐えて話しかけようとする。葉月に話す言葉は何度も考えてきた。励ます言葉を何通りも頭に入れてきた。なのに、なのに。
「ハヅキ・・・」
そのあとは何も言葉が出てこなかった。
部屋の中に通してもらうと10人ほどの大人たちが襖を外して仕切りをなくした部屋のなか座り込んでいた。
部屋の隅には新汰も体を小さくさせて座っていた。
仲の良かった家族が集まり偲んだ。
葉月の父親は毅然とした態度をしていたが、誰かがぽつぽつと四葉や葉月の母親との思いで話になると、父親は睨むように位牌と二人の写真を見つめ、そして溜めていたものが決壊するかのように泣き崩れた。
「・・・あ・・・ありがとうございます・・・あ・・・ありがとう・・・ございます」
父親は泣きながら何度も頭を下げた。額が何度も畳にこすれ涙によって畳の色が変わっていった。
この小さな畳の湿り気が水中で苦しんだであろう四葉とおばさんの心に少しでも溶け込んでいきますように。
悠理はそう願った。
みんなに愛されていた。
みんなが泣いていた。
この場にいる者たちは憎むべき対象がいないぶん憤りを欠いたままに悲哀へと傾斜した。
数十分後。
悠理と新汰はマンション隣にあるいつもの公園にいた。二人は鉄棒の横にあるいつも孤独を抱えこんだような木製のベンチに両足を抱え座っていた。
一人は泣いていた。
一人は無言のまま空を見上げていた。
悠理はしくしくと涙を流し新汰は目を赤くしながら何かを睨みつけるかのように頭上にある星を見上げていた。
「なぁ新汰。・・・もう会えないのかな・・もう二度と四葉に・・・会えないのかな・・会いたいな。もう一回会いたいな」
「そんなの俺に聞くなよ、そんなの知るか」
とても速く夜は深くなっていく。
「可愛かったよな四葉。おばさんもすごく優しかった。もう・・・ぐっ・・・会えないんだよ・・絶対にさ。ヒクッ・・・ヒクッ」
悠理が涙を両手で拭ったときに新汰は勢いよく立ち上がった。木製のベンチがミシリと泣いた。
「いい加減にしろ!もう泣くのはよそうぜ!」
「え?だって・・・何言ってるんだよ、死んじゃったんだよ四葉もういないんだよ。さっきから新汰はなんか冷たいよ!」
「だからうるさい!もういいだろ!おまえがめそめそ泣くな!」
新汰は深い怒りを排斥するように足元にある小石を思い切り蹴り上げた。
「なに怒ってるんだよ、新汰は何とも思わないの、悲しくないの!」
悠理も立ち上がり怒鳴り返した時に胸倉を掴まれた。
「ぐっ、な、なにするんだよ」
「いいか!よく聞けよ」
新汰は掴む胸倉を離してから悠理の肩を押し距離を作った。後ろに押された悠理が新汰を睨む。新汰の目は真っ赤に充血していた。
「俺らより葉月のが数十倍、いや数万倍も辛いんだ。なんでお前がそんなに泣くんだ?。学校でも毎日メソメソ泣いて葉月の前でもメソメソ泣きやがって!いいか、四葉が死んじゃったのは俺だってとても悲しいよ!でもお前がメソメソ泣いたってもう会えないんだ。葉月のがすごく辛いのにお前がこんなに泣いてばっかで・・・葉月の前で・・・そんなのはダメだ・・・悠理のバカやろう!」
途中から新汰も泣いていた。
「新汰・・・」
悠理は知った。新汰はずっと泣くのを我慢してきたのだと。もっと辛い悲しみを背負った人がいるのだから。その人の前では決して泣かないと。
「いいか、とにかく・・とにかくだ!俺とお前で葉月を守るんだ、これからずっと葉月を俺たちで!必ずだ」
新汰は自分の胸を強く二回叩いた。
「わかったよ・・ごめん」
「よし。もう泣くな悠理。そして強くなれ、いや、二人で強くなろう、おれたちの誓いだ」
今度は新汰が悠理の肩に優しく触れた。
「わかったよ・・・俺はもう泣かない、絶対に泣かない。葉月を一生守るんだ」
「ああ約束だ。守ろう、なにがあっても。俺たちのこの手で。な、悠理」
七海葉月を守る。何があっても。必ず。
空には幾つもの星が出ていた。滑り台が月明りで白く光り風が公園のネットを揺らした。
「おにちゃん」
そのとき二人は聞こえた。
それは風が何かを揺らした音かもしれない。はるか遠くで見知らぬ子供が言ったのかもしれない。
だがそれは。その声は。
二人は顔を見合わせた。
「おにちゃんありがとう。大好きだよ、おねえちゃんを守ってあげて」
空から聞こえたのだ。まるで星が二人に話しかけてきたように。滄溟なる天使の声が降ってきた。
もう泣かないって決めたばかりなのに。
二人は地面に突っ伏して泣いた。