ときはいま
翌日。
ルドルフ・ベッケンバウアー率いる同盟は城砦を背にしてやや開けた平原へと布陣した。夜明けより間の立たない、まだ空の白んでいる時分である。
陣形は歪なものとなった。ルドルフ、ディカー、ハービヒたちは私兵を後方の本陣に固めひたすら守りを固めているのに対して、前面に展開されたノイマンの部隊は農兵を主体として横に広く配置されている。彼の率いている私兵も指揮伝達のために分散させているという。
本来率いていた百人に加え、ヨラやメルクルの残党、ディカーやハービヒから譲り受けた農兵を併せると、その数は六百を優に超える。これは本陣の三倍以上の兵数であり、辺境伯軍、同盟軍の両方を見渡しても最大規模であることは言うまでもない。
これほどの規模の兵を率いることができるのか――そう疑問を呈したルドルフに対し、ノイマンは謎めいた笑みを口元に浮かべて首肯した。
曰く――統率などもとより期待してはいない、と。
多くを語らない青年の顔に決意の色を見て取ったルドルフは、深く問い質すことを諦めて彼に任せきることを決めた。
部隊を前に押し出したノイマンは、わずかな手勢とともにやや後方で待機している。後方といってもドラゴンとともに駆けだせば十秒もかからずに前線に躍りだせる立ち位置だ。それは逆に、その薄い布陣が敵の突撃で突破された場合、真っ先に餌食になる位置であるということでもある。
正々堂々を貫くというのか、ノイマンは辺境伯軍が正面に軍を布陣する間、攻撃の命令を下さなかった。それを見越したように辺境伯軍も粛々と部隊を展開し、前日と同様に鶴翼に構えている。
辺境伯軍は全軍を繰り出しているようだった。前の戦いで小賢しくも伏せていた猟兵や途中から乱入してきたグリフォンの部隊も、それぞれ両翼に配置されている。以前のように突然の横槍で戦場が混乱するということはないだろう。
「…………」
ばさり、と大きな音を立てて騎竜が羽ばたく。腰から伝わる躍動を身体全体でいなし、ルドルフは敵軍を見渡した。
ルドルフをはじめ、竜騎士を背に乗せたドラゴンは前もって飛び立っている。戦闘開始と同時に竜騎士のみで突撃をしかける算段になっていた。あの小うるさいグリフォンも賢しく駆け回るクロスボウ部隊も、脅威となるのは遊撃隊として独立して戦場を動き回るためだ。初動から潰してしまえば所詮は多少優れた歩兵でしかない。
グリフォンが未だに飛び立っていなかったのは幸いだった。これならば先手は必ずやこちらが取れるだろう。
「――さぁ、決着をつけるぞ、辺境伯……!」
ノイマンの部隊がにわかに活気づいた。動き始めるつもりなのだろう。鼓笛の音が朝のひやりとした空気を伝ってこちらの耳まで届いてくる。
戦端を開くその瞬間を逃すまいと、ルドルフは目を皿のように開いて戦場を観察し――
「な――――に……ッ!?」
この戦場で予想だにしない光景を目にし、完全に言葉を失った。
●
兵士が慌ただしく駆け回っている。
わかりやすく派手な外套を纏った伝令、小部隊をいきなり任されることになり困惑する元末端の私兵、そして早くも負け戦の気分で士気を落としている農兵たち。
特にひどい状態なのはノイマンの部隊に新たに編入された農兵たちだ。先日と違い多少はましな装備に身を包んだとはいえ、あの敗戦の記憶からたった一晩しか経っていないのだ。怖気づくのもまた無理はないといえる。
例外的に粛々と戦準備を整えている兵もいるが、それは全て元々ノイマンの部隊にあった人間である。この戦いが劣勢であることも、先日の戦いが芳しくない結果に終わることも前もって言い含めてあった連中だった。
――そんな喧騒のなか、ヴィルヘルム・ノイマンはひとり黙然と床几に腰掛けていた。
着慣れた甲冑姿である。革のベルトはいささかくたびれ、先日のブレスの影響で塗装が焦げた部分もある。跳ねた泥がブーツを汚し、外套の裾も同様に汚れている。
小奇麗とは言い難い。しかしその鎧に刻まれた歴戦の傷跡が何ともいえない凄味を滲ませ、彼の装いを悪く言う兵士はひとりもいなかった。
「…………」
前方には辺境伯軍、昨日の勝ちに乗り士気はまさに絶好調。歴戦の傭兵が盾と斧を手に携え、今か今かと開戦の時を待っている。盾まで磨く余裕があったのか、陽光を照り返す真鍮色の輝きが目に刺さるかのようだ。
