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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
決断を迫る者
451/494

全ては掌中に

 カツ、カツ、カツ。


 硬質な音が室内に響く。卓上に広げられた戦棋は大理石製で、クラウス・ドナート執政の私物の中でも最も高価な物の一つだ。

 執政は表情を消した顔つきで盤面を見下ろし、次の指し手を思案した。


 カツ、カツ、カツ。


 打てば響くというように、迷いなく手が返される。こちらの指し手などお見通しとでも言いたいのか、制限時間はこちらが一方的に削られていた。

 対局時間に限りがあり、そのために限界までオプションを削ったシンプルな戦棋だ。その様式は『客人』が言うチェスに近い。規模が上がれば一週間がかりの対局も珍しくない盤上遊戯だが、今のこれは一人当たりの持ち時間は一時間程度。手慰み程度には丁度いいと、始めたときには思っていた。

 時間を短縮できるのは歓迎すべきことではあるが、ここまで一方的だとさすがの執政でも思うところがあった。


「……しかし、意外ですな」

「さて、何の話でしょう?」


 カツン、カツン。


 苦し紛れに繰り出した時間稼ぎは、当然のごとくカウンターとして帰って来た。否応なく会話に思考を割かれる羽目になったと溜息をつきそうになり、執政はいっそ思い直した。


 ……いやいや、これは良い機会だ。この得体の知れない夫人の腹を探る、これ以上のない。

 人妻という立場もある。中年とはいえ身分も役職もあるドナートと密会していたとなれば、ウェンター副団長と要らぬ軋轢を生むのは見え透いていた。

 だから、執政とエリス夫人がこうして二人して顔を突き合わせて話ができるのは、恐らくこれが最後となるだろう。


「……あなたが、つい先日まで頭角を隠していたことです。――いや、今になって露わにした理由か」


 相手はかの鬼の副団長夫人。立場を思えば、ここで敬語を用いるのもやぶさかではない。

 この内乱の行く末次第によっては、アリシア・ミューゼルの差配で誰が一城の主になるのかもわからないのだから。


 カツン、カツン。


「あなたは、名義上では死んだ人間だ」

「えぇ、エリス・ロイターは七年も前に死にました。卑劣な賊の手にかかり、屋敷ごと焼き殺されましたね」

「もはや半島の政治とは無関係でいられたでしょうに。ただの男の妻として、平穏な生活を送ることができたはずだ」


 カツン――


 一手。指し終えた執政が見上げると、対局者は不思議な笑みを口元に湛えていた。


「……平穏な生活?」

「左様。誰にも脅かされず、誰も脅かさず。誰かを陥れるためでなく日々の食卓を彩るために頭を悩ませる――そんな生活が叶えられたはず。それはこの時勢、万金に値する日々だ」

「…………」

「事ここにいたっては、誰もあなたを捨て置かないでしょう。『鋼角の鹿』副団長の妻にして辺境伯に直言できる立場の女性――取り入るか陥れるか、どちらにせよその道の先は悪意渦巻く魍魎の毒壺。安寧など得られまい」

「執政殿」


 柔らかく手を上げたエリス夫人。その指先には、取り上げた歩兵の駒が。


「あなたの言う安寧の道に、夫はいますか?」

「それは……」


 いるはずがない――思わず口ごもった執政に、なら決まりですねと夫人は微笑む。


「どこに私の安らぎがあるかなど、そんなものは私が決めること。ならば私の幸福は夫と子供とともにあります」

「……強かですな」

「あら、ご存じでなかったかしら? 母は強し、ですよ」


 カツン、カツン。


 盤面は最終面を迎えていた。形勢はやや執政が不利、しかし敵の大駒を取ってしまえば覆すことは困難ではあるまい。

 自陣に突出している騎士の駒を見て、執政はある人物の名を思い出した。


 ――ヴィルヘルム・ノイマン。

 この戦いの鍵を握る竜騎士。ルドルフ・ベッケンバウアーの陣営に内通者として入り込んだ人物。

 あの日、彼とのやり取りを記した書状を懐から取り出した彼女は、絶対に信用できる人物としてノイマンを挙げた。完膚なきまでの勝利を得るならば彼の協力は不可欠であると。


 確かに、敵を内から崩すという手段は極めて有効といえる。前もって内応を約束させていた夫人の手際は目を見張るものがあるし、ノイマンからもたらされた情報は兵力のみならず、各城の備蓄、装備の状況、兵の配置と、ベッケンバウアーらを攻めるのに並々ならず助けになったのは確かだ。

