三年生の悠理の気持ち
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小学三年生の悠理と新汰は各々が持つ自分なりの特徴を模索し始めていた。体格や知能や性格が色となり印象として相手の視覚に入り込む。そして子供達はお互いにその色を確認しあい優劣を決めていく。
悠理の持つ色は少々不安定な部分があった。日によって見せる色彩が違って見えて掴みきれない人柄を意味していた。いつからか悠理は同級生の男子からどこか敬遠されていくようになった。団体性というものから見ると悠理は浮いた存在となってしまい危うい立ち位置にいた。学校ではクラスの男子達から疎まれ孤立し排除されることも十分あり得た。だが悠理はそのイジメの淵源へと連れていかれることは決してなかった。悠理には絶大なる絶対的な強い味方がいた。
須和新汰だった。
クラスメイトは知っている。
悠理を敵に回すのは同じく新汰も敵となるそれだけは勘弁だと皆が思った。須和新汰のもつ色彩はこのときから同じクラスの誰よりも特出していた。悠理は自らが知らないところで新汰という強さに守られていた。だがこれも因果なもので悠理の不安定さは新汰が作り上げたといっても過言ではなかった。
新汰はまっすぐ伸びる大木である。太い根を張り揺らぎないものとなりそれが周りを引き寄せる強さとなる。残念ながら悠理は新汰の持つ色彩は持ち合わせてはいなかった。だが悠理は抗いこれでもかと背伸びをした。悠理には新汰がいつも眩しいほどに輝いてみえた。自分も新汰のようになりたいと願った。葉月がいつも褒める新汰を羨んだ。悠理は必死に繊細な性格をがさつに見せ、小心を大胆に見せ、人見知りを親しみやすさに無理矢理変えてとにかく新汰を真似た。それによって息苦しさや不安定さというものを悠理は味わい続けた。悠理が持つ真実の色彩は隠し通された。葉月が褒める新汰を間断なく意識した。
そしてもう一つ新汰とは異なる大きな部分があった。彼はすでに孤独を日々感じていたのだ。
悠理は空手という武道に出会うまで乱雑な色合いは続いていくことになる。
悠理は息を切らしながら階段を駆け上がっていく。目指すは葉月がいる402号室だ、少しでも、とにかく少しでも早く。何か強大な力によって急かされるように悠理は全力で階段を駆け上がる。心臓が激しく波打つ。壁と壁の隙間から陽光が射してくる。一段上がるたびに葉月がより鮮明になっていく。「はあはあ」三階の新汰が住む303号室のドアを横目に見ながら四階に通じる階段に足を掛ける、あとちょっとだ、悠理の勢いは最後まで失せることはなかった。402号室の七海と書かれたプレートはいつもと変わりなく悠理を優しく出迎えていた。「よし着いた」膝に手をついて呼吸を整えながらもう一度「着いたよ葉月」と呟く。そして通路端にある屋上に通じる幅の狭い階段の始まりを何気に覗いてから、頭の高さにあるチャイムを目一杯の力で押すと同時に名前を力強く呼んだ。「葉月!あそーぼー!」
すぐに葉月の「はーい」という声がはっきりと聞こえてきた。
葉月は玄関のドアを開けてまずは悠理のその姿に対して驚きの表情を見せた。
「え!悠理!どうしたの?すごく汚れてるよ」
悠理は肩を弾ませながら頭をぼりぼりと掻いてみせた。服はすでに泥んこになっていた。
「さっき公園の横にあるどぶ川に落ちちゃった。飛び損ねた。ねえ臭い?」
「うん。臭い」
葉月は鼻をつまんでわざとらしく悠理の肩を指で強く押した。
「うわ!何すんだよ、ばい菌扱いするな」
「悠理着替えてきてよ。ほんとに臭いよ」
「葉月いったな、そこまで臭くはないだろ!ちょっとだけだ」
「えーこの臭いがちょっとだけ?相当なものよ」
「かっちーん」
悠理が鼻息をふんふん鳴らしながら腕まくりをする。それを見ている葉月は鼻を摘まんだままだ。
「おもいきりげんこつするぞ」
葉月は少しだけ怖い顔をしてから腕組みをした。
「してみなさい、したら百倍返しだから。ほら悠理、私にしてみなさいよ」
「う・・・百倍って」
握り締めたげんこつを解き、まくった袖を伸ばしはじめる悠理を見て葉月はちょっと言い過ぎたかなと後悔した。いつもの悠理なら冗談を返してくるのに。今日はドブ川に落ちたことのほかにも嫌な事があったのだろうか。
「葉月のパンチは痛いから嫌だ。わかるよかなり臭いよね。だって俺も臭いもん。でもお母さん怒りそうだから帰れないんだよな、乾いてたほうが臭くないかなって」
「私もいまから一緒に悠理の家に行ってあげるから。ね?それにおばさんはきっと怒らないよ」
葉月が会えば必ず悠理の母親は優しげな表情をしてくれる。
「いいよこのままで。いま公園でみんな待ってるよ。新汰が葉月と四葉呼んできてくれって」
「わかったちょっと待ってて」
