裁く資格
ぼとり、と赤黒い血が滴った。
次から次と滴り落ちる赤い液体が足元に水溜りを作る。斧の切っ先、柄頭から絶え間なく血が落ちていた。
――斧は、ハービヒの命を奪うには至らなかった。
鼻柱を縦に断ち割り、眉間に刃を食い込ませた状態で、すんでのところで止められている。
何故、猟師が手を止められたのか、それは――
「……邪魔をするのか」
「決まってるでしょ、馬鹿猟師」
ぎょろり、と猟師の眼球が蠢き、自らの懐に飛び込んだエルモを睨みつけた。負けじとエルモもを声を上げる。
「勝手に捕虜を殺してんじゃないわよ。こういうの、軍法会議モノって奴なんでしょ」
猟師の顎先には、真鍮色の鏃が突きつけられていた。
懐には複合弓を引き絞る小柄なエルフ。片膝をつき、猟師とハービヒの間に割り込むようにして斧の動きを妨げている。ともすれば目の前の竜騎士ごと叩き斬られてもおかしくない蛮勇じみた行動に、彼女自身額に汗を滲ませている。
「下がりなさい、コーラル」
複合弓に組み込まれた滑車の機能により、弦を引き続けることに苦はない。やろうと思えば一日でも引き絞っていられるだろう。
しかし、一度手を緩めればそれで終わりだ。板バネと千年櫟の弾性で射出された鏃は、猟師の顎から上を吹き飛ばして余りある破壊力を持つ。
その弓をもって、エルモは目の前の男に静かに命じた。
「三度は言わないわよ。一旦下がって頭冷やしなさい、この首狩り猟師」
「――――」
猟師の纏う怒気が一層強まった。殺気が物質化してじりじりと肌に刺さるようだ。
……本当にやり合う気か。そんな気さえさせるほどに、猟師のエルモを見る目には親愛の念が欠片も籠っていなかった。
――だが退かない。怯んでやるものか。
今のこの男は自分を見失っている。感情のままに振舞って、あとになって後悔するのはこの猟師自身だ。
きっとこいつにもわかっているはずなのに、よほど自分では抑えかねているのだろう。
なら、他の誰かが止めてやるしかないではないか。
それに――
「そこまで。武器を収めなさい、コーラル」
大広間に澄んだ声が響いた。まだ満足に声変わりもしていないような、幼い声だった。
視線を転じると、広間の入り口に見慣れた人影がひとつ。
「お姫様……」
「――――」
直前の制止の声は彼女のものだった。
いつの間に駆けつけたのか、アリシア・ミューゼルがそこにいた。
燃えるような赤毛はそのままに、同様に紅い瞳を険しく細め、アリシアは猟師に言う。
「コーラル、武器を引いて。これは命令だよ」
「…………引く、だと?」
汚濁のような眼光がアリシアを射すくめた。
「見逃すというのか、これを。この蛆も同然の竜騎士もどきを」
「見逃す見逃さないの話じゃないよ。これは順序の話だ。それをコーラルが殺すことは許されない」
ちらり、と視線がハービヒに向かう。最後に残った反逆の竜騎士は、顔面を二つに割られて今にも死にそうな息遣いをしていた。
「彼らは降伏した、敗北を認めた。殺し合いはもう終わったんだ。もう戦争じゃないんだよ、コーラル。降った相手を独断で殺す権限なんて、ボクは君に与えてない」
「それは――」
「君自身が言ったことだろう。――それを決めるのはお前じゃない。他ならないコーラルの台詞じゃないか」
思い出す。猟師が団長へ決断を促したあの時を。
行き先を決められるのは、決めることを許されているのは他の誰でもないのだと。
それと全く同じ話なのだとアリシアは言った。
「彼らの――いや、もう彼か――その処分は法と正義と良心に基づきボクが降します。あなたに権限は与えないし、責任も負わせません」
「………………良心?」
その言葉が、猟師の心のどこを衝いたのかはわからない。
