砂礫の賢者:後
初めて会ったときから、その賢者の意図には気付いていた。
教えを乞うときの見下した目付き、無知を曝け出してみせたときのあからさまな嘲笑。……自分を見つめる昏い瞳は、決して弟子に向けられるものではなかった。
最初は、それがなぜ自分に向けられているのかわからなかったものの、その謎は一週間と経たずに氷解した。
なんてことはない。嫉妬と虚栄心である。
言葉の端々ににじむ歪んだ優越感。たまにロレンスが場違いな台詞で教壇を乱したときやインベントリからアイテムを取り出すとき、決まって向けられるのは叱責ではなく憎悪の視線だった。
己の知らないものを知っている誰か。己にはできない発想をする誰か。己には決してできないことをして見せる誰か。
聞くまでもないことだ。恐らくシャーワルは、彼自身が未熟であった頃プレイヤーに手酷くやり込められことがある。
プレイヤーの有する魔法への高い適性、そして容易く命を懸けられる独特な精神性は、こと魔法に対して高い成長力を秘めている。そのことを考えれば、その劣等感の源泉は容易く想像することができた。
かつて見下していたプレイヤーに追い抜かれた過去でもあるのか、追いつけないまま別離したプレイヤーでもいたのか。シャーワルのプレイヤーに対する歪んだ執心は、ログイン初期でろくな魔力操作もままならないロレンスに対して発散された。
恨みには思っていない。かといって、尊敬に値する傑物だとも思っていない。
ただ、この老人はそういう人間なのだという醒めた感想だけが胸に残った。
それは悪口雑言アピールを売りにしていた政治家が、意気揚々と出演したバラエティ番組で墓穴を掘ったさまを見る時の感覚に似ている。特に悲観することも残念に思うこともない、『これ』は『そういう』ものだからと分類するだけだ。
それを考えると……なるほど。
自分のそういう態度こそが、師を更に捻じ曲げたのかもしれない、とロレンスは思った。
●
顔が焼きごてでも当てられたように痛い。頬の腫れはシリコンでも詰め込んだみたいにぶよぶよしていた、左の視界が真っ暗なままだ。きっと頬骨は依然折れているだろう。
潰れた腹の内臓を優先させた。砂漠の大地から吸い上げた精力は、遅々としながらもロレンスの身体を再生させている。異臭がしないところからして、腹を踏まれたときに糞便を垂れ流した、なんて無様は晒していないようだった。
……いや、本当にそうなってたら本気で困る。心底困る。
尻の後ろを茶色く染めたまま姫様との謁見だなんて、それこそ羞恥で消えてしまうに違いない。
「い……だぁ……」
そんな下らない現実逃避にひと区切りをつけ、ロレンスはやっとの思いで立ち上がった。
幸いなことに足はほぼ無傷。腕はシャーワルの蹴りを防ぐために骨に罅が入ったようだが、起き上がるのに支障はない。
どうにかこうにか死にそうな思いで歩を進める。目の前には隆起した土の塊。まるで鉄の処女のように固く閉ざされた立体物は、どこかモノリスじみた無機質さでロレンスを迎えた。
この中に、地の賢者シャーワルが封じられている。
「――――――」
死んではいないだろう。死ぬわけがない。地水火風の四つの属性、その中で最も華やかさに欠け最も生き汚いのが土魔法だ。たとえ四肢を寸断され肺腑を挽肉になるまで潰されようと、あの賢者なら何食わぬ顔で再生をおっぱじめるに違いない。
流石にここから出られるようになるまで数年は要するだろうが――――そも、出てこられては困る。
不確定要素は、断てる時に断つべきだ。
懐から毒の短刀を取り出した。先の攻防でも折れずに残っていた黒塗りの刃は、今か今かと血を吸うのを待っている。
あとはこれを棺桶ごと突き刺せばいい。己が生み出した土の棺だ、刃先が通るようにそこだけ硬度を失わせるなど造作もないこと。
――顔が痛む。燃えるような痛みを訴える左眼は未だ塞がったままだ。治ることはないのだろうな、と思うと、ゲームだというのに言いようのない喪失感が胸を衝いた。