周囲にはあてにならない雑兵ども、敵の威容に早くも臆病を晒そうとしている。統率などできようはずもない。複雑な指揮を受ける素地ができていないのだ。ヴィルヘルムにできるのは突撃と撤退の合図を出すことだけだ。
後方には腰抜けの私兵たち。本陣を守るためと言葉を弄し、前に出て敵を叩く男気もない。彼らこそ前に出なければ末端の士気も上がらぬというのに、まったくもって他力本願甚だしい。
この戦い、まともに当たれば敗北は必至である。
変わらぬ陣営、隔絶した練度、目も当てられない内輪揉め。……画期的な用兵でも用いなければ今日起きるのは昨日の焼き直しに他ならない。すなわち――竜騎士は敵の空戦戦力に足止めされ、その間に農兵は傭兵たちに狩り殺されるのだ。
――そんな中、ヴィルヘルムは静かに目を伏せていた。
微動だにしない肩、組んだ両手は祈るように膝の上に置き、まるで瞑想するかのように目を瞑っている。朝の冷たい春風が頬を嬲り、焦げ茶色の髪の毛をいいように弄んでいった。
達観したような様相。しかしその口元は――
「――――――我が策、成れり」
その口元には、会心の笑みが。
「その台詞が言いたかったのですな、分かりますとも」
「……爺、少しは手心という物を加えてくれ。心が折れる」
すかさず突っ込んだ傍らの従者に嘆息する。心なしか竜騎士の肩がいささか落ち込んでいた。
しかし主君の言葉など意に介さず、口さがない従者は呆れた口調を隠しもしない。
「いやはや、こうして見事兵権を掠め取ったわけですが……ふん、まったくもって回りくどい。70点といったところですな」
「手厳しいな」
「主君に剣を向けておきながらやり口が半端なのです。いっそのこと傭兵の一部隊くらいは壊滅に追い込んでおくべきでした。その方が我らの力を知らしめられるというのに」
「言っただろう、勝算のある方につく、と。これから魔王相手に一戦せねばならんのだ、無駄に味方を減らしてどうする」
「決まりきったこと――――起てばよろしい」
かつてヴィルヘルムの教育役を務めた男は、目を細めて主を見やった。
「……爺、それは――」
「怖気づかれますな。『その日』が決して来ないとは誰にも言いきれないのです。常に刃を研ぎ、腹を隠しなされ」
「……決めたことだろう。二度はない、二度はしない」
「当然でしょう。しかしこれは心意気の問題です。一流の騎士とは一流の武人であり、さらには一流の梟雄たらねばなりません。それを考えれば空に浮かぶ竜騎士どもは落第もいいところですな。私ならばこの部隊に間者の一人も紛れ込ませるというのに」
「…………」
相も変わらず耳にたこができるかと思うほど聞き飽きた教訓の言葉。それを本当の意味で理解していた人間は、この場にはいない。
黙り込んだヴィルヘルムを見て溜飲を下げたのか、従者は今度こそ息を吐いて首を振った。
「……恃むに足らざれば。しかし、今のところ及第点のようですな」
「……それは、誰に対しての評点なのだろうな?」
「さて。――いやしかし、心残りはあの猟師ですか」
唐突に話題を逸らした従者は、正面の辺境伯軍を見やって鼻を鳴らした。
「討てるならば討っておきたかったところです。先日の戦が最後の機会だったでしょうから」
「それこそわからんぞ、爺」
は? と怪訝な顔で振り返った従者に、ヴィルヘルムは小さく口を歪めてひとりごちた。
「――時は乱世、状況は流転し定まる試しはない。ならば、こちらが動かずともあちらが立場を変えることもあるということ」
「いつかアレが背くと?」
「さてな。生きていれば、機会もあるさ」
皮肉げに苦笑し、ヴィルヘルムは床几から立ち上がった。
ドラゴンに跨り、ひときわ高くなった視界では兵士たちが不安げな視線でこちらも見上げている。
――――こちらから出す指令は、突撃か撤退の他にない。その二択で充分だからだ。
「――全軍、反転! これより、我らはルドルフ・ベッケンバウアーの本陣へ攻撃をかける! 後方に引き籠る軟弱兵どもなど、大軍でもって押し潰せ……ッ!」
●
これにて、半島の再統一戦争は決着した。
これより先はその後日談。
ひとりの男が悲憤に暮れて、ひとりの女が憎悪に歪む。ただそれだけの話。
堕ちていく。先には何もないと知りながら、堕ちる以外の道を選べない。
務め以外を切り捨てるか、務めそのものを打ち棄てるか。どちらをとっても――




