醜悪なるもの
振りかぶる余地すら与えるものか。
一息で人狼の懐に跳び込み、鳩尾を牙刀で突き破った。そのまま両手を添えて体重をかけ、腹をびりびりと捌いていく。股間まで引き裂き短刀を引き抜くころには、人狼は腹から内臓やら糞尿やらをはみ出して絶命していた。
倒れ込む人狼を躱してさらに前へ。虎が駆け寄ってくるところだった。ぐばりと牙を剥いて跳びかかってくるところを、頭に片手を添えて逆に引き寄せ、大きく伸びあがって膝を打ち込む。顎の骨を砕く感触。沈み込む虎の延髄に短刀を突き刺し中枢神経を破壊する。
「――――――」
どさりと倒れ込む虎の巨体を尻目に足を急がせる。獣にかかずらっている暇はない。魔物に囲まれている村人たちを見据えて、さらに加速せんと足に魔力を注ぎ込み――
それを見た。
「ぁ――――」
子供がいた。
小さな娘だ。
忘れるはずもない、雑貨屋の一人娘。最初に俺を介抱した恩人。
雑貨屋に押し出されて、魔物の囲いからまろびでている。人混みからこぼれて倒れ込むように、つんのめるようにこちらに向けて走り出した。
それは偶然だったのか――――いや、違う。
雑貨屋が俺を見ていた。手に小ぶりなナイフをもって、必死にゴブリンを抑え込んでいる。
その口が微かに動いて、
――――たのむ、と。
「っ――――」
娘は――アンは、振り返らなかった。
目にいっぱいの涙を浮かべて、今にも泣きそうな顔で。背後には雑貨屋の断末魔。脚は肉親の死に萎えそうになる。
それでも前を向いて、俺の眼を縋るように見つめながら必死に生き足掻こうと――――
「駄目だ――――」
彼女と俺との間には、まだ魔物がいた。
小人が二人。それぞれ槍と棍棒を持っていて、興奮してキイキイと喚いている。
小人たちは自分たちを避けて街道を通ろうとしている獲物を見つけると、喜悦に満ちた笑みを浮かべて――
「それだけは、駄目だ……!」
やめろ。
やめろ。
頼むから、やめてくれ。
男はいい。女が死ぬのは許容する。老人も妥協しよう。
だが子供は駄目だ。子供だけは駄目だ。
所詮ゲームだとか、現実でだって子供は無意味に死んでいるとか、そんな屁理屈はどうでもいい。
わたしに、子供が死ぬ姿などもう見せてくれるな……!
「ぉ――――」
ありったけの魔力を解き放つ。筋が裂け骨が折れても構わないと地面を踏み抜く。
大丈夫、必ず間に合う。助けられる。
これだけ魔力を籠めている。二秒後には小人を打ち倒して娘を拾い上げられる、
たかだか小人が二人だけだ。多少傷つけられたとしても、致命傷にはなるまい。娘にはちょっと痛い思い出になってしまうが、死ぬよりましだと我慢して貰おう。
アンだって大したものだ、きっと疲れ切っているだろうに、9歳の子供とは思えない速さだ。ひょっとしたらかすり傷一つ負わないかもしれない。
大丈夫、大丈夫だから。
わたしが助ける、何としても助ける。
すぐにそこのロリコンどもの頭蓋を砕いてやるから。すぐに安全な村に届けてあげるから。
だから――――
「届け――――ッ!」
手を伸ばした。それに応えた娘も走りながら両手を差し出した。
あと少し。あと少しで手が届く。そしたらこの子を掻っ攫って、魔物たちから距離を取り、娘を守りながら奴らを皆殺しにすればいい。できる。やれるとも。この程度の事態、今日この日にこなしてきた難事に比べれば些細なことだ。鼻歌まじりにこなしてやる。だから――――!
次の瞬間、轟音と爆風が世界を支配した。
「あ――――?」
吹き飛ばされる。オレンジ色の炎熱が身体を舐め、紅銀の防具に弾かれた。手を差し伸ばした無理な体勢で熱風を受け、なす術もなく宙を飛んだ。
「が、ふっ……!」
みっともなく地面に叩きつけられ咳き込む。痛む背中を堪えて立ち上がり、周囲を見回して言葉を失った。
……何があった。何が起きた?
この手は確かに届いたはずだ。だって指先に彼女の手の感触が残っている。届いた。届いたんだ。あとは抱え上げて逃げ去るだけ。ただそれだけだったはずなのに。
――これは、何だ。
この、目の前で燃え上がり消し炭になろうとしている小さな物体は何だ……!?
「――ぅ、して……」
赤々と火が燃える。まるで山火事のように視界いっぱいに。
焼いた地面が溶けるほどの高熱が、呆然とする顔を照らした。
「どう、して……」
見えるものすべてが燃えていた。人も、魔物も、ゴブリンも、小人も。
一瞬で焼き殺されたのだろう。棒立ちで消し炭になっている。悲鳴すら聞こえない。火は山の木々にも延焼して、ぱちぱちと音を立てる。
時折聞こえるか細い悲鳴のような音は、焼灼され縮んだ肺から空気が押し出される音か。
「どうして、また……ッ!」
立ち尽くす。何もできない、なにも叶わない。
目の前の命は、たった今失われた。まるで子供の玩具を大人が取り去るかのように、ひたすら呆気なく。
理不尽だ。そうとも、いつだってそうだった。
助けられると、あの時も思っていた。
手出しすら許されず、躊躇いなく焼き払われた。
ほんの少しの奇跡が一つでもあれば、救えた命のはずなのに。
遠くから咆哮が聞こえた。空から流星のような瞬きが見えた。
見上げると、上空には、
「おのれ……」
一体のドラゴンが空を飛んでいた。
野生のものではあるまい。ドラゴンの身体を巡る華美に装飾された鞍やその上に跨る甲冑騎士が、あれが何かを指し示している。
竜騎士。
半島において最強を誇る、ミューゼル辺境伯軍の象徴。
お前は知るまい。お前が今小手先で吹き散らした命のために、どれほどの命が費やされたか。
お前が誇らしげに騎竜を吼えたてさせる間に、どれほどの命が奪い去られるかを。
空を支配者のごとく悠然と飛翔する竜騎士。その姿は荘厳とすらいえるほどだといえるのに、その牙の隙間から漏れる火は、どうしてそうも醜悪なのか。
「おのれ……!」
視界の端で何かが蠢いた。魔物の生き残りがいる。双頭の狼。頭の一つが炭化していて、見るからに痛々しい。
あの御大層なブレスも、敵すべてを焼き殺すには足りなかったらしい。見かけ倒しにもほどがある。
魔物が迫る。まだ戦意に衰えがないのか、それとも死出に供が欲しいのか。
ならば――――




