臆病者二名様
主人公の名前は日暮。ほとんど名前が出てこないけど、ひ・ぐ・ら・し、日暮ですよー!
「尼崎ってわかんねー奴だよな」
宇都宮の言葉に、俺は冒険物語から顔を上げた。前の席にどかりと腰を下ろした宇都宮は、俺ではなく、俺の右後ろへ視線を向けている。振り向いて視線の先を見てみると、そこには一人の男子生徒がこじんまり座っている。色白で細っこい、眼鏡をかけた男子。
「あー、尼崎ね……」
俺はお気に入りの小説を閉じた。
尼崎玲太は俺たちが高校二年になる春に転校してきた。ここいらの田舎じゃ珍しい転校生に、最初はみんな興味津々だった。俺は度の強い眼鏡と長い前髪を見て、「根暗」というレッテルを張り付けただけで、別段興味はなかった。一方で好奇心旺盛な宇都宮は俺以外のみんなと同じく、新参者に興味津々で、転校初日から積極的に尼崎に話し掛けていた。しかし、尼崎は何というか、人に構われるのがあまり好きじゃないらしく、何を聞かれても「うん」とか「そう」とか、至極薄い反応しか見せなかった。尼崎のロボットみたいな受け答えに、みんな次第に興味が失せたようだ。あれから六か月がたった現在は、用もないのに尼崎に話しかけようなんて奴はいない。別に嫌われているわけでも除け者にされているわけでもないけど、今の尼崎はクラスの連中にとって空気みたいなもんだ。
「もともとそんな喋る奴でもねーし、分かんなくて当然だろ」
俺は小説のページをペラペラ捲りながらそう言い捨てた。はっきり言って、どうでもいいんだよなあ。
「日暮。お前今、どうでもいいって思ったろ」
唇を尖らせた宇都宮がずい、と迫ってきた。顎にニキビ予備軍がいるのが見えた。
何だこいつ、エスパーか。宇都宮はちょっと驚いた俺の手から小説を取り上げる。そしてさっき俺がしたように、ページを指先で弾くように捲り始めた。
「お前は現実世界より物語の世界のほうが好きそうだもんなー。いっつも本ばっか読んでっし。たまには真面目に俺の相手しろよな!」
ブーイングをしたげに、宇都宮がまた唇を突き出す。顎の育ち盛りのニキビが、居心地が悪そうにしぼんだ。
確かに俺は本が好きだ。つっても、有名な詩人の詩集とか、明治の日本文学とか、そういった国語の教科書で胸を張っているようなやつじゃなく。所謂冒険や魔法がでてくるファンタジーだ。ある使命を担った主人公が仲間と一緒に巨悪を打ち倒す物語なんかには心が躍る。子供っぽいと笑われるだろうから、周りの人間には秘密にしている。今、宇都宮が弄っている小説にも、書店でつけてもらえる紙製のブックカバーがしっかり装着されている。宇都宮だけにはファンタジー好きを知られているのだが、その宇都宮だって最初は俺の趣味を笑ったのだ。
「お前みたいな、いかにもシャークスピアとかドフドフスキーとかを読んでそうなクールガイがよ、ドラゴンやら魔法使いに目を輝かせてるって、誰も想像しねーだろうな」
「シャークスピアじゃなくシェイクスピアな。あとドフドフスキーじゃなくてドストエフスキーだから。悪かったな、ファンタジーが似合わない男で」
俺は宇都宮の手から小説を奪い取った。子供っぽいと言われるのはまだいいが、見た目で趣味が似合ってるだの似合ってないだの言われるのはかなり迷惑だ。大きなお世話だ。
宇都宮はわざとらしく「ちぇー」と言った。
「まあさ、本好きってところは、お前と尼崎、似てるのかもな」
えっ、と俺は顔を上げた。尼崎が本好き? 振り向いて尼崎を見てみる。相変わらずひっそりと一人で座っている尼崎は、文庫本を読んでいた。
その表紙にはしっかりと『ハムレット』と書かれていた。シェイクスピアの作品、三大悲劇のひとつだ。主人公ハムレットの復讐の物語。
俺は、悲劇の物語はあまり好きじゃない。
「はむれっとって、確かシャークスピアだろ? あの眼鏡にはお似合いな趣味だよな」
俺は振り向き、がははと笑う宇都宮を睨み付けた。
「つーか、はむれっとって何だ? オムレツの亜種か?」
