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――ハスカール襲来。
六月の終わりにもたらされたその報せは、夏の盛りへ向けて南方へ戦力を集中させようとしていたリザードマンたちへ衝撃を与えた。
よもや思いもしなかった後背への襲撃。それまで一度としてなかった人間による湿地帯侵攻。
ニザーン大要塞の兵たちは穴熊のように要塞へ籠るばかりで攻めるということを知らない。たまに魔物の間引きや素材目当てに傭兵や冒険者たちが出張る程度で、大掛かりに軍を起こしたことなど征服王時代から数えても皆無である。
ゆえに湿地帯の北側とはリザードマンからすれば完全なる内地であり、もし南方で戦士たちがエルフに敗北したとしても逃げ込むことができる最後の砦でもあった。泥で地面がぬかるみエルフたちが足場にできる太木のない北部ならば、エルフの得意とする三次元的包囲射撃は困難となる。充分に持ちこたえられると踏んでいたのである。
それが崩された。それも北東、最も思いもよらぬ方面から、最も思いもよらぬ季節に、聞いてみれば笑えてしまうほどにありえない手段をもってして。
船の両脇に備わる水車、中央にそびえ立つ黒煙を噴く煙突――となれば、プレイヤーたるソルには彼らが何を開発したかなど容易に想像できる。
「――黒船襲来とは味な真似を」
好事魔多し――誰の言葉だったか。
――ソルがその報せを聞いたとき、彼が率いる部隊はエルフの機動迎撃部隊を撃滅するべく算段を立てているところだった。
南海より上陸した海魔の群れ、それに対応するべくエルフたちは更に戦力を割いた。いつの頃からか敵防衛に侵攻部隊が撃退された際の生き残りがやけに増えた頃からそれを察したソルは、これを逆手にとって敵主力を釣り上げようとしたのである。
忌々しくも精鋭たるエルフの機動迎撃部隊――脚の速い精鋭を集中運用することにより局所的な数的優位を作り出す戦術は、しかし一度大打撃を与えてしまえば立て直しが困難になる。あれさえ打倒してしまえばエルフの防衛線は瓦解し、この戦争は次のフェーズに移行するはずだった。
兵を伏せる場所は吟味した。罠を仕掛けた。陽動のための弱兵も族長に頭を下げてかき集めた。あと一週間もあればすべて手筈が整うはずだったのだ。
しかし全ては水泡に帰した。この徒労感、胸に迫る虚脱感と戦うためにソルは一晩を費やした。
月に叢雲、花に風。
詩吟のように呟いて心を鎮めるソルの胸の内には、一つの覚悟。
――――速戦以外に勝機はあるまい。
●
「――人間はこの湿地帯へ橋頭堡を築こうとしています」
リザードマンの主だった戦士長の集った軍議の場。十数人が集う中央には北部湿地帯を模した大地図と部隊配置を示す駒が置かれている。エルフの死体から剥いだ肌をなめして作った地図はリザードマンが有するなかでも貴重な資料のひとつだ。
北も南も緊張状態で慌ただしい空気の中、ソルの平坦な声が響いた。
数名の偵察を放った。慣れ親しんだ故地である。地形適性のこともあり、用心に徹すれば容易に情報を持ち帰れると踏んでいた。
――結果は、斥候の大半が討ちとられるという惨状。生き残ったのは一名だけで、それも左腕と尾を喰いちぎられるという有様だった。あれでは傷がいえるのに五年はかかろう。そして五年もあればこの湿地帯の趨勢は決定的になっているに違いない。
「恐らく敵はコロンビア半島の独立歩兵――五年前、我々の要塞攻めを阻んだ連中と思われます」
思い出す。春中の要塞、完全に意表を突いた奇襲によって陥落も目前と思われた矢先、唐突に蜥蜴たちに立ちはだかった傭兵たちを。
忘れられるはずもない。あの戦いの傷によりソルは一度右腕を失い、リザードマンとしての毒爪を用いた戦術を手放さざるを得なくなった。代わりに得た力はそれに劣らぬとはいえ、あの途方もない喪失感は今でもありありと思い出せる。
――――そう。ならば奴もいるのだろう。
ソルを打ち破った狼使い。白狼を連れた紅銀の猟師が。
「彼らの作戦目標は依然不明ですが、本格的な拠点設営の動きがあるとのこと。数か月がかりの大掛かりな遠征となる可能性が高いかと思われます。すぐさま移動にかからないことからも援軍のあてがあるのでしょう。
……持久戦は相手の思う壺です。ここは短期決戦を進言します」
地図の右上に置かれた数個の白石。それに相対するように右下から赤と青の宝石を置いて押し上げる。
白は敵、はるか下に並べて置かれた黒石は味方の雑兵。ならばあえて煌びやかな宝石を用いた駒は――
