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雨夜月に抱かれて 第一部 初恋編  作者: 冬鳥
2010年12月27日 結城理玖の過去へのイザナイ
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雨夜月



真冬の名古屋市内の喧騒に包まれたこの空間から話は始まっていくことになる。


雑居ビルの10階にその男は一人でいた。男が見つめ続ける白い壁にはいったいなんの暗示が彼に示されているというのか、切先を生むような鋭い視線が特徴といえるこの男はまばたきすらも忘れたように壁を見続けていた。まるで身体と命を分離され生きる意味を見いだせなくなった餓狼のようになにかを悲しげに鋭く見つめ続けていた。


視線が捉えるずっと先にあるものを。内と外にあるものを。彼は誰かに問いかける。いったいいまの俺はどちら側にいるんだ?どっちなんだ?男は必死に心の闇を開き問いかける。教えてくれ。頼む、誰か教えてくれないか。



外は真冬の夜空が全てを覆っていた。とても寒い夜だった。冬は静寂の夜、無音が支配する世界がよく似合う。男は肺に溜まった酸素を全て入れ替えるような深呼吸をはじめた。自らが鳴らす呼吸音に耳をすましながらゆっくりと長い呼吸をする。これは彼が現実世界に戻るときの儀式みたいなものだった。男は壁から目を離しテーブルに置かれた眼鏡に触れた。名古屋に雪が落ち始めるのもそう遠くはないことなのだろう。男は眼鏡をかけブリッジに指を当てて壁の向こうにある寒い夜空に浮かぶ月を想像した。彼のなかで一人の男がすぐに浮かび上がる。あいつは三日月がよく似合う。この寒く凍てつく寂しい世界のなかでもおまえは俺に姿を見せているのか。


「探し求めるあの月は・・・おまえは」



男はそう呟くと瞳を閉じて過去の記憶を探るかのようにこめかみに人差し指を当てた。見えるのは雨夜月が照らす厚い雲に覆われた灰色の世界でありまさに幻影なる空間の広がりだった。男は思う、あいつの気配をすぐ隣りに感じていたいのだと。あの声やあの身体の温もり、いままさに自分と同じく夜空を見上げるあいつがすぐ隣りで呼吸をしている、それはとても優しい息遣いだ。克明にまであいつの姿が隣りに浮かびあがる、おれはいますぐにでも話しかけたいのに。おまえの声を聞きたいのに。だがこれ以上を求めてはいけない、俺は俺でおまえはおまえなのだから。それ以上を求めたら必ずおまえは俺を突き放すのだから。


わかっているよ。


男はすべてを突き放すかのように外の情景から、想像する黄色に輝く三日月から、意識を遮断した。


「おまえはまるで雨夜月のようだ」


あの時、中学校の北門でつい発した言葉があった。それは自分に伝えるなにかと

そう伝えた自分。


「雨夜月?」



「ああ、おまえは厚い雲の上に居る雨夜月のようだよ。俺を…照らしてくれないか…たとえどんな…バカみたいな屈辱的な日でも、どれだけ雨が降っていても」



「いいよ。雪の日も雷雨の日も。どんな形の月がいい?」



「うーん。そうだなおまえは満月ってタイプではないな、そうだな、ほら、いま浮かんでる淡い三日月だな」



「あはは三日月ね。いいよ僕は雨の日もクソみたいな日も三日月となってリクを照らすよ」


二人は頭上にいるいまにも雲に覆われようとする三日月に見られてるように感じて笑い合った。





男は白い壁に囲まれた現実にいた。

プールバーのカウンター席の角に座る男はおもむろに酒が入ったグラスに口を付けていた。


@

ー相変わらず言いようのない影が覆う一人の男。この男の苗字は知っている。結城ゆうき|という。


この店でバーテンダーとして働く女性店員の伊藤樹里(じゅり)はシェーカーを振りながら隅のスツールに座る一人の男性客を何度か横目で見ては観察を続けていた。 

月に数えるほどだけ来店する男は一度見たら忘れられない風貌をしていた。俗に言えばいい男と呼ばれる部類になるのだろう。女性ならば少なからず記憶に刷り込まれていくようなこの男は来店時に連れがいることは皆無だった。