バカが笑うたびにニキビが伸び縮みする。自己主張を始めたばかりのニキビ。そいつめがけて、デコピンならぬニキピンをかましてやった。
その日の放課後、ゲーセンに寄って帰ろうと誘ってくるニキビ野郎を突っぱねた俺は、一人で図書室に来ていた。
放課後の図書室は好きだ。夕日が差し込む少し薄暗い室内。背の高い本棚がずらりと並ぶそこは、ほかの教室とは違う異空間のようで、秘密基地みたいでわくわくする。その秘密基地から新しい冒険物語を掘り出す瞬間が、俺にとっては至福の時なのだ。
まあ、その趣味を共有してくれる奴がいないから、こうして一人で来ているわけだが。
図書室に入ると、まず初めに新着コーナーを覗く。新しいファンタジー小説がないかチェックする。最近は携帯小説やライトノベルが多い。嫌いじゃないけど、俺が求めているものとは少し違う。一通り見て終わると、俺は図書室の端、窓際の本棚へ向かう。ここに俺の好きなファンタジー系の本が排架されている。ここはちょうどこの時間に西日が入ってくる。日光が当たって本が日焼けしないように、ここの空間だけ少し広めに間がとってある。この空間に座り込んで本を物色する。癒しの空間でしかない。ここに行けば、どんなストレスも発散できる。放課後に図書室に来る奴もほとんどいないから、俺の個人スペースのようなもんだ。だから今日もその癒し空間で宇都宮のアホのせいで溜まったストレスを解消するつもりだった。
なのに、マイ癒し空間にはすでに先客がいた。いや、先客というより侵入者だ。窓際の棚にもたれて本を読んでいる。強い夕日のせいで誰だかはわからない。ちくしょう、俺の庭に侵入したのはどこのどいつだ。
俺は、ちょっとそこで本探したいんだけどな~、という雰囲気を醸し出しながらゆっくり近づいた。なんで俺が立ち読みをやめさせたい書店員みたいな真似をしなくちゃならないんだ。そもそも俺の場所でもないから仕方ないが。でも俺が前から来ていた場所なんだ。愛着は俺のほうが強いんだ。だからそこをどいてくれい。
そんなことを呪文のように口の中で呟きながら、俺はひたひたと猫のように近づいていった。様子を窺いながら距離を縮めていくと、侵入者の顔が見えた。
「あっ」
俺は小さく声を上げた。侵入者も、はっと本から顔を上げる。
「尼崎……?」
ひょろい体に長い前髪、度の強い眼鏡。そしてその手には『ハムレット』と書かれた文庫本。間違いなく尼崎だった。俺のほうを見て、固まっている。俺も一瞬固まった。
やべぇ、どうしよう。
俺は頭の中で呟いた。尼崎が転校してきてから六か月近く経つが、実は俺は、尼崎と話したことがない。いや、授業の班活動とかで二、三言話したことがあるかもしれない。けれど、まともな会話をしたことがない。尼崎は誰に対しても自分から積極的に話しかけたりしないみたいだし、俺は俺で、尼崎にまったく興味がなかったから関わろうともしなかった。
同じクラスでほぼしゃべったことの無い奴。しかもお互いお一人様状態。これアカンやつや、めっちゃ気まずいやつやー。
俺は凄まじい居心地の悪さを感じていた。目が合ったうえ、名前を呼んでしまった。この状況でスルーはありえない。そんなことできない。俺のスルースキルはそんなに高くない。だからと言って陽気に話しかけるコミュ力があるわけでもない。宇都宮のような明るいバカなら、
「よっ、尼崎! 今日も眼鏡の度、絶好調だな!」
とか言ってたかもしれない。でも俺には無理だ。そんなにバカ発揮できない。うぉお、俺にどうしろというのだ、神よ!
俺が脳内大会議を繰り広げていると、尼崎が持っていた本をパンと閉じた。その目は水を得た魚のように泳ぎ回っている。いや、何か違うか。
「あー。えっと……」
苦し紛れに口を開けた。すると、まるで鞭でも打たれたかのように尼崎がこっちに向かって歩き出した。眼鏡を押し上げながら、風を切るように迫ってくる。
えっ。なにっ、すげー怖い!