「戦線から主力を抽出し、ハスカールを撃退します。一刻も早く全力をもってこれを一撃で叩き潰し、設営中の拠点は破壊するなり占領するなりし守りを固めるのです。いかに奴らとて揚陸戦は負担が重いはず。以後は船が運べる人数分だけ守兵を置いて警戒に当たれば、彼らがこの地に攻め入ることは二度となくなるでしょう。
先鋒は我々が引き受けます。一気呵成に攻めかかり、崩れたところをルーンリザード衆による魔法掃射と強襲にて討ち取るのです」
ひと息で説明しきり、ソルは改めて軍議の面々を見渡した。
周囲の反応は……賛否両論といったところか。興味深げに頷くもの、納得した風に眦を緩めるもの、依然険しい視線で机上を睨みつけるもの、そも理解が及んでいるか怪しい無表情のもの。
……一目では他者との区別すら難しいリザードマンの表情をこうも読み取れるようになった辺り、随分この地にも慣れたものだと心中でひとりごちた。
「――うむ、うむ。なるほどソルの申す通りだ」
長年ソルと付き合いがあるジェムザがしきりに首を振って賛意を示した。それに続き彼の身内らしき将も声を揃える。
「あまり人気のない僻地とはいえ、占拠を許したままでは収まりが悪い。早々に叩くのが上策であろう」
「なに。奴らにとっては慣れぬ沼地、数さえ揃えて押し切れば容易に尻尾を巻くでしょうな」
数人の賛同を得て議場の空気がやや緩んだものになる。敵の襲来に誰もが焦燥を感じていたのだろう。具体的に方策を聞いて不安が和らいだのだ。
このままソルの言うまま戦略が決定すれば、流血も少なく敵を追い出し、二度と侵攻を許さぬよう守りを固めることができる。その後警戒のため砦や物見やぐらを設置することになるが、必要経費と割り切るほかない。
周囲の反応に手ごたえを感じたソルは族長ゲルドに向き直ると、改めて口を開き――
「しかし、それでは南方の戦線はどうなるのだ」
出し抜けに放たれた異論に出鼻を挫かれた。
見ればそこには青みがかった鱗の、いくらか歳若の蜥蜴が胡坐をかいていた。
青年は今や精鋭の証となった魔法の胸甲を身に着け、エルフから奪い取った煌びやかな外套を羽織っている。腰に蛮刀とともに結わえつけられている中ほどで折れた杖は、外套と同じくエルフからの鹵獲品であろう。
――ルーンリザード、ガルガム。最年少の戦士長。
ゲルドの長男であり五年ほど前に成人した彼は、真っ先にエルフの肉を口にする権利を勝ち取ったという。
軍議に出席するようになってからやたらとソルに張り合うようになったガルガムは、挑戦的な視線を向けて言った。
「貴様のその案に乗って戦力を戦線から引き抜いたとする。ではその間薄まった南はどう抑えるのだ? 最近ようやく撃滅の目途が立った敵の迎撃部隊はいまだ健在なのだぞ」
「……要衝以外は兵を引き、防衛に努めるべきかと」
「まだるい!」
ソルの返答を見越した様子でガルガムは声を上げた。
「あの猿どもをあそこまで追い込むのにどれだけの血が流れたと思う! そこまでして得た土地をむざむざと手放せというのか!」
「必要な犠牲です。それ以上に優先して叩かねばならない敵が北に現れたというだけのこと」
「ハッ、臆病風に吹かれたか! 貴様はまだひと当てもしてない敵を怖れている。無様極まるぞ!」
「……手の内の知れた敵よりも、得体の知れない敵を警戒するのは当然でしょう。……それに南は今、南海からの魔物の相手に手一杯となっている。こちらを攻める余力などないのです」
「ならばなおのことこちらから攻めるべきだ! エルフがこちらに全力を傾けられないうちにパルスの森を制圧するのだ。人間の相手などそのあとでいい。北の小兵なぞに何ができる!」
頑強に南攻を主張するガルガム。確かにエルフを攻めるのに今が好機というのは間違いあるまい。しかしソルには後顧の憂いがどうしても無視できなかった。
発言権は次期族長の呼び声高いガルガムの方が上だ。あまり刺激しすぎないようソルは言葉を選んだ。
「……北を奪われます。人間とエルフに挟まれますぞ」
「その頃には南が後背になっている。何を憂うことがあろうか」
綽々とした様子でガルガムが応えた。人間が版図を広げるよりも、リザードマンがエルフを滅ぼす方が早いと。
甚だ疑わしい自信だとソルは思う。森を奪って沼を失うのではこちらの地の利が完全に失われる。滅ぼしきれなかったエルフはゲリラ戦に徹し、一部はハスカールに合流して道案内に勤めるだろう。
つまり、どうあっても南は攻めきれない。リザードマンは常に後背を脅かされながら人間と戦うことになる。
一瞬、返す言葉に迷ったソルの傍らから注意を引くような咳ばらいがした。見れば、プレイヤーの取りまとめ役を務めるジェムザが小刻みに首を振ってわざとらしく手を打ってみせる。