何週間ぶりにこの店に現れた男は今日もやはり孤独を背中に抱いたまま、時々ふとなにかを確かめるかのようにグラスにそっと唇を重ねていた。今日も決してここで誰かと待ち合わせをしているようには見えず、なにか答えの見つからない重大な事案を深く考えこみながら酒を飲んでいるようにみえた。


樹里からすれば気になる存在であった。素直な気持ちのままでいえばこの男性と一度話しをしてみたいと思った。彼に興味が湧くのは自分の今後の人生を思ってなのか過去の思い込みを訂正したいからなのか、はたまた一人の女として生を受けたからなのか。男を覆う言いようのない影はいったいどこから生まれている?自分なりの答えを経験も理想論も踏まえて見つけだしたい。そう思った。

いや、違うのか。樹里は目には映らない男に潜む影を見つけていた。

違うのだ、興味が湧くのは単純にこちらの心が引き込まれていく影が彼にはあるから。


一度でも男を視界にいれた視線はこちらから逸らすことができなくなるような錯覚すら覚えてしまう。ひどくなにかを思案しながら飲む姿がこちら側を吸い込む影をより増福させているように思えた。あの影はなに?いったいどんな悩み事があるのだろうか?どんな災難にあってしまったのか?もちろん彼に悩み事があるなら聞き役になりたいし私ならきっと良い答えに導けるかもしれないと彼女は思った。


いくら考えていても答えは永遠に導かれないのだろう。

意を決して彼のところへ行ってみるか。


と樹里は行動に移す。


とても不思議な影を持つ男。


男には影があるかないかで魅力がまったく違ってくるのをいま彼女はすでに男から教えられていた。

樹里は自らに抱く強い緊張感を怖がり懐かしみ半ば楽しむかのように男のほうへと近づいて行く。


なにかが始まる音がする。乾いた金属音が耳の片隅に流れていく。それは重大ななにかが動きだす合図のようだった。


樹里は聞き慣れない音を背後に感じて一度だけ振り返る。そこはなにもかわらない映像があるだけだなと感じたのは樹里のありえないことを肯定できない一つの思い込みだった。

樹里は再び前を向く、行こう。床に触れ奏でる靴音すらも緊張感を帯びているのがわかる。

いまは客も少ない時間だ。男に話しかけるチャンスはいましかないのだ。 



カウンター席の後ろには綺麗に磨かれたビリヤード台が立ち並んでおり、側壁に数本のCUEが立て掛けてあった。窓の奥には光り輝く夜景が浮き出ており結露で濡れはじめた窓ガラスによって寒さと幻想を一層に引き立たせていた。

店内はまだ時間も早いこともあり客は少なかった。あと二時間もすれば大勢の若者達がグラスを片手にビリヤードに興じる空間となり玉突きの乾いた音がBGMになる。



樹里がいざ話しかけると拍子抜けするほどに男は眼鏡の奥にある瞳に優しさを漂わせ気さくに受け答えをした。かける眼鏡はなにかを隠しあげるかのように黒く太いフレームだった。


「クリスマスも終わってしまい、いまはもう年末の香りになってきましたね」


彼女の言葉に対して

男は小さく笑ってみせた。それは乾いた笑い声だが嫌な気はしなかった。


「香りか。うんそうだな。香りとは上手いことをいう。五感で感じる一日は悪くはない、そうか、今日はもう27日か」


「そうですよ、あと数日で今年も終わってしまいます、最近は一年が過ぎ去るのがとても早すぎるように感じます」


 

ビリヤード台を通して反射される弱い光が男の背中を撫で付ける。


「時の速さを感じるのはいいことだ、それは君がいま平和という名に優しく包まれている証拠さ」


男が軽くグラスを傾ける仕草には優美さがあった。細長く白い人差し指と中指には品のいいシルバーの大きな指輪がはめられており、時折手首から顔を覗かせる時計はオメガの高級品だった。グラスに氷が当たる音は彼の手元をより一層に彩らせていた。


