瘴気島の戦い:後
戦場を望む平野。エルフ統治時代、大陸の片隅にある小さな島で起きた一つの戦い。今や防塁や城址の形でしか面影を残さない古戦場跡にて、その少女は佇んでいた。
フードを目深に被った、小柄な女である。陰に隠れて表情はうかがえないものの、ちらりとのぞく頬には幾何学的な刺青が刻まれていた。……今や知る者の無い、生贄を示す記号である。
「……ふむ、やはりこうなったか」
少女はひとりごちて眼前の戦場を見渡した。布陣する人間と待ち構えるゴブリンたち、魔力感知によれば少女のすぐ近くにある雑木林にはゴブリンの伏兵が潜んでいる。
数の多い側の方が取れる手は多い。当然のことだ。小細工とは優勢な側が用いるもの。兵が劣るなら出来ることは守るか逃げるか降伏するか、それが常道というものである。奇策頼り起死回生の一点賭けなど、まさしく邪道とすらいえる。
――――では、この場にて真実劣勢といえるのはどちらであるのか。
「ふむ……ふむ」
ずるり、ずるり。
足元の地面の下から、何者かが蠢く気配。
震え罅割れ盛り上がる地面。地震と見るにはあまりにも動きが生々しく、虫の蠢動と取るにはあまりにも範囲が広範に過ぎる。
そう、広範。ひしめくように何かが潜んでいる一帯は、彼女の立つ古戦場全域にわたっていた。
雑草が深みに呑み込まれる、岩が覆り地表が耕される。まるで蚯蚓がのたうつモザイクの画板のよう。
「――のう、ノエル。知らぬであろうが、儂はお主に感謝しておるのじゃ」
ここにはいない少女に向けて思いを馳せる。イニティフがここに立つ遠因を作り、ひいてはこの瘴気島の行く末を決定づけた田舎娘。
あの少女は知っているだろうか。彼女のなした偉業、その奇跡のほどを。
心の折れた少年、その先には約束された破滅のみしか残らなかった。
勇者など片腹痛い。ただの未熟で幼稚な少年で、希望に満ちた未来を疑うことなく、現実から目を背けて架空に逃避するほど老いてもいない。ただ普通の十代学生でしかない。
――――そんな日々が、ある日唐突に終わりを告げた。理不尽に、容赦なく。
ただの子供に受け入れられまい。それは柊軽馬とて例外ではない。凡庸な少年の結末として、いっそひと息に断絶してしまった方がまだ救いはあっただろう。
しかし意識は続いていた。奇跡的に脳死寸前だった少年は、かくしてこの電脳世界へと繋ぎとめられた。
何も残せない。何も生み出せない。積み上げた業績も築き上げた絆も、最後には電子の塵となるうつろの監獄。あのヴェンディルですら耐えられなかった世界の定義。もとより無関係であったカルマがそれに何を思ったのか。
いうなれば、彼にとってこの世界は長すぎる走馬灯のようなもの。いつ終わるのかもわからない、しかして終わればすべてが消え失せる、破滅じみた救いの終末。なぜそれに付き合わなければならないのか、答えなど返っては来ない。認められるはずがない。
ならば彼になすべきことなどない。使命も因縁も宿願すらも存在しない。
邯鄲の枕、胡蝶の夢。本当に夢のように早く過ぎ去れと手足を縮めて終わりを待つ日々。ひたすらに無為へ身体を浸し、いずれ来たる破滅への恐怖を鈍麻させるのが精々であろう。
――だが、それをノエルは変えた。変えてしまった。
変化はあくまで微々たるもの。しかしこれまでイニティフがどんな餌をぶら下げてもびくともしなかった心の殻を、ほんのわずかこじ開けたのだ。
……当人の前では、決して口にするつもりはないけれど、
「ほんのささやかなれど、奇跡は奇跡。報酬は与えてやらねばなるまい。肩入れするには充分な理由じゃろ」
――――にい、と。
イニティフの口が三日月のように吊り上がる。ローブから覗く白い手が指揮者のように閃いた。
「――――今こそ、応報のとき」
杖もなく、宝珠もなく、鏡もなく、護符もなく、精霊もない。
触媒ひとつ身に帯びず、怨嗟の呪言を紡ぎ上げる。
「腐り堕ち、爛れ果て、擦り尽きる五体の残滓。赫奕たる憤怒は天を衝き、永劫無窮の頻闇へ堕つ」
全盛期には程遠い。五百年前に風化した古戦場の魔力溜まりをすべて使い果たしたとしても、賢人上位三席の足元にも及ばぬ脆弱さ。ましてや天使にあたってはひと息で浄化されよう。
「畏れよ、崇めよ、地に伏せよ。這行する巫女、噴血の衛士、蛇蝎の祭壇、腐乱の玉座」
――だが、それが一体なんの障害となるというのか。
「彼の地に生者なく、彼の地に聖邪なく、彼の地に正者なく、彼の地に盛者なく」
この地こそ呪怨の禁域、彼の者の始まりの地、未だ怨嗟冷めやらぬ瘴気島。
この忌々しき土の下には、彼女が百殺して余りある怨敵がのうのうと眠りについている――
「我が命に服せよ、隷罰こそ安寧と知れ――――痛苦を奉仕と嘯いたは汝どもじゃ」
有り難く頂戴せよ、忌々しき元主人ども。
亡霊の巫女は詠唱とともに吐き捨てると、今度こそ言霊の引き金を引いた。
「これに至るは瘧疾の風。これは死の河、亡者の波濤。さぁさぁ、踊れ踊れ滑稽に。高貴な長耳のなれの果て、末世永代のガラクタ踊りじゃ……!」
●
土が盛り上がった。地ずれのように、津波のように。
否、これは持ち上げられたのだ。
耕された地表から、『何か』がにょきりと生えてくる。
何が――――何だ、これは、あれは。
「アンデッド……!」
アムールの食いしばった口から呻き声が漏れた。視線は南の古戦場に釘付けにされ、今なお生え続けている死者の群れを凝視し続けている。
蛆の生えた腕、
眼窩から蛇が首を伸ばし、
錆びた鎧は所々が脱落する。
腐り落ちた指先に剣の柄を引っかけ、
半壊した顎をガチガチと噛み合わせ、
途中で折れた先のない脛を地面に突き立て立ち上がる。
一体一体ならば大したことのないスケルトンやゾンビの群れ。やれというならアムールだけでも容易に吹き飛ばせよう。ともすれば彼の教え子ですら易々と蹂躙しうる雑兵も雑兵。
たとえ百体もの群れで襲われようとも、守りを固めて統率を維持し、堅固に努めるうちに打倒してみせる。
――しかし、万を超える軍勢は。
あんなもの、一体どうやって凌げばいいというのだ――――!?