「……お二方とも、ご意見ごもっとも。大変有意義な議論でしたな。特にガルガム殿の敵の攻勢を許さぬ意気軒昂な姿勢、まったく頼もしい限り。ガルガム殿がルーン衆を率いる限り、エルフが北上することなどありますまい」
「ふん……」
「…………」
人間なら揉み手でもしていそうな口ぶり。あからさまな追従に、しかしまんざらでもない表情でガルガムが顔を逸らした。
畳み掛けるようにジェムザが続ける。
「――しかし心配なのは北です。たとえ少数であれ手の内の知れぬ敵、それも上陸を許してしまっている。そんな輩に無防備に背中を晒し続けるのも面白くありますまい。……それに、身内事ゆえまこと心苦しいのですが、あの辺りは我が姪が酒造に使っている地でして」
「うむ、それは気の毒に思う。あの酒の腹の熱くなる感じは気に入っていたのだが」
そこで初めて土地について思いを馳せたのだろう。若いリザードマンは思案に暮れるように息を吐く。
彼の興味を僅かばかりにでも引けたのならば、ジェムザにとっても充分な取っ掛かりである。
「そこでいかがでしょう、ガルガム戦士長。わざわざルーン衆を動かすまでもないことは明白ながら、少々の助勢を頂きたいのです――」
●
プレイヤー衆を三名、兵卒を五十名。
――――結局、動かせる戦力はこの程度である。貸し与えられた兵が新兵でなく、ある程度の経験を重ねた古参である点は幸いといえた。
この戦いでソルは、たったこれだけの戦力で人間たちを撃退しなければならない。
「――儂にできるのはこの程度だ。すまんなぁ、ソル」
「いえ……」
軍議から退出し、自らの陣屋へ下がろうとする道中にて。
申し訳なさげに肩を落とすジェムザに、ソルは言葉少なく首を振る。
「あの場の空気では望外の成果です。それにこれ以上ジェムザ殿の立場を悪くするのは申し訳ない」
「構わん。姪が心配なのも本心だからな」
プレイヤーは戦闘員の大半を動員することができた。もうかれこれ十五年以上の付き合いで、閉鎖的な気質のあるリザードマン達よりも打ち解けてすらいる関係である。
これで戦力はルーンリザード達とプレイヤー達で綺麗に南北に分けられたことになる。連携の不安が消えたことは評価できる点ともいえるが。
「しかし……どうする、ソル? 人数は互角のようだが」
ジェムザが言った。悩ましげに眉根を寄せて思案するさまは心底からソルたちのことを憂いているようで、そんな姿を目にするたびに申し訳なく思っている。
「ガルガム殿は南を理由に手出しせぬつもりだ。少なくともお主がしくじって北が崩れでもしない限り」
「あるいはそれが狙いでしょう。彼は次期族長として手柄を望んでいる。我々が敗れた敵を倒したとなれば、立場を強めるのに充分でしょう」
逆を言えば、そうでもしなければ軽んじられるのがリザードマン社会だ。
言ってしまえば首長連合制。王制を敷いているわけでもないリザードマンは、部族長といえど必ず全員を従えられるわけではない。ゲルドが強権を得られたのはあくまで彼の武力と統率力によるものが大きい。
もしゲルドが地盤を固めきれずに急逝でもすれば、息子のガルガムの統治は自然消滅的に解散するだろう。
焦りがあるのだ。若者特有の漠然とした不安と承認欲求。手がかりもつかめない『父親越え』の壁が、青年の眼前を阻んでいる。それから目を逸らすためにわかりやすい『敵』を無意識に探し求めているのだろう。
ガルガムが己自身、確固とした手法を確立しさえすれば、容易く乗り越えられる代物だというのに。
「……とはいえ、ありがちな若者の癇癪に足を引っ張られるのは癪ですので」
「うむ……お主もなかなかに辛辣な」
首をすくめるジェムザを黙殺し、ソルは一度考え込んだ。
――使える手札は限られる。数は互角、質は前回の戦いからして過信はできない。地の利はこちらにあり、しかし敵が設営を重ねるごとに地勢は失われていく。
求めれらるのは迅速な敵の撃退だ。敵が守りを固める前に攻め立て、外輪船ごと東辺海に追い立てる必要がある。秋にもなれば時化が始まる。少なくとも冬まで、そこを耐えきればさらに来年の初夏まで猶予が得られる。その間にエルフを打倒するのだ。
少ない手札、求められる拙速の大戦果。――――ならば、足りない戦力は他から持ってくるほかあるまい。
「……敵を、こちらの土俵に引きずり出します」
誘引し、囲い込み、撃滅する。
過大な戦果が求められるなら、こちらも自傷は覚悟の上だ。
「沼地の奥――――ヒュドラの生息地に奴らを誘き出すのです」