「もしよかったらでいいのだけど、いまから俺の話しを聞いてくれないか?時間は少しかかるかもしれないが、少し話したい気持ちなんだ。ただ聞いてくれるだけでいい」


唐突な男の不意な言葉に樹里は明らかな動揺を見せた。彼女は首を縦に振ることしかできなかった。


@



カウンターを挟んで伊藤樹里は結城との会話を楽しんでいた。どれほどここにいるのか、それは5分なのか15分なのか時の流れが曖昧になる引戸を開けた気分を感じていた。



「結城様。それでどうなったのですか?とても続きが気になります」


樹里は結城の瞳を見つめ視線が合うとすぐに退散するかのように彼の唇までの短い距離へと視線を落とす。


結城の少し厚めの唇はまたこちらの心を撫でつけてくるようだった。

樹里はそこにもなにか居場所を失ったように思い、また瞳がある場所に視線を上げていくと真顔で語っていた表情は一転して笑顔を作りあげていた。


この人が笑うと可愛さが滲み出る笑顔になる。それは女心を母性として操る少年の笑顔だなと彼女はおもった。

だが。それでも樹里には

なにかを感じるのだ。影があるのだと、執拗に彼を覆っている。


結城は再び見せていた笑顔を消すと同時に、フレームの黒さが光る眼鏡を外してグラスの隣りにそっと置いた。


「え・・・」



彼女は鼓動が一層に早まっていくのがわかった。鼓動音が外部にまで漏れ出すような激しさは初めて大好きな男に抱きしめられキスをした過去を瞬時に思い出させた。

何度か来店した結城という名の男がいままでに眼鏡を外したところを樹里は見たことがなかったのかもしれない。いや、わからない、全てがあやふやな記憶になってきているのだから。


これがこの人の素顔なのか。


露わになった瞳は鋭さがあると同時に優しさも持ち合わせていた。見つめらるとこちら側のすべてが見透かされる、そんな瞳だった。そして取り巻く深い影だ。覆われるその深いなにかによって妖艶さが一層に増してみえた。


結城は印象のまったく違う二つの顔をもつ男だと彼女は思った。


彼にとっての眼鏡というアイテムは視力矯正をするものだけではなく刀身を収める鞘みたいなものだ。眼鏡をしている時の彼はいかにもインテリ風な男にみえた。身体は細いラインに仕上がりルックスも申し分ない。服装も自分に何が似合うか熟知しているし襟足の長い黒髪も鮮麗されている。漂うバニラのような甘い香りも彼の雰囲気に合っている。


世の女を魅惑させる完成品だ。


だが、いま彼が眼鏡を外したときに見せた表情は一転した。彼女には鞘から抜かれた刀身のような瞳に見えた。瞬時に男としての勇猛さが全身を纏われたのだ。結城という名の彼の内部にある凶器と狂暴とそして美しさが前面に押し出され、男女関わらず見据える相手をあらゆる方向から試してくるようなそんな威圧感を覚えた。


彼女は率直に眼鏡を外した結城のがいい男だと思った。この街にもいる女を食い物にして生きる男達にはない雰囲気がある瞳と影、もっと奥底まで覗いてみたくなるなにか。だが計り知れない男は常に警戒されるものだろう。この素顔を見せた彼に近づく女は実際には多くはないかもしれない。


きっと自らの攻撃的なる妖艶を眼鏡でカモフラージュしている。世の中には短絡的でわかりやすい男が実に多い。そのあまりのつまらなさを彼女は知っている。

最近は女が男に惹かれる理由すらわからなくなるときがあった。

この世界で25年間生きてきた彼女は世の男達と交際を繰り返してきた。いま指を折り交際した男を数えるほどに馬鹿らしいことはないのだろう、どれも街を歩けば同性からの羨望なる視線を感じれるほどの外見の男達だったのは確かだ。だか自分にとって男とはいったい?

求めてくることはどの男も同じだ。まるで進化のない動物だ。


だが…結城という名のこの男性客は。いままでに出会ったことのない何かがあるのか・・・。

女としてこの世に生を受けた意味が真髄なる本能が惹きつけられてるというの?