熱にうかされたときのように右の視界まで滲んでくる。今にも意識を手放しそうだ。これ以上長々と勿体ぶってはいられない。
「…………お別れです、師匠」
一声、心のこもらない別離の言葉を投げかけて、ロレンスは棺目がけて短刀を押し込み、
――――ずるり、と。
巣穴から獲物を襲う蛇のように棺桶から突き出てきた野太い腕に、首を掴まれた。
「が……!?」
「呵々呵々ッ! 甘い! 甘い甘い甘い甘い甘いッ! 所詮貴様はその程度よ……!」
耳障りな哄笑が聞こえる。声はひっくり返り、飛び散った口角泡がロレンスの顔にかかった。それを不快に思うより、ぎちぎちと絞り上げられる喉笛が苦しくてたまらない。
「勝てると思うたか? 殺せると思うたか!? 残念だったなぁ! 笑止! 稚拙! 片腹痛い! 値千金の機会をくれてやったというのに、貴様はそれを活かせなんだ! それが貴様の限界よ! その愚昧、その無才さを嘆くがいい……!」
「ぉ……ご……!」
息ができない。突き出た舌が酸素を求めて蠢く。四肢が言うことを聞かずびくびくと痙攣を繰り返す。短刀を取り落さなかったのは奇跡に近い。
「ほら苦しめ! そら苦しめ! さあ死ぬぞ直ぐ死ぬぞもう死ぬぞ! 悪足掻きはそこまでか謀士崩れが!」
「――――、……」
視界が赤黒く染まっていく。血が足りない、酸素が足りない。おかしい話だ、絞め技で落ちるなら眠るように気を失うはずなのに。どうやら我が師は拷問術に造詣があるらしい。
思考がにごっていく。何かをわすれている気がする。ぜったいに手放してはいけないものがあったはず。
そう、短刀。短刀がある。どくを塗った短刀だ。これさえ刺せばすべてが終わる。かすめただけで致命傷。
みぎてに短刀、ひだりてに……なんだっけ?
「ひゃひゃっ! まだ動くか!」
もがくようにして振るった右手は届かなかった。リーチが違い過ぎた。馬鹿なことをしたと直後に思い知る。別に顔を狙わずとも、この首を掴む腕を引っ掻けば終わった話なのに。
シャーワルはロレンスの抵抗をせせら笑い、短刀を持つ右手を易々と受け止めた。なめした革のような硬い手の平は柄を持つ手を包み込み、レモンでも搾るような仕草で指ごと握り潰す。
「……!? ――――ッ!?」
「潰そうか、引き千切ろうか、磨り潰そうか! 聞こえんぞ悲鳴がっ!」
悲鳴は喉ごと潰された。灼けるような痛みだけが脳を串刺しにする。
生ごみのように投げ捨てられた。受け身を取る余裕もなくロレンスは砂まみれになって横たわる。
ぴくりとも、動けない。
●
「なんじゃ、もう終わりか? 骨が足らんわ、骨が!」
ロレンスの醜態を嘲笑し、シャーワルは自らを拘束する棺桶を腕の一振りで破壊した。制御は既に奪われている。砕くのも砂塵に返すのも思いのままなのだろう。
易々と拘束から脱した老賢者は砂漠の地に片脚を降ろすと、跨ぎ越えるようにもう片脚を引き抜いて、
――――ごり、と何かが擦れる音。
引き抜いた右脚は、太腿から先が無くなっていた。
「なに……?」
シャーワルが怪訝な声を上げる。痛みもなく、感覚もなく。一気に長さを半分にまで減らした片脚を抱えて片足立ちで首を傾げる老人の姿。いっそ滑稽に映る光景だった。
太腿の断面は灰色に変色し、大理石じみた硬質な光沢を帯びている。
「石化……じゃと……?」
地の賢者を石化させる――ありえない現状に呆気にとられる。そんなシャーワルの心境などお構いなしに石化の範囲は次第に広がっていく。
じわり、じわりと、ナメクジの這うような速度で浸蝕を進める石の病に、ようやく賢者は我に返った。
見れば、腿の側面にへばりつく瘤のような物体が目についた。
恐らくは球状。球根のような形状のそれは、根を張りしがみつくかのようにシャーワルの腿に張り付いている。
赤黒い血にまみれたぶよぶよの瘤は、そこはかとない既視感をシャーワルに与えていた。
振り返る。満身創痍で起き上がることもままならない弟子の姿。その顔の片側はとめどなく血が溢れ、閉じられた瞼は――――あるべき膨らみがない。
「貴様――――眼を抉ったのか!?」
「…………」