良心、良心、と噛みしめるように繰り返した男は、昏い瞳を据わらせたままひとりごちた。
「――人を殺す良心とは、一体何なんだろうな?」
それで終わりだった。
猟師の発していた殺気が霧散する。ずるり、とハービヒの顔から斧を引いた猟師は、興味を失ったように背中を向けた。自由を取り戻したハービヒは情けない悲鳴を上げて壁伝いに距離を取る。
踵を返した猟師はそのまま大広間の入り口へと歩を進めていた。その背中にアリシアが声をかける。
「独断でディカー卿を処断した罪に対しては、追って沙汰を伝えます。それまで自宅にて謹慎し沙汰を待つこと。――いいね、コーラル?」
「好きにするがいい。――――ふん、なるほど。今回は、俺の分が悪いようだから」
――ダン、と荒々しい破砕音が響いた。
八つ当たりのつもりだろうか。猟師が力任せに投擲した斧が広間の壁に突き刺さる音だった。
立ち去る猟師の背中が消えるまで、その場の誰もが固唾を呑んで見守っていた。
●
「あぁ、助かります、感謝いたします、姫様……!」
猟師が立ち去った大広間で、ハービヒが感極まった様子でアリシアの眼前に跪いた。割れた鼻と額から血がとめどなく溢れるのも構わず、涙ながらに感謝の言葉を口にする。
そんな彼を、アリシアは冷めきった瞳で見つめていた。
「これよりはこのハービヒ、粉骨砕身の思いで姫様に仕えたく――」
「勘違いしてるみたいだね。ボクは君を認めただなんて一言も言ってないよ」
はい? と怪訝な表情でハービヒが凍り付く。構わずにアリシアは引き連れていた兵へと目配せを送った。数人の兵が歩み寄り、ハービヒの腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
「ひ、姫様? これは一体――」
「先ほどのコーラルが言った通り、卿は降るのが遅すぎた。なにもかも手遅れになってからじゃ、何をしても意味がないんだよ」
「し、しかし! しかし、私は……!」
「処罰を言い渡します。シュルツ・ハービヒ、卿は謀叛に加担したのみならず、その同志にまで不義理を働いた。情状酌量の余地はありません。強いて在るとするならば、それは辺境伯家草創より仕えつづけてきた先祖の忠勤に対してのみ」
ひとつ、息をつく。
それはこれから台無しにする何人分もの人生に対する覚悟のためか。
「――――赤竜ラースの権限において、卿の竜騎士を剥奪。一族郎党の領外退去を命じます。家財の持ち出しは認めますが、三日後より罪人として手配書が領内に行き届くことになります。内容は生死問わず――――意味は分かるね?」
「そんな! どうか姫様――!」
「あぁ、ドラゴンとの契約破棄の儀式を執り行うため、明日の朝までは拘束させて貰うよ。家族に使いを出すくらいは許すけど、もちろん内容は検閲する。下手な企みは首を絞めるよ」
「馬鹿な! そんな馬鹿な……!? 竜騎士だぞ!? もう世界に十人といなくなってしまったというのに、これ以上……!」
「通達は以上。――明日まで牢に繋いどいて」
アリシアの命令を受け、兵士が男を連行していく。顔から流血とともに涙や鼻水を撒き散らしながらハービヒはもがき続けた。慈悲を乞う声と罵声の入り混じった喚き声を吐き出しながら。
●
「――さて」
ハービヒの姿が見えなくなったところで、アリシアは振り返った。視線の先には鎖で繋がれたベッケンバウアーの姿。
「ルドルフ・ベッケンバウアー」
「…………」
「いかなる理由があろうと、卿が謀叛を企み実行に移したことに違いなく、これは極刑をもって報いるべき罪状です。――何か言うことは?」
「…………なにも」