樹里はなぜかいま幼い頃に裏山で恐る恐る覗いた古井戸の底に広がっていた暗闇が脳裏に浮かんでいた。幼い彼女は深い恐怖が支配していくなか底に水はあるのか、どれだけ深いのか知りたくなった。辺りを見渡し拾いあげ黒い穴のなかに落とそうとする小さな石ころ。

手のひらがゆっくりと開き小さな石が落ちていく、彼女は目を閉じて耳を澄ます、全神経を聴覚に傾け聞こえてくる音のすぐ先の未来を信じて。そしてはるか異世界の場所で鳴った小さく乾いた音。彼女はここまで伝わってきた、いにしえを含んだような音に驚きそして喜んだ。

水の音がしなかった。

降りてみたい…そこにはどんな世界があるの?



彼の瞳の力だけで彼女は故郷にあった古井戸の奥底へと引きずりこまれていくのがわかった。自分が石となりゆっくりと落下していく。




「この話。まだ聞きたい?」


彼女ははっと息をのんで彼をみた。彼は鋭い目つきのまま微笑んでいた。刃の冷たい切っ先が頬を撫でつけていく。彼女は小さく頷いた。


「結城さん、ぜひ、ぜひ!続きを聞かせてください、よろしくお願いします!」




結城はこの店のマスターと昔からの知り合いらしく、月に一度か二度は来店する。来るのは必ず土曜の夜だった。いつも必ず連れはいなくなにかを考えるように一人で酒を飲みつづけた。彼女は一度マスターと結城がビリヤードに興じているところを見たことがあった。彼はプロ並みの上手さだった。彼女は結城を最初に見かけたときからいい男だなと思っていたのは事実だ。だが彼女にはこの世に星の数ほどにいるいい男の一人としか見えなかった。男は女のからだを貪りたいだけのくだらない生き物なのだ、彼女は男という存在にすでに飽き飽きしていたのかもしれない。


だが。結城の猛禽のような鋭い視線は彼女を一瞬にして遠い過去へといざなった。彼女が少女時代に古井戸を覗いたときの忘却されようとしていた記憶。


異次元への香り。


暗闇に潜むなにかにいざなわれる心。


興奮と好奇心が増幅していく。


底に眠る期待と願望が私を心躍らせた。


彼女は気づいた。それらはすべて彼女が忘れかけていた男に求めるものだったのではないだろうか。


結城が席を立ちトイレへ行ったときに髭をたくわえた小太りのマスターがシェイカーを手にしたままいそいそと樹里に近づいて来た。


「樹里ちゃん。さっきからあなた結城さんとやけに仲良しじゃないの。いったいなに話してるの、わたしにも聞かせて」


「あ、マスター。うーん、おそらく結城さんの学生時代のお話かと」


マスターは彼女の肩を肩で押した。とても強い力だった。


「あらあらそう。ねえ樹里ちゃん、結城くんには気を付けてね。お持ち帰りされないように。でもびっくりしたわ、わたし彼が眼鏡外したところはじめて見た。さらけ出すとまたすごい瞳ね、圧巻よまさに。それだけでわたしは興奮たくさんいただいちゃいました」


「え!マスターもいままで見たことなかったんですか?結城さんの素顔」


二人は肩を並べたままトイレのドアを見つめていた。


「あ、あの・・一つ聞いてもいいですか?結城さんていま独身なのでしょうか」


すぐにマスターは無言で樹里をこれでもかと睨み付けた。


「彼いわく独身よ」


「年齢は?」


「えと、たしか30歳よ、なによあなた。女であることをいいことにずけずけというわね。女であることを自慢してもなにも楽しくないわよ。これ以上わたしに結城くんのこと質問してきたらあなたに二度とシェーカー振らせないからわかったわね?樹里」




トイレのドアが開く。マスターは途端にあたふたとしながら後ずさりをはじめた。そんなマスターの袖を彼女は力強く掴んだ。


「あ、マスター。最後に結城さんの名前教えてください、彼の下のお名前」


「ああ、もう彼が来ちゃう離してよ。下のお名前だなんてエッチねわたしのなにかがびっちょり濡れちゃうじゃない」


「だからお名前」


「ふん、うるさい小娘ね。リクよ結城リクちゃん。はぁ一度でいい彼に抱かれてみたい」



リク・・・。 失礼かもしれないが結城と名前が一致しない違和感がある。


リク…どんな漢字なのかしら。


樹里は戻ってきた結城と今一度視線を合わせた。







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