「ア、アアァアァアァアァア!?」
「ギィャ!? ひぃいいいいい……!?」
古戦場の目前に繁っていた林から、聞き覚えのある悲鳴が上がった。あそこに潜ませていた奇襲部隊だ。
なんということか。彼らがいる場所はあのアンデッドの軍勢の目と鼻の先。
とても逃げきれない。逃げられない。
「ヒィィヤアァアァアアア!?」
「あわ、イィィイィイイイ」
逃げてくる。言葉にならない悲鳴を上げて、恥も外聞もなく。
アムール自ら鍛え上げた精鋭たち。人間の戦士相手でも後れは取らぬと確信していたゴブリンの戦士。
カピバラの顔が、恐怖であんなにも原型なく崩れるのだと初めて知った。
鎧も剣も投げ捨てて、統率も何もなく、ほんの一時間前に見せていた自信に満ちた顔も消え失せて。
――――それでも、間に合わない。
「ぎゃっ」
ゴブリンの一人が足をもつれされて転倒した。驚くべき速度で跳躍した骸骨が足にしがみつき引き倒したのだ。
拘束を解こうと骸骨の頭をしきりに殴りつけるも、骸骨は嘲るように顎を鳴らして離さない。
「ひっ!? 嫌だ、いやだいやだいやだ! アァァアァアアァアっ、せんせいっ、せんせぇええええ……ッ!」
「エレク……!」
泣き叫び助けを求めるゴブリン。先生とは誰のことか。あれに才能を見出し、物書きを教え名前まで与えたのは一体誰か。
「…………泰然たる、光芒よ」
しゃがれた声が聞こえた。自分の声とは思えないほど、遠くに聞こえた。
土の杭が突き上がる。瞬く間に腕ほどの太さで二メートルを超える高さまで伸びあがった土の杭。次々と生え伸びる無数の土杭は、アンデッドの軍勢とゴブリンたちの間を一直線に遮り阻んだ。
――――逃げ遅れた彼らを残して。
「せんせい!?」
信じられない顔つきでアムールを凝視するゴブリンたち。守られた者も、締め出された者も、みな同様に唖然とした視線をアムールに送った。
アムールは表情を替えなかった。鉄のような無表情で、土杭の壁の先を見通していた。
「ぎゃっ、あぁっ……せんせ、いだ、ギッ!? ギィィイイイィイイ!?」
断末魔。
毛皮ごと肉を齧り取られる。錆びた剣で切断される。腕を関節からもぎ取られる。折れた骨の先端を目に突き込まれる。何度も何度も踏み潰される。
悲鳴が聞こえる。だんだんと近付いてくる。土杭に取り縋ったゴブリンが押し潰されるように引き倒される。誰も彼もが助けを求める。敬愛する先生に、親のようなアムールに。
「壁が、保たない」
その犠牲を、能面のような表情で黙殺した。
――杭が赤い。押し潰されたゴブリンの血だ。
万の軍勢、押し寄せる津波のようだ。土杭は軋みを上げ、そう長くない先にへし倒される。
――杭の隙間から何かが零れた。赤茶の体毛の子供のような腕。
これを打倒する手段はない。死霊術の効果が切れるまで防戦に徹しようにも、この平原では守るに向かない。
――隙間から手を伸ばしてくるゴブリン。助けを求めているように見えて、その実後ろから押し付けられているだけだ。胸から下が無くなっている。
時間が無い。杭は広く生やしたとはいえ完全ではない。あれだけの数、きっと零れるように左右の両端から迂回してくる。そうなる前にどうにかしなければ。
そうとも、どうにかしなければならない。
これまでどれだけの数を犠牲にした。人間を攻め、蓄えを略奪し、余所者をしりぞけ、教え子まで粛清した。そして今、目の前で仲間を斬り捨てた。これだけのことをしたのだから、それに見合う成果を得なければならない。
進まなければ、切り開かなければ。そうでなければ立つ瀬がない。合わせる顔が無い。だから打開しなければ。対策を切り出さなければ。
――――どうやって?
「――――――」
数を頼りに戦うゴブリンが、数に上回る敵をどう打倒する?
どうやって?
オサレ値が足りぬ