横たわる弟子は無言。しかし、残された隻眼は確とした意志を湛えて賢者を見つめていた。
よろよろと持ち上げられた右手が、シャーワルを指差し、
「オシリス――――絶」
それがこの男の最後の奥の手。全てはこの一瞬のためばら撒いた目くらまし。
たとえ賢者であろうと回避不能な破滅に師を陥れることが、ロレンスの目論見だった。
「は――――姑息」
そんなロレンスが決死の思いで報いた一矢を、シャーワルは一言で吐き捨てた。
すでに右脚は完全に浸蝕され、腰下にまで石化は及んでいる。左脚の感覚はなく、無理に動かせばもう片脚同様無惨に砕けるだろう。
こうなっては逃れられる術はない。姑息と罵った稚拙な手腕で地の賢者は失墜する。
「姑息、姑息――――うむ。いや、いささか儂が遊び過ぎたか」
かつて夢見た、生意気な『客人』を嬲る快感よ。思わず我を忘れるほどであったか。
嗜虐の恍惚が頭を熱し狂わせた。常の欠片ほどの冷静さが残っていれば、この程度いくらでも防ぎようがあったろうに。
収集した道具も用いず、奥義を尽くすことすら怠り、その結果がこれだ。今や胸元にまで迫ろうとする石の感覚、見苦しく口のみが動いている。
「なんと無様な。一世紀もの研鑽が、たかが十五年の修練に競り負けた。『客人』の何たる理不尽なことよ。あぁ、しかし――」
――――畜生、悔しいなぁ、と。
その老いた顔に子供じみた稚気を滲ませて、最後に心底悔しげにぼやいたのち、大地の賢者は今度こそ物言わぬ石像と化した。
●
どうやら、雨が降っているようだ。
頬にかかる水滴の感触。ぽたぽたと断続的に顔に降りかかるそれは大粒で、経験的に大降りになる模様。
顔面やらはらわたやらが猛烈に痛くて思わず気絶していたものの、流石にこのまま砂漠に寝たきりの言うのは具合が悪い。
砂漠の夜はたいそう冷え込む。それに雨のコンボと来れば、疾病耐性をさほど鍛えていないロレンスの身体では風邪を引いてしまう。
……それはいけない。軍を率いて主君に仕える身となった今、ただの不摂生で軍務に支障をきたすなどあってはならない。
ただでさえ少数派なプレイヤーは肩身が狭いのだ。付け入る隙は与えられない。
さあ、起きよう……と気合を入れたところで疑問に思う。
――この雨粒、夜の雨にしては妙に暖かいような。そして無造作に寝っ転がっているにしては、後頭部にやけに柔らかい感触がするのはなぜ?
「――――ん……?」
「む……起きたようだの」
重たい瞼を開いてみれば、眼前には見覚えのある顔があった。
瑞々しい褐色の肌に、アーモンドのように大きな瞳は潤みがかっている。手入れを欠かさない黒髪は背中にまで流していた。上下逆転した天使のような美女の顔は、安堵した顔つきでロレンスをロレンスに向けている。
誰あろう、ロレンスが仰ぐ砂漠の女族長、ファーティマがそこにいた。
「……………………なんだ、ゆめか」
「失礼なことを言うでないわ、ロレンス」
夢か、それとも都合のいい幻覚か。あるいは死の間際に見る走馬灯という奴か。
あれだけボロボロになるまでやり合ったのだ、今は気絶後即死亡してログアウトするまでの猶予期間なんてことも十分考えられるわけで。
そうでもなければあのファーティマ様がこんな――
「ロレンス」
「はい」
「余計なことを考えておるな?」
「ははは……」
「お主はいつもそうじゃ。肝心な時に心がここにあらず。今だって、わらわが直々に膝を貸してやってるのに、ヘラヘラ笑ってばかりおる」
「それは……御恩情に感涙にむせび泣かんばかりにございます」
「やはり。心が籠っておらぬぞ、ばか」
ひざまくら。
ひざまくら。
ひざまくら――
際限なく脳内でリフレインする僅か五文字、漢字にして二文字の単語。その響きの甘美たるや。
今現在自分が陥っている状況をようやく理解し、ロレンスは猛烈に死にたくなった。
……どうしてもっと早く目が覚めなかったのか、どうして我慢できずに目を開けてしまったのか! もっとこの後頭部を包み込む感触を長く堪能する方法など、今からなら十通りほども考え付けるというのに……!
