母と宗教
悠理は玄関のドアを閉め葉月の視線から遮断されると同時にシャツを脱ぎ始めた。だが汚れと汗によって服が身体にへばりつきすんなりと脱げないことが悠理をより苛立たせる。「ああもう!」ようやく力任せに脱いだシャツを床に思いきり投げつけそれからズボンとパンツを一気にずり下し同じように投げつけて素っ裸になった。そのとき悠理は何かの悲鳴を聞いた気がした。痛みによる悲鳴なんかじゃない、悲しみに近い悲鳴の声だ。いつも母が洗濯をしてから干して乾いたら畳みタンスに入れられるそれら服の悲鳴を悠理は聞いた気がしたのだ。「え、どうして?」何度も繰り返す脱皮によってようやく羽を備え最終形態となった昆虫が過去の自分との決別のためにそうするかどうかはわからないが、悠理は放心したようにしばらく脱ぎ棄てたものを見続けた。どうして服が泣くのか、時間でいえば3分ほど悠理はぜんまいが切れたからくり人形のように服の抜け殻を見続けていた。
ママはどうしていつも出かけてしまうのだろうと悠理は考える。シュウキョーというのは僕とママが離されてしまうことを喜びと感じているのだろうか。それはひどくパパが怒ることなのに。なのにママはどうして
悠理は母親に聞いたことがある。
どうしてママはシュウキョーになんか行くの?…
そう質問したときに母親は悠理の両肩を掴んで真剣な眼差しで言った。
「これは悠理のためよ」
玄関の扉を挟んで葉月と四葉の笑い声が上がる。その声は最善なるスイッチの役目となり急激なスピードで悠理を現実世界に戻していく。
「あ、葉月がいる、急がないと」
悠理は床に寝そべる抜け殻を拾い集めて洗面所に向かい洗濯機のなかに放り込んでから鏡の前で手と顔に石鹸をこすり付けるようにして洗う。悠理の手から汚れた色の水があふれ出し排水溝に勢いよく吸われていった。洗顔を終えると部屋を移動してタンスの前に座り服と下着を引っ張り出す。葉月と四葉がすぐそこで待ってるということが悠理の動作に常に焦りを伴わせた。急ぐあまりにパンツの向きを間違えて穿いてしまったがまた脱ぐ気持ちにはならずそのままにした。それからズボンをジャンプしながら着て洗剤の香りがまだ仄かに残るシャツを着た。「よし!」台所を素通りしてそのまま玄関に行こうとしたが悠理は再び足を止めて周りを見渡した。またも感情になにかブレーキがかかってしまう自分に憤りすら覚える。だがそう思っても足が進まないのだ。一家三人でご飯を食べる台所に置かれたテーブル横にいる悠理は溜息混じりに三脚ある椅子の一つに手を置いた。シンク台周辺は綺麗に片づけられているが、それは逆に母親が晩御飯の準備を何もしていないまま出かけたことを意味している。シャツに通した腕をさすりながら壁に掛けられた時計を見ると針は16時5分を指していた。悠理は秒針が進んでいく時計を見ながら、とにかく今日は父親が早く帰宅しないことを願った。もし万が一、母親よりも父親のほうが早く帰宅してしまったら。そしてもしそのときすでに父親が酒を飲んでいたら。そのもしの先にある現実を考えたときに悠理は恐怖で身体が震え始めるのを自覚する。父親に怒鳴られ殴られる母親。その光景から顔を背け部屋の隅で泣き続ける自分。悠理は思う、無くなればいいんだと。シュウキョーとサケなんてこの世からすべて無くなればいい。
僕はただここで楽しい時間を送りたいだけなのに、ママが料理する後ろ姿をパパとここで座りながら見ていたいだけなんだ。
ーママはね悠理のためにやってるのー
悠理はどこにも持っていけない強い孤独感が心の奥にあった、内部でそれを飼ってしまったことを自らの弱さとして受け入れ、にじみ出る偽りの色を必死に演じそして無理矢理に作り上げていこうとする。まさに負の連鎖だった。
「おにいまだかなぁ」
玄関の向こう側から聞こえる葉月と四葉の声が悠理を恐れや不安から少しだけ解放する。悠理は流れ出た数滴の涙を綺麗なシャツの袖で拭ってから玄関に向かって走り出した。
「なんだ二人ともまだいたんだ、オレを待っていなくてよかったのに」
扉を開けてすぐにつんけんとする悠理を微笑ながら見守る葉月がすぐ目の前にいた。
「なんでよ一緒に行けばいいじゃない。私と四葉が待ってたんだから、ねえ悠理、ありがとうは?」
葉月の笑顔とともに出る言葉に悠理も少しだけ微笑んでみせた。
「ありがとうは言わないぜ。ま、嬉しいけどな。よし、三人で公園に行くか」
葉月と手を繋ぐ四葉が悠理の肩先にちょんと指の先で触れて
「おにい着替えてきたな、なんかいい匂いする。なら手を繋いでやるよ」
と言ったので、悠理はにこっと笑って四葉と手を繋いで走り出した。四葉のもう片方の手には葉月がいる。
「なんだか線路渡ったとき思い出すね」
葉月がそういうと悠理は走る速度を速める。
「おにい速すぎる。電車はこないよ」
そういって四葉は大声を出して笑った。
三人は走ってマンション出入り口を抜けて向かいの道路に出た。公園はすぐそこにある。
「呼んできたよ」
悠理が先に公園に入っていき、手を繋ぐ葉月と四葉がその後ろに続いた。三人の到着を待っていたのか新汰はでかい身体を弾ませながら近づいてきて、「葉月遅いぜ。悠理はやっぱ着替えてきたんだな」といってからからと響く声で笑った。公園にはいつものメンバーが顔を揃えていた。新汰の他にはブランコに乗りながらこちらを見ているコウジ。鉄棒のところには新汰と同じクラスの男子が二人いた。滑り台の下には麗奈もいる。
「あ、麗奈ちゃん」
葉月は四葉を連れて麗奈がいる滑り台のところまで話しかけに行った。
「麗奈ちゃんは今日は学校早く終わったの?」
葉月が聞くと麗奈は「うん」と頷いた。
「よーしいまからみんなでかくれんぼしよう。悠理と葉月と四葉が来るまでに決めちまったことだからな。今日は日が沈むまでかくれんぼだ!」
新汰は公園中央にみんな集合だ!と号令をかけた。新汰らしい大きく力強い声で。