先遣隊、到着
リザードマンの勢力圏である湿地帯北東部は、比較的外敵に脅かされないいわゆる内地としての扱いを受けている。
エルフの森林は逆方向の遥か南方であるし、人間の王国の国境を守る要塞都市ニザーンは湿地帯の西端だ。そしてこれまで人間が北東部まで軍を進められた例はない。それは単純に、重装歩兵を主力としている王国軍にとって足を取られやすい沼地が攻めづらい要衝として機能してきたからである。
本来ならば第五紀、コロンビア半島を征服したのちに竜騎士の制空力をもって沼地ごと焼き払い、乾いた地面を歩兵が制圧していく、というのが彼の征服王の対リザードマン戦略だった。しかし彼は砂漠遠征の中途で急逝し、初代辺境伯は封ぜられたばかりで統治に追われ湿地帯遠征どころではなくなった。三十代で国王を失ったルフト王国は分裂の危機を迎え、時代は再統一時代へと移行していく。
かくして湿地帯攻略は頓挫したまま、前哨基地として開発されたニザーンは防性の傾向を強め、再侵攻発起の機会すら与えられぬまま今に至っている。
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「はぁ……」
リザードマンの青年、ガーニーが防備についているのは北東湿地帯。ルフト王国の脅威が取り沙汰されたのはもはや何代も昔の話であり、当時の言い伝えすら風化して久しい。
今や北東部はリザードマン勢力圏でも特に安定した情勢下にあり、脅威といえるものといえばたまに沼地からはぐれ出てくる弱い魔物が精々だ。
そのせいもあり、リザードマンが防備のために配置している兵はガーニーを含めても三人。それも成人からさして経っていない若者ばかりだった。
南方の対エルフ戦線が熾烈を極めているのだと聞いている。
歳経たエルフの肉を用いたリザードマンの秘術により、ルーンリザードと称する上位種族へ位階を上げた戦士が七人いるという。彼らが率先して南方への侵攻を画策しているため、平穏な北東へ割く兵が不足しているのだ。
おかげで碌にエルフとの戦いを経験することなくガーニーたちは北東に回され、自らの武勇を示す機会は失われてしまった。当然、エルフの肉を食らい力を得ることもない。
何の落ち度もないまま僻地へ左遷されたとなれば、まだ若年のリザードマンに不満が溜まるのも道理といえた。
「やってられねえよな、クソ」
「おいおい、さっきからしけた面で何言ってやがるんだ。空気わるくなるだろうが」
悪態をついたガーニーを咎めたのは同世代のオードだ。何の酔狂かエルフからの鹵獲品である短弓を親戚から譲ってもらったらしく、最近はそれを習熟しようと事あるごとに弦を引く姿が見られた。
手すさびのように矢を番えては何もないところに弓を向けるオードは、やる気なく倒木に腰掛けるガーニーを呆れた様子で見下ろした。
「お前ずっとここに座ってたのかよ。ちゃんと見張りやってんのか?」
「知るか。真面目にやってもバカ見るだけだ」
緑色の鼻先から荒く息を吐いてガーニーは言った。
「敵なんて来るわけねえだろ、こんなド田舎誰も見向きしねえって。人間が攻めてくるにしたって南の方を真っ先に攻めるさ」
「魔物が出るかもしれないだろうが」
「サーペントとか? デカいワニとかか? まさか蜂だのナメクジだのまで魔物の内かよ? 近所の婆ちゃんでも退治できるじゃねえか。見回りなんか要らねえよ。その上――」
そう言ってガーニーは目の前に広がる光景を見渡す。彼らが任された土地には、一面に青々しい水田が広がっていた。
「米だと! いったい何の役に立つってんだ、こんなもの!」
「ガーニー。よせって」
「はんっ、馬鹿馬鹿しい! 道楽女が酒造りのために仕立てた田んぼを、どうして戦士が守らなきゃならねえんだ!」
「酒は美味かったろ?」
「けっ!」
酒なんか、とガーニーが唾を吐き捨てる。
最初の頃は蜂蜜酒、最近は米酒にお熱であるらしい。
族長ゲルドの側近ジェムザ、彼の姪が何を思って酒造に熱を上げているのかは知らない。彼女の作る米酒は、水田周辺に自生し始めた南瓜によって浄化され毒性を失った沼の水を使っているせいか、辛味が無く酒精が強い。そんな新しい酒は身体の弱った老人や毒への耐性が未熟な若者に好まれる傾向がある。
