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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
愉快で無敵な墓荒らし
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とあるエルフの場合・中

 ――乗るしかない、このビッグウェーブに。


「……そんな風に考えていた時期が、私にもありまし――うぶぅう」


 ――おろろろろ、と。

 耐え切れずに船縁にしがみつき、胃の中のものを海面に撒き散らす。……恥や外聞なんてどうでもいい。かれこれ一週間は行動を共にしている船乗りたち相手である。こんな醜態はもういくらでも晒してしまった。

 エルモの乗る商船は昨日東辺海を抜け、そろそろコロンビア半島に着こうとしている。



   ●



 驚いたことに、商船への同乗を希望したプレイヤーはエルモ一人だけだった。

 ……なんてことはない。多くのプレイヤーが引きこもりを発症してしまったのである。

 森は味を問わなければ食料が豊富で、三時間も歩き回ればその日に食べるものに困らないほど。午前中は弓と魔法の鍛錬をして昼食後はシエスタ。ちょっとした家事をこなした後は寝床に籠って掲示板荒らし。


 ちょっと待って。君たち何しにこのゲーム始めたの。


 いつの間にか出来上がっていたルーチンに思わず文句を言ってしまう。午睡を楽しんでいたプレイヤーはきょとんとしたあと、思い出したようにあのバカ甘いお茶を出して勧めてきた。


 ……違う。違うの。そうじゃない。別に連合王国の紳士よろしくティータイムの催促のために皮肉を言ってるわけじゃない。

 最初の志を忘れて堕落したプレイヤーに、エルモは溜息をついた。……これがエルフの日常。なんて貴族的に優雅なのでしょう。これならリザードマンの死体を使ってマッドな研究にいそしんでいるNPCの方がよほど生産的だ。


 この穀潰し。エルフなんて滅びろ。


 だからエルモは決意を固めたのだ。……こうなったら、一人で森を出てやる、と。

 この五年で貯めこんだ私財を全て売り払い、人間相手に売れそうな工芸品などを仕入れる。精緻な刺繍入りの布だったり、霊木でできた櫛だったりだ。幸いなことに細工師とは仲良くさせてもらっていて、一時は弟子入りしたこともある。これでお別れかもしれないからとだいぶ安くしてもらえた。

 やってきた商人との交渉は滞りなく進んだ。何しろプレイヤーにはインベントリがある。航海中はかさばる商品を預かると提案したら大喜びで承諾して貰えた。

 最後には支族長との別れの挨拶。金髪のイケメンエルフはエルモの決意を聞くと、特に反対するでもなく了承して見せた。……お使いと称して、奇妙なアイテムを持たされたが。


 弓よし、矢よし、食料よし。風魔法はBランクまで上がってシルフと契約している。不意の戦闘になってもそう簡単にやられないだろう。――海の魔物、おそるるに足らず。

 いざ出航、とエルモは気合を入れて森を旅立った。



   ●



 ――――そして今、エルモは甘く見ていた海に打ちのめされ、今にも死にそうになっている。

 おろろろろ、と再び嘔吐し、エルモは恨めしげに水平線を眺めた。


 航海そのものは順調だったはずなのだ。今の時期――雪の降る冬の季節は、どうしてか東辺海は時化がほとんど起こらず平穏だという。……荒波を起こすクラーケンが集団で凍り付いているからだ、というのが船乗りの言い伝えだが、それについては文句はない。

 問題はもっと、別のところにある。


 この商船、どうしようもなく臭いのである。


 最初に気付いたのは乗船の直前、間近に商船を観察する機会を得たときだ。

 船底の所々に、黄土色の染みがついていた。そしてそこから、何とも言えない不快なにおいがした。

 途中でスカンクみたいな魔物と交戦でもしたのだろうか、と気にもしていなかった。それが大きな間違いだった。

 臭いは、船倉の奥から漂っていた。いくつも並べられた樽の中。近づくほどに強くなる生ごみの臭い。


 ……どうしてこんなものが置いてあるのだろう、という疑問は、出航した日の夜に明らかになる。


 日が暮れて錨が下ろされ、さあ魔物を警戒しなくてはと仕事の予感に構えたところだった。船室の扉が開かれ、商船の船員があの樽を抱えて甲板に現れた。

 嫌な予感がした。

 せめて、何をする気なのか問い質すべきだった。


 ……樽の蓋が開かれた時の、あの気を失いそうな悪臭を、エルモは一生忘れないだろう。


 樽の中にいっぱいに詰まった液体を海面にぶちまける。船の前後左右に向けて一回ずつ。これを一時間に一度、夜通し行うのだという。

 その液体は半島特産の魔物除けの果実を潰したものだそうで、その悪臭で魔物を除ける効果があるのだと商人は言った。

 東辺海の水棲の魔物は夜行性で臭いに敏感なものが多く、これがあるから道中の安全が確保されたのだと。

 原理としてはわかる。この液体で小さな魔物を追い払えば、それを餌にしている大型の魔物が寄り付く可能性が減る。特にクラーケンとかいうイカは優れた受容体を持ち、ごく微かな匂いにも反応するのだとか。


