蝙蝠の末路
「コーラル……?」
一瞬、エルモはそれが誰なのかわからなかった。
黒毛皮の胸甲、額と手足を守る銀装、本格的に猟兵を率いはじめてから纏うようになった紅い外套。――装いは何も変わらない。変わらないはずだ。
だというのに――――だというのに。
直感が警鐘を鳴らす。近寄ることにすら忌避感を覚える。
これは何だ。否、誰だ。
何かがおかしい。大広間へ音もなく踏み入った男からは、今まで感じたことのない異様な気配が醸し出されていた。
「――――――」
紅いフードで顔を目深に隠した猟師は、緩慢な動きで広間の人間を見回す仕草を見せた。舐めるような、這い回るような視線が皮膚を撫でる錯覚を覚えるに至り、ようやくエルモは確信する。
こいつは、やばい。
何がヤバいとは形容しがたい。それでもこの上司の状態が尋常でないことは察せられる。これまで猟師が常に纏っていた飄々と達観した雰囲気とはまるで違う、それこそ別人のような重苦しさ。
その異様さに、広間にいる人間の大半が気勢を削がれ――
「おぉ、おぉ! ちょうどよかった、猟師コーラル殿!」
空気を読まない厚い面の皮を被った男だけが、その気配に気付かないでいる。
ハイモ・ディカー――処世術を頼りにこの内乱を切り抜けようとした男は、喜色を満面に浮かべて猟師の元へと駆け寄った。
粗野な猟師などいかようにも御せるとでも言いたいのか。確かにアリシアの信任厚く、この戦いでも精強さを見せつけた猟兵の頭ともなれば、なるほど取り入るに越したことはあるまい。
しかし、このディカーの振る舞いはエルモから見ればあまりにも軽率に過ぎた。
「ご活躍のほどは聞き及んでいますとも、えぇ! かのノイマン卿に一歩も引かぬ武勇ぶり、古の竜殺しも照覧あれ!」
何も見えないのか、何も感じないのか、この猟師から。
美辞麗句を並べ立てて猟師にすり寄るディカー。信じられない思いで事の成り行きを見守っていたエルモは、猟師の外套の内側から覗く銀色の煌めきを目にした。
「コーラル――――!?」
「お困りなことはございませんかな? 不肖ながらこのディカー、今代の英雄のたゴぇ、――――?」
銀の光が跳ねた。
一閃の風切り音とともにディカーの顔が横にぶれ、一拍遅れて何かが壁にぶつかってびちゃりと汚らしい音を立てる。
音の先に目を向けると、そこには小さな半円状の物体が赤い尾を引いて転がっていた。時折覗く白い光沢のある粒状の物体は――――あれは、歯か。
「こ、ぁけ? ひゅ、ガ――――!?」
「次はない――そう言ったろう。憶えていないのか、それともお前、切り抜けられると思っていたのか? その舌で?」
下顎を失ったディカーは猟師の言葉に応えることもできない。だらりと力なく垂れ下がった舌がうようよと蠢き、収まり悪くぼっかりとあいた口の跡から意味を為さない呻き声を赤いあぶくとともに噴き出している。
いっそ滑稽にすら映る光景。僅かなパーツひとつ失うだけで、人体とはこうもエイリアンじみた外見になるというのか。
「ほ、ぉあか、は、ふぅ……!」
「あぁ、喋らなくていいぞ。聞くだけ不愉快だ――――いや、その悲鳴も聞き飽きた」
ずん、と風切り音とともに再び猟師が腕を振るった。右手には鋼鉄の片手斧。未だディカーの血にまみれた切っ先は、二度目の閃きで今度こそディカーの首を刎ね飛ばした。
●
沈黙がその場を支配していた。
エルモも、猟兵も、城兵たちも、目の前の前の男に呑まれて身じろぎ一つできないでいる。それほどに猟師の雰囲気は異様だった。
ただ一人、ヴィルヘルムだけは猟師の凶行に対し、険しい表情で鋭い視線を向けていた。
「あんた…………誰?」
咄嗟にエルモの口を突いて出たのはそんな台詞だった。何か確信があってのものではない、込み上げる直感が猟師への違和感を伝えていた。
「――――」
男はエルモの問いに応えず、何気ない仕草で顔を上げ――
目があった。合ってしまった。
いったいどう表現すればいいのか。何を当てはめればいいのか。
それはまるで、毒沼の水を煮詰めて凝らせた汚濁の黒点、淀みきり耐え難い臭気を放つ憎悪の園。
あらゆる負の感情を詰め込み腐敗させたような、形容しがたい瞳の色に。
「……あんた、何を――」
「なん――――何なんだこれは……!?」
問い質す機会は失われた。他ならぬ傍らに控えていた一人の竜騎士によって。
シュルツ・ハービヒ。ディカーとともに城砦を占拠し辺境伯軍へ降伏した男は、腰を抜かして狂乱の声を上げる。
「話が違う! 話が違うぞ、ディカー!? ベッケンバウアーの首を手土産にすれば帰参が叶う、そう言う話だったはずではないか!? 何故、何故……!?」
「……帰参、寝返り、返り忠。――――笑わせる。本当、笑わせるよ、お前たち」
幽鬼のように歩を進める。ぼたぼたと血の滴る斧を片手に、猟師はハービヒへと視線を定めた。自分から視線が切れたことに安堵している己に、エルモはたとえようもない腹立たしさを覚えた。
「いや、そうか。そもそもお前たちは人間同士の戦いなんてほとんどやってなかったんだっけか。来る日も来る日も魔物相手に蜥蜴に跨って。なら不文律を知らなくても無理はない」
「な、なにを――」
「教えてやる、竜騎士。――寝返りには三つの種類がある。……最初から敵に通じている者、土壇場で心変わりする者、戦局が決まってから勝ち馬に乗る者。この三つだ」
狼狽し後ずさるハービヒに、猟師はなおも詰め寄った。
「一つ目は良い。内通の段階で露見のリスクを負ってるんだ、事が成れば勲一等だろうよ。二つ目もまぁわからないでもない。土壇場の変心が分かれ目になることもある、差し引きでお咎めなしがいいところか。
――なら、三つめは?」
「ひ、ひぃぃいぃっ!?」
どん、とハービヒの背中が壁に突き当たった。逃げ場はない。その隙など与えられない。
「なぁ、何を評価すればいい? 敵に通じる肚もなく、戦局を見極める目も持たず、あまつさえ戦友を見捨てて恥じもしない子供殺しに、いったいどんな評価をつければいいんだ? 生かしておくのにどんな理由があるんだ?」
「たすけ、助けて! 命ばかりは――!」
「駄目だね。だってそうだろう、お前はそれだけに足る価値を示してない。それに――」
陰惨な笑みを浮かべる。振り上げた斧はこゆるぎもせず、竜騎士を追い詰めた猟師の顔には、傷跡のように斜めに走る何かの痕が。
制止の声など届きようがない。止められる人間などこの場にはいない。猟師は激情のままに牙を剥き、
「それに――――わたしはね、裏切り者が大嫌いなんだ――――ッ!」
真っ向唐竹に、その斧を振り下ろした。
「待った――――!」