力の抜けた声でベッケンバウアーは答えた。気迫のない瞳は床を見つめ、かつての威厳は見る影もない。
「……すべて、すべて失い申した。財も家族も名誉も、何もかも。かくなる上は、この屍を晒し上げ見せしめに知らしめる以外、望みはありません。それが私にできる最後の忠行となりましょう」
「ボク達を恨まないの? 最期くらい言葉の限り罵ってすっきりしてもいいんじゃない?」
「恨む相手など居りませぬ。先ほど、首一つとなってそこに転がってしまいました」
返す声に迷いは見えなかった。
最後に残った誇りだけは守り通すというように、ベッケンバウアーは内心を吐露する。
「暮らしのための蜂起でした。先祖の土地のための蜂起でした。……尋常に戦いを挑んだのです。閣下はそれを尋常に受けて立ち、正道と謀略をもって私を打ち破りました。ならば恨むべきは我が身の不甲斐なさ。他人にそれを求めるのは、見苦しい僻みに過ぎません」
「元傭兵たちに思うところはないと?」
「これ以上、私の誇りを貶めないでいただきたい。……たかが傭兵というならば、それに敗れた竜騎士とは何になるのか。蔑みは自らに返るだけでしょう」
「――――そう」
問答は終わった。
アリシアが視線を転じると、その先でヴィルヘルムが軽く頷く仕草を見せた。
――判決が下されようとしている。
「ヴィルヘルム・ノイマン」
「は」
「反乱の初期より内応し、彼らの情報を流し続け勝利へと寄与した卿の貢献は測りがたく、まさしく第一等の殊勲といえます。――褒賞はかねて願い出た通りでよろしいですね?」
「は。我が従兄、ルドルフ・ベッケンバウアーの減刑を願い出ます」
「…………なに?」
ベッケンバウアーが顔を上げる。驚愕の表情で見つめられたヴィルヘルムは、しかし眉ひとつ動かさない鉄面皮で言葉を続けた。
「これより来たる乱世に軟弱な風見鶏など一切無用。必要な人材とは頑迷なほど胆力を備え、誇りを弁えた人間となりましょう。その点、ベッケンバウアーは蜂起を主導する度量を備え、武力をもって閣下へ諫言すると本心より宣言する根っからの頑固者。閣下の傍に仕えるのに好適と存じます」
「待て、貴様どういう――」
「ボクの命を狙った人間を登用しろと?」
「お言葉ながら、狙った事実はありません。此度の戦でベッケンバウアーは一度も本陣を狙いませんでしたし、自ら焼こうとしたのも傭兵の部隊でした」
「……苦しい言い訳だと思わない? それ」
「畏れながら姫様、政略とはそのようなものにございます」
ぴくりとも笑わずにぬけぬけと言い放つ。なるほどこれは確かにエリスの血縁だ、とアリシアが呆れた顔で首を振った。
「ルドルフ・ベッケンバウアー」
「……何か」
「何もかも失った、と言ってたけど――――少しくらい、取り戻してから死にたいとは思わない?」
歩み寄る。ベッケンバウアーの目の前に立ったアリシアは、呆然と膝をつく男にぐいと顔を近づけた。
「――名誉だけ、挽回する機会を与えます。謀叛人として今死ぬか、忠臣として明日死ぬか、どちらかを選びなさい」
「……死に場所を選ばせてやる、と?」
「金も地位も与えません。ボクがあなたに用意できるのはそれくらい。代わりに、魔族との戦いでは真っ先に死んでもらう。――まったく割に合わないけど、どうする?」
「愚問ですな」
地獄で唸る鬼のような声だった。
にわかに生気を取り戻したベッケンバウアーは、苛烈な視線でアリシアを睨み上げた。
「武人とは何のために命を棄てるのか。金のためでも身分のためでもありません。――ご存じでないというのなら、身をもってお教えいたそう」
明日死ぬことを決めた男は、娘ほどの年頃の君主に恭しく頭を下げる。
これをもって、コロンビア半島内乱は終結と相成った。