嗚呼名残惜しや膝枕、男の浪漫、この一瞬を永遠にとどめてプリーズ。首筋から頭頂までに全神経を集めて肩から下を棄ててしまいたい。この頭頂部に触れるふにふにした感触はもしかしておへそかな? ぐへへこれさえあればあと十年は戦える――――!
「ロレンス」
「はっ」
頬に手を添えられて視線を合わせられた。ロレンスは一瞬でグズグズに蕩けかけた内面を取り繕ってきりりと返す。
しかし膝枕はそのままだ。まだ回復が追いつかず身体が動かないし、なによりもこの感触から離れたくない。
正面から見た上下逆さまのファーティマの顔は、咎めるように険しげだった。
「……また、勝手をやったな?」
「……はい」
「賢者の暗殺など。耳にしたときは血の気が引いたぞ」
「口止めはしたはずなのですが」
「していた。口を割らせるのに随分苦労したわ。お主も、側仕えも、頑固にもほどがあろう。すぐに馬を潰す勢いで走らせて、それでも間に合わなんだ」
「面目次第も」
「ばか!」
ひときわ大きな声で怒鳴ったファーティマがロレンスの肩を殴りつけた。幼子が癇癪を起したような手振りだった。
水滴がロレンスの顔に降りかかる。見上げれば夜の空は見事な天の川が流れていて、雨雲などどこにも見当たらない。どこから滴ってきたかなど、それこそ答えるまでもないこと。
瞳から大粒の涙を溢れさせながらファーティマは声を荒げる。
「死ぬところだったのじゃぞ!? 死ぬところじゃった! お爺様に続いて、今度はロレンスまで! またわらわを一人にする……!」
「いいえ、ファーティマ様――」
「口答えするでない、ばか!」
取り付く島もなくなじられて閉口する。こうなっては彼女には何も通じない。最近ではだいぶ鳴りを潜めたと思っていたが、頑固なところは幼い頃のままだ。
「ロレンス、お主は言ったぞ。わらわを一人にしないと、約束じゃと」
「それは――」
「言ったぞ、言ったのじゃ。言ったもん……!」
まるでぐずる子供のようだ。
泣きじゃくる主君を前に途方に暮れる。怪我人はこちらなのにとぼやきたくなるも……存外、悪い気分ではなかった。
「あぁ……うん。申し訳ありません、ファーティマ様。不肖、このロレンスの不手際にて」
「…………」
「ですので、えぇ。わかりました、約束しましょう。二度とこのようなことの無いよう、肝に銘じる次第」
「…………本当じゃな?」
疑わしげに投げかけられる問いに、しかつめらしくロレンスは答えた。
「本当です」
「本当に、本当じゃな?」
「嘘は申しません。そうですね……月並みな言い方ですが、お嬢様の子供を腕に抱く日までは死んでも死にきれませんな」
「ばか。とうへんぼく、ぼくねんじん!」
聞き慣れた罵倒だった。
頭を預ける太腿の柔らかい感触を感じながら、ロレンスは邪気のない罵声に口を綻ばせていた。
「ロレンス、死ぬな。わらわを一人にするな。独りになれば、わらわはきっと――――狂う」
「――――――」
「狂う、狂うぞ、ロレンス。砂漠など知らぬ、一族など知らぬ。なにもかもひっくり返して、台無しにして。燃え尽きるまで狂い続けるぞ」
「ファーティマ様……」
「だからな、ロレンス。お主の命は、その身体は、お主ひとりのものではないのじゃ。心せよ」
夜の満天の星空、その下で。
こちらをひたと見つめるその瞳に息を呑んで。
対する答えは。答えは――
あああぁあぁぁああぁあ甘ったるい空気書きづらい時間かかる半月かかるとかどんだけ遅筆なの……!?
今年最後の投稿となります。
皆様、よいお年を。