ガーニーはそんな風に始まった軟弱な流行が気に入らなかった。
「鍛え方が足りねえんだよ。甘ったるい酒ばっかり飲むから耐性が付かねえんだ。そんなだから戦士長に、最近のわかもんはぁなんて嫌味を言われるんだろ」
「酒飲んで毒耐性が上がるならいくらでも飲むんだがよ」
閉口した様子でオードが溜息を吐く。手慰みに弓をいじる右手の指は、毒爪を武器とするリザードマンにあるまじきことに丹念に切り揃えられている。彼曰く、弓を引くには長い爪が邪魔なのだそうで、暇があればやすりを使って爪の手入れをする姿が普段から見られていた。
年経たリザードマンの爪は鋼鉄をも斬り裂くというのに、オードはそれにまったく頓着する様子が無い。いっそ最初から白兵戦を切り捨てているようにも思えた。
「くだらねえ。軟弱だ、くそったれ。あんな酒、女にでも飲ませとけばいいんだ」
「おいガーニー」
不満をぶちまけるガーニーをオードが咎めた。
「いい加減にしろよ。そう腐ってばかりで何が変わるんだ」
「真面目に努めて何が変わるんだ! あの女から覚えめでたくなろうってか?」
「ガーニー!」
さすがに聞き捨てならなかったようでオードが声を荒げる。不快げに吊り上がった目尻に、心なしか緑の鱗が赤みがかっているように見えた。
……これ以上は口喧嘩で済まない。そう察したガーニーは不承不承口をつぐむ。
「……見回ってくる。ろくな魔物なんていないだろうがな」
「おう」
重い腰を上げ、曲刀を腰に佩く。重い足取りで水田を巡回するいつもの道へ向かおうと――
「え?」
海が見えた。
何の変哲もない、いつもと変わらないつまらない海のはずだった。
気分が淀みそうになる青黒い海。青い空と交わって、二色の青と雲の白しかない光景。
そこに、見たことのない物体が浮かんでいる――
「なんだ、あれ……舟か?」
「馬鹿言うな、東辺海に舟なんか浮かぶわけないだろ」
口を衝いて出た疑問にオードがすかさず否定を入れた。そういうオードですら目の前の光景が信じられないでいる。
狐に頬をつままれる――そんな格言があるという。今二人の心情はまさにそれだった。
――東辺海を船が通ることはない。これは東辺海に接する住民ならば誰もが知る常識である。その理由はこの海が抱える特異な地形的特性にあった。
年がら年中、およそ帆船を浮かべるに適した天候ではないのだ、この海は。
春秋と冬の間は時化に覆われ、夏になれば今度は打って変わって凪が海面を支配する。両極端な気候は適度な風を受けて進む帆船にとって天敵で、とても運用に適していると言い難い。
ここ最近では、冬のごく短期間に時化が収まり航海が可能になったと聞くが……所詮は人間やエルフのやることだ。冬はねぐらに籠りがちなガーニー自身がそんな船を見る機会はなかった。
しかしこれはどういうことだ。今の季節は夏、それも初夏が終わろうとする6月も半ばである。このころの東辺海は凪のまっさなかで、船の通る余地などないはずだというのに。
それを予期してジェムザたちリザードマンの指導者たちは浜辺の脅威度を下げ、守りを薄くしたうえでガーニーたち若手を配置したのではなかったのか。
「どういうことだよ……あれぁなんで船が進んでるんだ!?」
「船……船か、あれ?」
その船は、ガーニーたちが見たことのない見た目をしていた。
大振りな船体、そこまでは良い。帆柱は前後に二つと、冬に遠洋を行くところを遠目で見る船よりも少なくさえある。しかし問題は真ん中。
丸々と太い真ん中の帆柱。帆下駄を渡すわけでもなく、先端に見張りを立たせるわけでもない。
いっそ扁平で不格好な黒い柱。その先端からもくもくと黒い煙が吐き出されている。
船の両側面には、これまた見たことのない巨大な車輪が据えつけてあり、それが船の動きとあわせて回転していた。
――――なんだ、あれは。
なんだ。船か。武器か。生き物か。
どうして潮も風もない海を進める。あの煙は何だ。
いったいこの東辺海で何が起こって――
「ガーニー、あれを見ろ」
言われずとも見えていた。始めからガーニーの目はあの船に釘付けだったのだから。