葉月は悠理を玄関先に残したまま扉を閉めた。悠理はなんだか不安になる。今日は一緒に遊べないのだろうか?。遊べないならとても詰まらない一日になる。黙ったまま扉を見つめていると葉月が何か話しているのが聞こえてきた。悠理は急いで扉に耳を当てた。葉月の声と葉月の母親の声がした。四葉の返事をする声も聞こえてきた。なに話してるんだろう。そう思った時に急に扉が開く。もう少しで悠理は額を強くぶつけてしまいそうになり間一髪後ろにのけ反り扉が開くスペースを確保した。
先頭にいたのは葉月の母親だった。その後ろに葉月が見えた。
「悠理君こんにちは。あら、どうしたのお顔も服も真っ黒よ」
すぐに妹の四葉が葉月を押しのけて飛び出してきた。
「うわ。おにちゃんほんとまっくろ、きったね、風呂入ってこい」
悠理は奥にいる葉月をちらっと睨み付けてから「てへへ」とまた頭を掻く仕草をした。
「悠理。公園で遊ぶまえにまずは着替えてくんでしょ?」
葉月がいうと母親も「悠理君そうしなさいよ」と釘を刺した。
「はーい」
しゅんとする悠理の顔と微笑む葉月の顔があった。
「じゃあ悠理君、四葉も遊びたいって言ってるから一緒にいいかしら」
「もちろん!さあ行こう」
悠理が手を差し出すと四葉は「えーおにいの手きたねえなぁ」と言って、小さな手を腰の後ろに隠してしまった。
「よし、まずはおれんちに行こう綺麗になります!」
回れ右をして階段に向けて走り出した悠理の背中に葉月の母親の「いってらっしゃい」が優しく届いてきた。
「じゃあいってくるね、お母さんきちんと寝ててよ無理したらだめだからね帰ったらお手伝いするから」
葉月の声も同じく悠理の背中を優しく撫でていく。
駆け下りる階段の足音は三人分のステップが響いていく。葉月と四葉は手を繋ぎながら悠理の背中を追いかけていった。「おにちゃん速すぎ!」二階まできたときに四葉が喚いた。
先に悠理が105号室の前まで来て、葉月と四葉が着いたときにはすでにチャイムを鳴らそうとしていた。でもなんだか鳴らすことに対して躊躇しているようにも見えた。自分の家なんだからチャイムなど鳴らさずそのまま扉を開ければいいのにと葉月は思った。
チャイムのボタンに指を添えたままの悠理が葉月のほうを向いて訊いた。
「葉月のお母さんどこか具合わるいの?」
「うん。ちょっと風邪引いちゃったみたいなの、でも大丈夫そんなにひどくはないよ、お父さん今日は帰り早いって言ってたし。それより悠理、早くチャイム押しなよ」
「わかってるよ押すよ」
頬を膨らました悠理がボタンを強く二回続けて押した。そのまま5秒ほど待つが反応がない。
「あれ?悠理のお母さんいないのかな」
葉月がそう呟いたときに玄関の鍵がかちゃりと開ける音が聞こえてきた。そして扉が開いて顔をだしたのは悠理の母親だった。
「なんだ悠理なの。あら、葉月ちゃんも、あとは・・えと」
「妹の四葉です」
「そうそう四葉ちゃんだ。こんにちは」
「こんにちわ」
四葉は丁寧にお辞儀をした。
「お母さんどっかいくの?」
「うんいまからちょっと出かけて来るね、夕飯までにはなんとか帰れると思うから、あ、葉月ちゃん悠理のことよろしくね」
「あ、はい、あ、あの悠理が・・・汚れてしま…って」
「ごめんなさいね、ちょっといまからすぐに出かけないといけないから。悠理、家で遊ぶなら冷蔵庫にジュースとお菓子あるから出してあげてね」
「はい・・・」
悠理の母親は急ぐようにして通路へと出て靴を鳴らし歩いていく。
「おばさん、悠理の汚さに気付かなかったね、なんかすごく急いでた」
葉月には角を曲がって見えなくなった母親の後ろ姿を悠理はまだ追いかけているように見えた、なんだか寂しく見送っているようにも見えた。やがて悠理はなにかを諦めたように口をとがらせてぷいとこちらを向く。
「いいんだよそんなの、ここで待ってる?顔洗って着替えてくるけど。それとも先に公園に行ってる?新汰達待ってるよ」
「いいよここで四葉と待ってるよ、おばさんどこに行ったのかな」
葉月の問いかけに悠理は吐き捨てるように言った。
「ふん、どうせシュウキョーの集まりだよ、夜ご飯までに絶対帰ってこないし、下手すれば夜ご飯のずっと過ぎからになるし」
「え?シュウキョー?て、宗教?」
葉月が訊き返したときにはすでに悠理は家の中に入っていくところだった。
「ばばあは汚れたおにちゃんいたのにどこいったんだろ」
四葉がいった。
「ばばあ?四葉なにいってるの」
「おねえちゃんさっきからばばあ、ばばあ、言ってるよ」
葉月は笑いながら四葉の頭を軽く撫でた。
「ばばあじゃなくておばさんだよ。あれ、おばさんていうのも失礼なのかな?悠理君のお母さんね。ところで宗教ていったいなんだろね」
悠理が着替えて出てきたら、おばさんといったことを訂正させてもらおうと葉月は思った。