「わかるけど……この臭いは、ない……」


 鼻がやられれば人間はあっという間に船酔いになる。乗船からこの一週間、エルモは戦力として完全にお荷物になった。道中でできることといえば船縁で魚の餌を撒き散らすか、冬の寒さにやられて船室で毛布にくるまっているかくらい。役立たずなことこの上ない。


「ええ、初めての方は仕方がありませんよ。私も最初に試していた頃は、ひと月は吐き通しでした」


 対して商人の男は平然としたもので、グロッキーなエルモに苦笑を浮かべて背中をさすってくれた。


「ううう……ありがとうございます」

「いえいえ。……これでも、初期に比べれば臭いはまだましになった方なのです。改良に助力してくれた薬師の婆様には頭が上がりません。

 そろそろ陸地が見えてくる頃なのですが……ああ、あそこです」

「あれが……」


 粉雪のちらつく肌寒い靄の中、それはついに姿を浮かび上がらせた。

 曇天を貫きそびえ立つ火山。ドラゴンが住まう霊山。聞くところによると五年前に噴火が起きたそうで、近隣の村では未だ復興が滞っているという。

 しばらく眺めていれば、今度はうっすらと形を結ぶ影がある。浜辺と森。目を凝らせば視界の端に貧相な桟橋があり、エルモの乗る船はそれを目指しているらしい。


 ……とても簡素な桟橋だ。こんな船を持つ商人が拠点としているなら、もっとこう、発展した港があると思っていた。


「……灯台もないのに辿り着けるのは凄いと思いますけど、本当にあれが港なんですか?」


 当然ともいえるエルモの疑問に、商人は苦笑して答えた。


「――ええ、言いたいことはわかります。本当はもっと立派な港や、ちゃんとした船渠(ドック)を構えたいんですが……なにぶん今回の航海は試運転でして。失敗するかもしれない取引に大きく投資するのは零細には難しかったのです」

「……それにあれ、港じゃないですよね。桟橋しかないし。建物もないし、人影も見当たらないです」

「拠点にしている村は海に面していたのですが、急な発展の影響でスペースが足りなくなってしまいまして。それでこんなところに船着き場を設けることになってしまいました」

「急な発展?」

「ええ。――ハスカールはここ数年で勢力を伸ばし始めた、新進の傭兵村です」

「はす……なに?」


 なんだか、不穏な名称を聞いた気がする。

 なんというか、生肉齧りながら斧を振り回すヴァイキング的な。


 そんなやり取りをしている間にも、船はぐんぐんと浜辺に近づき、船長が上陸の用意のために船員に声をかけ始めた。

 ――と、その時。


「――ちょっと、待った」


 エルモの視界が、浜辺に何かうごめく影を捉えた。

 エルフの視力は卓越している。雪で視界が遮られても、これだけ近づいていればそれが何かは見て取れる。

 影は三つ。人間の形をしていたが、それにしてはやけに横幅が広かった。エルモがそれを見るのは初めてだが、ファンタジーの王道として一般的な名称は知っていた。


「まさか……オーク?」

「……辺境伯軍にも困ったものです。歩兵戦力の向上は目下の課題であると理解しているはずなのに。――むしろここへ向かう魔物の群れはあえて見逃している節すらある。……こんな有様で領主を名乗るなど、許されるのでしょうか」


 呆れ果てた口調で商人が首を振るが、そんな状況ではないと思う。

 エルモはインベントリから取り出した自分の短弓を取り出した。距離は……三百くらい? 正直射程が心もとない。シルフを召喚して補助を頼むべきだろうか。

 おまけにこちらは慣れない船上。狙いが定まるか怪しいものだ。


「……魔法と弓で追い払うくらいはできます。その間に、その……ハスカール? とかいう村に応援を――」

「いえ、エルモさん、その必要はありませんよ」


 どこまでも間延びした商人の声。軽く苛ついたエルモが振り返ると、商人はまるで微笑ましいものを見る目でこちらを見つめていた。


「……ここは紅狼の縄張りです。彼らが魔物の狼藉を許すはずがありません」

「なにを――」


 何の話をしているのかと、エルモが問い質そうとしたとき。


 ――――ゥオオオオオオオオオオ……!


 それは、まるで硝子のような、氷のような。

 どこまでも響き渡る透き通った咆哮が、エルモの鼓膜を震わせた。

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