ずんずんと大股で近づいてくる尼崎に、反射的に身構える。とりあえず足を踏ん張った俺の横を、尼崎はすっと通り過ぎた。
……通り過ぎるんかーい! 俺が空気扱いされてるやないかーい!
心の中で一人ツッコミむ。俺なんか眼中にないってことだろうか。少し悔しい気がして唇をかんだ。
そのとき、俺の足元にバサッと音を立てて何かが落ちた。見下ろしてみると、さっきまで尼崎が手にしていた文庫本だった。
「あっ」
尼崎が小さく声を漏らして立ち止まる。勢いあまって手から滑り落ちたんだろう。俺は無視されそうになったことに複雑な思いを抱きながらも、足元に落ちた本を拾い上げた。
「あ、あのっ」
尼崎がひどく慌てた様子で声をかけてくる。初めてまともに聞いた声は震えていた。無視しようとしたところにこれじゃあ、そりゃ慌てるだろうな。
俺は拾い上げた文庫本を眺めた。『ハムレット』という明朝体の文字がきっちり並んでいる。何となく、中身を広げてみてみる。
「……ん?」
中身の文章を見たとたん、俺は首を傾げた。
「リュート! ベネディクトゥスの剣であいつの尾を斬るんだ!」
アレンの言葉に、リュートは腰の剣を引き抜いた。剣を鞘から抜いた途端、目を覆うほどの白い光が溢れ出る。穢れた空気が浄化されていくのが分かった。
「アレン、束縛魔法で動きを止めてくれ!」
叫ぶのと同時に、リュートは地を蹴り、跳躍した。
「これって……」
俺は口をぽかんと開けた。どう見ても、いやどう読んでも『ハムレット』じゃない。ハムレットのハの字もない。そして、俺は『ハムレット』は読んだことがないが、この文章には見覚えがあった。文庫本のカバーを取って、裸の表紙を見てみる。そこには『ベネディクトゥス戦記』と表記されていた。
「ベネディクトゥス戦記!?」
俺は思わず図書室にいることも忘れて叫んだ。尼崎の「ひっ」
という若干女々しい悲鳴が聞こえた。慌てて口を手で覆う。
『ベネディクトゥス戦記』は、俺がファンタジー小説を好きになるきっかけになった王道冒険物語だ。幼い頃に親を亡くし、孤児院で育った見習い剣士のリュートは、ある日突然現れた魔族に住んでいた孤児院を襲われる。魔族に攫われた子供たちを助けるために、幼馴染であり見習い魔術師のアレンを連れて旅に出る、という話だ。出会った当時小学五年生だった俺は、ドラゴンや魔法が出てくる世界に魅了され、どっぷりとはまってしまった。
この物語はファンタジーの基本を押さえたような物語で、対象年齢は恐らく小学生高学年から中学生といったところだ。高校生が読むには少し子供っぽいかもしれない。だから、まさかこんなところで出くわすとは思わなかった。
俺は口に蓋をしたまま、周りを見回した。近くには誰もいない。口に当てた右手をそっとおろし、立ち尽くす尼崎を見つめた。尼崎は、極まりが悪そうに自分のつま先を見下ろしていた。
「あ、まざき?」
恐る恐る声を掛けてみる。返事はない。長い前髪から覗く顔が、少し赤らんでいるように見えた。
俺は文庫本を両手で丁寧に閉じた。もしかしたら、こいつ……
「尼崎」
今度ははっきりと名前を呼ぶ。赤みの差した顔が少しこちらを向く。
「お前さ、『ベネディクトゥス戦記』、好きなの?」
「っ……この本、知ってるの?」
尼崎が俺の顔を見て呟いた。やっと会話が成り立った。俺は胸の中に何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「知ってるっつーか、俺もこの話好きだし。すげぇ面白いよな、これ」
やっとまともに会話できたからか、本の趣味が合いそうな奴を見つけたからか、俺は興奮気味に言った。
「ちょっと子供っぽいかも知れねぇけど、いつ読んでもバトルシーンで熱くなっちゃうんだよな」
「そう! そうなんだよ!」
ファンタジー好きを隠していることも忘れて俺が語っていると、今までもじもじしていた尼崎が身を乗り出してきた。鼻がひっつきそうなほど詰め寄ってくる。
