落ちていく
それは見るも無様な敗走だった。
壊走した歩兵部隊、三々五々に逃げ散る農兵たちを押し留める方法など竜騎士たちに知る由もない。ましてや、敵の先頭に立って歩兵を追い散らすのは地竜を駆るヴィルヘルム・ノイマンなのだ。上空から火を噴きかけようにもヴィルヘルムは地面に潜るし、そもそも空を虻蠅のように飛び回るグリフォンどもが攻撃を許してはくれなかった。
結果として、ルドルフは手も足も出せずに麾下の私兵たちが蹴散らされていくのをただ見ているだけしかできなかった。
紛れもない敗北だった。覆しようはなかった。もはや竜騎士であろうと逃走以外に道がないほどに。
ルドルフは単身、殿を受け持った。彼なりのけじめである。一時とはいえ竜騎士の盟主として起った以上、その責を果たすことは当然だったからだ。
後背から騎手を狙い襲撃してくるグリフォン乗りたちと、針路へ回り込み真っ向から阻もうとするハータイネン。それらを振り切るために少なからず手傷を負うことになる。この追撃にあのロイターが加わっていたらどうなっていたことか。
死に物狂いで突撃し、グリフォン乗りを二人引き裂いて包囲を突破した。ようやく逃げおおせると安堵した時に、駄目押しの一撃を受けた。
手傷――――そう、手傷。
深手を受けた。誰あろう、あの次期辺境伯を称する小娘の攻撃である。
視界の端で、敵本陣が一瞬赤く瞬いた。その次の瞬間のことだ。赤熱する熱線がルドルフのドラゴンのすぐ脇を掠めていった。
左の翼膜と腿の一部、そして脇腹を抉る破壊熱線。断末魔に似た悲鳴を上げて、それでもドラゴンは墜落せずにふらつきながらも飛行を維持し続けた。
竜の頭でも理解できたのだろう。足を止めれば、すぐにでも死ぬと。
追手を振り切ったルドルフは大きく東へ迂回し、北にある自身の砦を目指した。家族の待つ、心よりの故郷である。
辺境伯からの追撃はない。逃げ延びた竜騎士を追って反撃を受けるよりも、真っ直ぐに北上して拠点を落としていった方が確実だと判断したのだろう。
ただし、道が近いと言え歩兵の歩みだ。空路で山も森も越えられるドラゴンならば、追いつかれることなく余裕をもって城まで辿り着ける。
――そう考えていたのが甘かったのか、あと少しというところでドラゴンが力尽きた。
あの赤竜ラースの熱線を受けてからの一昼夜、息も絶え絶えの状態で何とか騙し騙し飛び続けてきた愛竜ではあるが、そこまでが限界だったのだろう。
飛べなくなった騎竜は東の森に隠し、ルドルフは今度こそ単身で城へと歩を進めていった。
無論、長年連れ添ったドラゴンと別れることに抵抗はあった。しかしそれ以上の胸騒ぎに襲われ、その場に留まってはいられなかった。
……大丈夫、ドラゴンの生命力は強靭だ。身を潜めてじっとしていれば、やがて傷も癒えて飛べるようになる。
たとえ追手の辺境伯軍に見つかったとしても無下に扱われることはあるまい。竜騎士を背に許すドラゴンは希少なのだ、保護したのちルドルフの血縁を探し出して継承させようとするはず。
血縁――――そう、血縁。
「ヨハン……ヘルガ……」
息子が、妻が、自分の帰りを待っている。
無様な己の姿を見て何と言うだろうか。息子にこんなみっともないざまを晒すなど初めてのことだ。どうなることか想像もつかない。
蔑まれてもいい、見下されてもいい。それでも、全てが終わる前に一目会いたい。まだ自分の行く末を僅かなりでも選べるうちに、この手で抱きしめて別れを言いたい。
助命嘆願は聞き届けられるだろうか。この首一つで妻子の命、高すぎると拒まれるだろうか。
それでも、捧げられるものなどこれしかない。贖えるものなど他にない。
勝算はある。先に述べた通り、竜騎士の数は少ない。言葉を尽くして息子に、辺境伯へ仕えることを誓わせれば、貴重な戦力を無駄に処刑する愚を犯しはしまい。あのアリシア・ミューゼルとそう変わらない年頃なのだ。処断するにはあまりにも。
だから、慈悲を一つ乞いさえすれば、きっと。
「……なんたる無様か、情けない」
自嘲を漏らす。かつての誇りある騎士の姿など微塵もない。ここにあるのは惨めに負い討たれようとする罪人に過ぎない。
かつて蔑んだ平民以下にまで身を落とし、それでも未練を引き摺るただの男だ。
――あぁ、城が見えてきた――
●
――城壁に、旗が翻っている。
勇壮に、堂々とそびえ立つ北方の城塞は、その威容を揺るがさぬまま主人の帰還を前にしても微塵も動きを見せなかった。
「なん、だ……?」
へし折れた槍を杖代わりにもたれかかり、満身創痍の体で帰還したルドルフは、呆然と目の前の城門を見上げていた。
――門はぴくりとも動かない。主人の帰還を前に、号令も笛の音も鳴らさずに沈黙を保っている。
気が付けば、翻る旗の絵柄はベッケンバウアーのそれとは異なっていた。
「何を――何をしている! 私だ、門を開けろ……!」
苛立ちを含んだ怒鳴り声で命じるも、門兵は返事すら寄越さない。いったい何が起こったのかとルドルフは眉根を寄せた。
と――
「…………?」
城門の上で異変が起きた。
人々のどよめき、誰かが門兵をかき分けて現れる気配。
現れたのは――
「ヘルガ、ヨハン……?」
何故、城主の間で控えているはずの妻子が表に出てくる?