遥か沖合に浮かぶ船。その甲板に人影が姿を現した。
小柄な体躯、金色の頭。それ以上はガーニーの視力ではとらえられない。
人影は甲板であたりを見まわすような仕草を取ると、手に持っているものを掲げて、
「あぁん? あれは……」
弓手で目がいいオードが怪訝な声で唸る。つい癖なのか、手に持つ弓を両手で浮かせて――
「オード……?」
ひゅん、と風を切る音。
「がひゅっ」
ぼちゅ、と肉を突く湿った音。
だらりと力なく垂れ下がった腕。
手を離れた弓が音を立てて地面に転がる。
振り返る。その光景をガーニーが視界に収める。
立ち尽くすオードの眼窩には、それまでなかった長い矢が突き立っていた。
「……オード?」
恐る恐る問いかける。間抜けに半開きになった口腔からはだらりと舌が垂れ、不自然な脱力が異様な恐ろしさを醸し出していた。
オードはガーニーの問いかけに応えず、ぐらりと体勢を崩して、
「オード?」
どさりと倒れ伏す緑の体躯。麻痺したように何も感想が出てこない。
頭の中が真っ白に霞んで、何も考えられなかった。
――突然に、ガーニーのの顔に影が差した。
雲が湧いたのかもしれない。鳥の群れでも横切ったのかもしれない。そう珍しいことでもない、そのはずだ。
それでも、何か急かされる感覚が胸から湧いてガーニーが顔を上げると、
「――――」
空を覆い陽を遮る、矢の大群。
まるで吸い込まれるようにこちらへ降り注ぐ――
「ひ――――ああぁああぁああっ!?」
何もかもが頭から吹き飛んだ。ただ恐怖だけが脳内を支配した。
みっともない悲鳴を上げて腰砕けになりながら逃げを打った。置き去りにした同僚も、左遷されて懐いていた不満も、全て投げ捨てて尻尾を巻いた。情けないと自らを顧みる余裕など消え失せていた。
ずどどどどど、と聞いたことのない音を立てて矢の豪雨が降り注ぐ。岩を割り流木を砕く瀑布の矢。泡を食って逃げ出したガーニーがどんなに必死に走ったところで、気付いた時点で遅きに失していたのだ。
「ぎ……っ!?」
衝撃。
背中。
転倒。
うつ伏せに倒れ込んだガーニーの背中へ駄目押しのように十本以上の矢が降り注ぐ。緑の鱗を貫き鏃が肉を抉り骨を削る。背中に衝撃が走るたびにガーニーは悲鳴を上げて手足を痙攣させた。
がつん、とひときわ大きな衝撃。頭蓋に走る痛みと顎下を地面に打ち付ける感触。
救けは来ない。
どうして。
逃げないと。
誰か。
死にたくない。
痛い。
「あ、あぁああぁあ……」
息ができない。苦しくてたまらない。背中にびっしりと突き刺さる何か。誰か、これを誰か取ってくれ。
必死な思いで腕の力だけで身体を引き摺った。あと十歩、歩けばたった十歩の先に木陰がある。そこまで行けばきっと矢の雨も止む。そのはずだから。
――――その十歩が、どんな海の果てより遠い。
衝撃。白い。
熱い。赤い?
つめたい。くらい――
何もかもがわからない。這いつくばり木陰へと弱々しく手を伸ばしながら、ガーニーの意識は明滅の果てに消え失せた。
●
「――――――」
波に揺られる甲板にて、エルモは身の丈ほどの長弓を下ろした。残心を示しながらその瞳は自らが引き起こした惨状を見渡している。
――弓を持つ弓兵らしき個体を優先して狙撃。残る一体を一斉曲射にて追い詰め、仕留めきれなかったと見るや雷撃をもって一掃。
雷撃は胴メッキを施した鏃を伝播しもはや爆撃の様相を呈している。森に逃げ込もうとして背中に十二本の矢を受けたリザードマンなど酷いもので、後頭部から背中にかけてをごっそりと黒く炭化させていた。
未だ紫電を発するコンパウンドボウ。構造材にドワーフ合金、魔法媒体にミスリルをメッキした特注の弓は、過剰ともいえる戦果をもたらしてくれた。
……いや、実際に過剰だったのだろう。
エルモはそれらの光景を冷徹に見渡すと、自らが仕留めたリザードマン二体に目を留めた。
遠目に見てもエルフの視力は死体の状況を見て取れる。一体は眼窩を貫通して脳を潰し、もう一体は背中を針鼠のようにしながら背中を吹き飛ばされている。
自らがいっそ偏執的なまでに念入りに止めを刺した死体を目にして、エルモはわずかに眉をひそめた。
「――――若いわね」