「リュートが初めてベネディクトゥスの聖剣を使う場面もいいんだけど、アレンがガルド火山の噴火を止めるために黒魔術を使うところが凄い緊迫感で! そこで助っ人に来るルベリオ団長がめちゃくちゃかっこよくて、あのシーンは何度も読み返しちゃって……」
見たことがないくらい興奮した様子でマシンガントークをぶちかましてくる尼崎に、俺は少したじろいでしまった。
「お、おう。少し落ち着けよ」
肩に手を置いて拡大された顔を引きはがすと、尼崎は何とか離れてくれた。
「……ごめん」
鼻息を荒くしたままずれた眼鏡を押し上げる。我に返ったのか興奮のせいなのか、白い頬はほんのり赤くなっていて、眼鏡を何度も押し上げる手が小さく震えていた。いつもの教室の隅で息をひそめるようにしている姿からは想像できない尼崎の乱れように、俺はぐふっ、と吹き出してしまった。
「まさか尼崎もファンタジー好きだったとはなぁ」
暫くして少し落ち着いた俺と尼崎は、私語厳禁の図書室を出て、中庭に移動した。放課後の中庭には勿論誰もいない。庭の中心に少し大きい丸い花壇があって、それに沿うようにしてベンチが置かれている。俺たちはそのベンチに座って語った。
「俺も小学生の頃にこの本読んで、それからファンタジーにはまったんだよ」
俺は尼崎が持っていた『ベネディクトゥス戦記』を眺めながら言った。
「ガキくさいって思われるかもしれねぇけど、読んだときのわくわくっつうか、ムズムズするあの感じ? あれが堪らなく好きなんだよな」
「わかる」
尼崎は小難しい議論をしているかのように真剣に頷いた。腕を組んで、俺の言うことにいちいちうんうん頷くもんだから面白い。本当にファンタジー小説が好きなんだろうな、と思った。
「僕も小学生の頃にこの本に会ってさ。本の中には、現実世界とは違う世界が存在するんだって、現実には出来ないことでも本の世界なら何でも出来ちゃうんだって、感動しちゃって」
少し恥ずかしそうに、尼崎は一言一言語った。今度は俺がうんうんと頷く。
「他の小説も読むんだ。推理小説とか、歴史小説とか、たまに恋愛ものも……。だけどやっぱり他の本を読んだ後は、魔法とか冒険が恋しくなってるんだ」
そう語る尼崎は、眼鏡の奥で小さな目を輝かせているように見えた。
「お前、本当にファンタジー好きなんだな」
俺が言うと、尼崎は小さく、しかしはっきりと首を縦に振った。
俺ははにかむ尼崎を見つめ、そして自分の手の中の文庫本を見下ろした。
「じゃあ、『ハムレット』って何?」
そう尋ねると、さっきまでニマニマしていた尼崎が、一瞬、こちんと固まった。ほんの一瞬だったけど、その硬直は俺がファンタジー好きなことを宇都宮にバレたときの緊張感に似ていた。
手の中の文庫本から、脱皮でもさせるかのように『ハムレット』のカバーを取った。読み古された『ベネディクトゥス戦記』の表紙が目に入る。水中から顔を出して息を吸い込む感覚がした。
「前の学校で、からかわれたんだ」
だしぬけに、尼崎が口を開いた。俺は尼崎を見た。尼崎は膝に置かれた自分の手を見つめていた。
「僕、もともと人と喋るのが苦手で、嫌いなんじゃなくて、へたくそで。だから、友達も少なかったし、休み時間とかも一人で本読むことが多かったんだ」
尼崎の手が、もじもじとうごめく。
「それで、高一のとき、クラスにちょっと派手なグループの男子がいたんだ。そいつに、その本読んでるとこ見られちゃって。多分、あいつには悪気は全然なかったんだと、思う。けど、そいつ僕がファンタジーばっか読んでること、みんなに言いふらしちゃって」
俺は、ああ、と思った。多分、その派手な男子は尼崎をクラスの輪に入れてやろうと思ったんだろうな。残念ながら、余計なお世話。
「意外と子供っぽい趣味あるんだね、とか、似合わないとか、シェイクスピアとか読んでそうなのに、とか色々言われて。……言った人たちも、全然そんなつもりなかったろうけど……僕、マイナス思考だから」
「……それで、『ハムレット』?」
「ファンタジーが好きってことが、急に恥ずかしいことな気がしてきて……。『ハムレット』って有名で面白いけど、今の高校生、あんまり」読まないから、無地のカバーするよりは、こういうもののほうが、話しかけられにくいかなって。シェイクスピア好きだし、似合ってるって言われたし……」