何故、妻子も門兵も顔を固く強張らせている?
何故、妻子は手を縄で縛られている?
何故、見慣れぬ兵士が妻子に槍を突きつけて――――
その、後ろから。
誰かが、見覚えのある誰かが、姿を現して、
「ディカー……」
この反乱で真っ先にルドルフについた男。
追従ばかりが巧みの取るに足らない竜騎士。
蝙蝠や鼠のような印象が強い小物。
そのディカーが顔に浮かべる表情を目にしたとき、ルドルフは何が起こるのか理解した。理解を拒もうとした。
「やめろ……」
ディカーが何事かを囁いた。妻の耳元に口を寄せて、嫌らしい笑顔で。
妻は悲壮な顔つきでルドルフを一身に見つめ、泣きそうな表情で首を振った。
「やめろ、ディカー……!」
頼む、やめろ。
それだけはやめてくれ。
何でもしよう。いくらでも風下に立つ。土地も城も財産も、何もかもくれてやる。
だから家族は、家族だけは――
「―――――」
にっこりと、目を細めて笑顔を浮かべたディカーがこちらを見つめて、
「ディ――」
妻と、息子の、胸から、槍の穂先が。
赤く濡れた穂先が突き出て。
光景が目に焼き付く。見開いた瞳、パクパクと開閉する唇、もがく肩とそれを抑えつける兵士たち。
落ちていく。
まるで人形のようだ。力を失った手足がぶらぶらと風になぶられながら、城門から投げ捨てられる。
ごつん、ごつん。
重く硬いものを落とす音。ふたつ続けて地面に響き、ぐしゃりと何かが潰れる音。
足元まで広がる赤黒い液体。泥にまみれたブーツを更に汚していく。
元を辿れば――――たどれば。
くびはおれあたまはへこみがんきゅうがとびでててあしはあらぬほうこうへ。いびつにゆがんだひょじょうがるどるふをぼうぜんとみつめていて――
「ぁ……あぁああぁあああああぁあ……!?」
●
男が慟哭を上げて崩れ落ちた。血だまりの中に膝をつき、あられもなく泣き叫ぶ。
城門が開いた。中から現れた兵士たちが男を取り囲み、猿轡をかませて縛り上げていく。
抵抗らしい抵抗もなく捕らわれた男は、引き摺られるようにして城門の中へ連れられて行った。
――その一部始終を、見届けていた誰かがいた。
「――――――」
赤い外套、銀の篭手、銀の脛当て、銀の額当て。胸には黒い革鎧を纏い、フードを目深に被っている。
傍らには白銀の毛皮の大狼。城を望める森の中棒立ちに立ち尽くすその人物に、気遣わしげに鼻先を押し付けている。
フードの人物はそれに気付かない様子で、一心に目の前の光景に視線を注いでいた。
爪先ほどの大きさの城門。その目前にこびり付く、赤黒い染み。
無造作に打ち棄てられた誰かの骸。顧みる者はどこにもいない。
「――――――」
指先が戦慄く。喉が干乾びたように掠れた音をひねり出す。
――見開いた瞳は、腐臭を放つ汚泥のように濁りきっていた。
ヘルモードとは言った。
だが私は『誰に対して』とは言ってない