 しかし――しかし、だ。

 何故彼を信じるに値すると断じたのか、その根拠を夫人から提示されたことはない。


 内応には危険が伴う。しかしもっとも旨みを得られる立ち位置であることも確かである。

 辺境伯側に通じていると見せかけて、実は同盟側に寝返っていた――などということでもあれば、アリシア・ミューゼルは即日首から上を失って戦場に骸を晒していただろう。

 この懸念はよほどの信頼がない限り拭いきれない。自尊心の高く独立独歩の気風が強い竜騎士ならば、返り忠などという名を損ねる行為に手を染めるだろうか。


「ヴィルヘルム・ノイマンとは、いかなる人物なのですかな?」


 聞くならば、今を置いて他にはあるまい。

 そう意を決して問いかけた執政に、夫人はきょとんと首を傾げる。


「いかなる、とは?」

「失礼。彼が登城するようになる前に、私は辺境伯のもとを去ったもので。かの竜騎士の人となりを知る機会がなかった」

「信に足るかも判断しづらい、と?」

「……夫人は、いつ彼と知己を? はっきり言って、半島においてヴィルヘルム・ノイマンの名はあまり知られていない。家を継いでからの実績も――」

「えぇ、奮えるはずがありませんね。ベグラーベンは飛べないドラゴン、辺境伯との魔物狩りの飛行にもついていけません」


 ならばそんな無名の竜騎士とどうやって知り合ったというのか。疑念は深まる一方だった。

 もしやかつての恋人関係にあったか? 肉体関係も? 今も関係は残っていて、陰ながらアリシアを操り半島を牛耳ろうと――


「『――主君には身命を賭して仕えよ』」

「…………?」


 唐突に夫人の口から零れた言葉に、あられもない方向に思考が傾いていた執政は我に返った。


「『主が主たる器ならざれば自らもって起て。どちらもできぬ半端は死ね』」

「それは……?」

「師からの教えです。私もヴィルヘルムも、この標語とも言い難い言葉をまず覚えさせられました。今思い返しても過激な教えです。爺ったら、他家の婦女子も針仕事と同様に謀りを学ぶのだ、なんて言うんですもの。酷いと思いません?」


 ――あぁ、そうか。とんだ片手落ちだった、と自嘲する。


 これまでクラウス・ドナートは竜騎士たちの近辺を調べはしても、その親族の(・・・)血縁関係にまで気を払わなかった。

 誰それのいとこはとこがどこかの竜騎士に嫁ぎ、その血縁がベッケンバウアーに連なるなど、多忙な執政業の傍らいちいち調べ上げる余裕などない。

 ましてや、それが戸籍上断絶した竜騎士家ならばなおのこと。


 カツ。


 盤面に駒が降りる。


「私の旧名はエリス・ノイマン。ヴィルヘルムは私の年上の甥となります」


 王手、と軽やかな宣言。見れば、詰め手を逃れようにも隙が無く、迎え撃とうにも自駒が届かない。

 こちらの王を狙う敵の駒は、つい五手前に執政から奪われた騎士だった。


「――エリス夫人。改めて要請したい」


 参りましたと頭を下げ、そのまま首だけを上げて彼女の眼を見つめる。


「我が辺境伯の陣幕に加わっていただきたい。多くの竜騎士が死んだ今、あなたのような人材は喉から手が出るほど必要とされている」

「喜んで――――と、言いたいところですが」


 困ったように微笑んで、夫人は謝罪の言葉を口にした。


「こちらにもいささか手が離せない用事がありまして。一年……いえ、二年頂きたく思います」

「二年?」

「えぇ、ルッツにも手伝わせれば、その頃には手が離せるでしょうから」



   ●



 ――のちに、夫人はこの選択を後々まで後悔することになる。

 あの時(・・・)、領城にいればと。

 束の間の幸せに浸っている場合ではなかったのだと。

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