「隠れ蓑にちょうど良かった、ってわけか」
尼崎はこくりと頷いた。確かに、俺も今朝本を読む尼崎を見たとき、ちょっと話しかけてみようかと思った。けど、本のタイトルが『ハムレット』だった時点でその気は失せた。作戦は成功してたってわけだ。
ちらりと尼崎をみると、尼崎はまた俯いてしまっていた。本当に好きなことに口を出されるのは、些細なことでも結構くるものがある。相手に悪気がなくても、本人は相手が思っている以上にその言葉を重く受け止めてしまう。
「……そっか!」
俺は思い切り自分の腿を叩き、勢いよく立ち上がった。尼崎がびっくりして肩を跳ね上がらせる。空を見上げると、真っ赤だった空がだんだん闇に侵食されて深い藍色になっていっているのか見えた。赤と藍の間に、光の点が鎮座している。
「俺もさ、ファンタジーが好きなこと隠してんだ」
「えっ」
背後で尼崎が細く叫ぶ。
「別に尼崎みたいに誰かにガキくせーとか言われたわけじゃないんだけどな。知らんうちに何でか隠してた」
それは多分、俺が尼崎よりは周囲に順応していたから。周囲の目ってものをいち早く気にするようになったから。尼崎と俺の違いは、自分で気づいたか、周りに気づかされたか、というところだけだ。
「好きなこと隠すって、結構窮屈だよな」
好きであることを隠しながら生きていくのは、息苦しく、つらい。隠すってことは、否定するということだから。
俺には尼崎の気持ちがよくわかる。
俺も、尼崎と同じ、「好き」を隠してしまった臆病者だから。
「でもさ」
俺は右足を軸に半回転し、尼崎に向き直った。尼崎が顔を上げる。
「さっきお前が『ベネディクトゥス戦記』の話してた時、もったいねぇって思った」
「もったい、ねぇ?」
尼崎はわずかに首を傾げる。
「だってそうだろ。あんなに楽しそうに話せるくらい好きなのに、誰とも共有できずに自己完結させとくなんて、もったいねえよ」
俺は尼崎の荒い鼻息と長い前髪から覗く輝く小さな目を思い出した。あんなに何かに夢中になれることは、そうそうないと思う。俺だって、ファンタジー小説は好きだけど、話したこともない相手にあんな食って掛るような勢いで熱弁するなんて真似はできない。
「だから、お前は自分に正直になったほうがいいよ、多分」
ちょっと無責任な言い方になったかもしれない。でも、本心だ。
俺は小さく息をつくと、尼崎の隣に座りなおした。座ったところで、ちょっと冷静になった。
あれ、何言ってんだ俺。今日初めて喋った奴に何語っちゃってんの。
じんわり顔が熱くなった。やべえ、普通に恥ずかしい。
「それは」
そのとき、尼崎がぽそりと呟いた。藍色に染まった空にかすかに響く。
尼崎はゆっくり俺の顔を覗き込んだ。
「それは、これからも僕と語ってくれるってこと?」
「えっ」
尼崎と目が合う。その眼の中に、空に浮かぶのと同じ光が差していた。ふんすふんすと荒い鼻息が聞こえる気がした。
「だってこんなに話が合った人、初めてだし。日暮くんだってもったいないことしてる、んだよね。だったら」
ぐんと度の強い眼鏡が迫ってくる。熱風のような鼻息が頬にかかる。
「わっ、分かったからそんなに近寄んな! 暑苦しい!」
「あっ、ごめん」
謝りながらも、尼崎はにやにやしていた。にこにこじゃなく、抑えようとする嬉しさが滲み出てしまっているようなにやにやだ。エロ本の袋とじを開けるおっさんの笑みに似ているかもしれない。少し気持ちの悪い笑顔に、俺も思わずにやにやしてしまった。
日の落ちた中庭に、にやにやする男子生徒二名。かなり不気味な光景だな、と思いながら空を見上げた。一面藍色になった空には、二つの小さな光が頼りなさげに光っていた。
明日になったら、宇都宮のバカに自慢してやろう。新しい友達ができたと。きっと間抜け面をおがめるぞ。
ついでに、あごのニキビを爆発させたことを謝っておこう。
おわり
主人公が日暮って名前だってこと、覚えてたかな?
ご精読ありがとうございました!