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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
決断を迫る者
448/494

名もなき港町にて⑦

小指が動かぬ……

 その夜、港町を雨が襲った。

 大した雨ではない。河川が増水するわけでもなく、埠頭に波が乗りあげることもないほどの、それでも小雨とは言い難い春の雨だ。


 港町を囲うように掘られた堀は空堀である。防壁は海まで到達させられたものの、堀の方は後回しにされた分間に合わなかったためである。地続きになっている部分は防柵と投石機で守りを固め、すぐ内側に展望できる櫓を築いて射手を配備した。工事が間に合わず未完成な分、いっそ魔族たちをおびき寄せる殺し間にしようという発案である。

 案の定、昼の内にデーモンたちが手下を引き連れて数度にわたり攻め寄せたが、全て撃退に成功している。それからは攻め手も学習したのか、あくまで防壁の破壊を目的として正面から打ち壊そうという動きに変わっていった。


 内海を渡って無防備な北側から港町を攻める、という考えは早々に捨て去られている。その理由は率いている兵の性質と地形の問題が関わっていた。

 魔族は基本的に泳ぐことができない。海洋に生活を置く者ならばあるいは可能かもしれないが、いかんせんカーラの率いる軍にその手の人材は皆無だった。

 海底を歩ませられるガーゴイルならあるいはと考えられるかもしれないが、港町沿岸の土壌は柔らかく、金属製の獣など派遣すれば瞬く間に足を取られて身動きが取れなくなる。


 結果として、魔族側は守りの薄い海岸側を攻めることができず、オスヴァルトたちは北面への守りに人員を割く手間を取られずに済んでいた。


 ――繰り返す。防壁の前面には空堀が横たわっている。

 水は引き込めなかったものの深さはある。底は既に数多くのインプの死骸で累々とし、踏みつければ血糊でぬかるんだ泥が跳ねるほど。

 そんな空堀に雨が降った。どうなるかなど今更問うまでもない。


 排水設備のない堀は一刻もしないうちに膝丈まで浸水し、背丈が人間の半分ほどしかないインプは足を取られて難儀することになった。ガーゴイルたちも同様で、水に足を取られ踏ん張りの利かない堀ではろくに防壁に爪を立てることもできない。

 雪壁跡に仕込まれた悪臭の果実の臭気が雨で流れたのは幸いといえるのか、ともかく迂回する必要のなくなったインプは今が好機と正面へ攻め寄せた。


 ――異変は、その時である。


「――ギギ……?」


 堀の水に身体を浸からせていたインプ、その一体の様子がおかしくなった。

 眠気に襲われたように唐突に身体をふらつかせ、ばしゃんと水音を立てて倒れ伏す。ぶくぶくと浮かんでは弾ける呼気の泡、しかしいつまで経っても立ち上がる気配を見せない。

 立ち昇る気泡の量を鑑みれば肺の中身を全て水浸しにするほどだというのに、それでもインプは立ち上がる兆しを見せなかった。


「――――」

「ギァ?」

「キキ――――」


 異変はそこまでで収まらなかった。次々と倒れ伏すインプたち、誰も彼もが急激に意識を遠くしたような有様で、ある一体は喉に異常を感じたのか首元を掻き毟りながら倒れ伏した。そしてまたある一体はしきりに目元を擦り、しゃがれた悲鳴を上げながら卒倒した。

 突如の異変に、インプたちとともに壁を越えようとしていたガーゴイルは困惑した仕草で堀に立ち尽くした。次々と足元に浮かび上がる小悪魔の死骸、血糊に染まる雨水がわずかに黄色がかって見える。


 ――静まり返った堀の水面に、黄色い霧が雨水に掻き混ぜられていた。



   ●



「――排水口には五リットルほどの排水が貯まり込むタイプがある。きちんと流したと思った洗剤も、流す水が不十分で中に残っている場合も多々あるようじゃ。掃除の時に気をつけておかないと、別々に使い分けてるつもりだった塩素系と酸性が配管で混ざってえらい目に遭うから気をつけることじゃな」

「何を言っとるのだ貴様は」


 念のため口元を布で覆ったドワーフ二人が言いあっている。内容は先ほど空堀の中を襲っている異常事態の件だ。

 雨が降ったっ途端、二人は兵に命じて堀の両端から大量の薬物を投げ入れた。水に溶けた薬物が堀の内部で混ざり合い雨水で攪拌され、堀全域で有毒ガスが生じたのだという。


 ガルサスの突っ込みを受けたギムリンは肩をすくめて言った。


「……いやなに、風呂掃除での注意事項を少々。家庭で出来る毒ガス実験は割と洒落になれんからのう」

「今回のは正直儂でも引く。ここまで刺激臭が漂ってきとるんじゃが」

「……毒のようだが。ここまで臭ってきているということは前の兵は危なくないのか」


 言いたい放題の二人に、同様に口元へ布を巻いたオスヴァルトが問いを投げた。……一応兵士全員にマスクを着用させ、体調が悪化すればすぐさま後方へ下がるように命令している。

 倒れた兵士が出たという報告は受けていないが、むしろ報せの一つも来ていないという事実が逆に不安感を醸し出していた。


「問題はないじゃろ、壁の孔はふさいどる」


 答えるギムリンの声はあくまで気軽である。気難しい顔つきのガルサスが言葉を継いだ。


「……あの手のガスは空気より重い。壁の厚み、高さからしてこちらまで越えてくることはないじゃろう」

「それにあの毒、ぶっちゃけインプ以外に効果ないしのう。見てみよ、あの堀で立ち尽くしとるデーモン。何が起こったかわかっとらんわ」

「インプ以外に効果がない?」


 どういう意味だ、と訳も分からず鸚鵡返しにしたオスヴァルトに、ガルサスが首を振った。


「言ったじゃろう、空気より重いと。あのガスは壁を越えてこれないのはもちろん、デーモンの身長まで昇る頃にはただの刺激臭レベルにまで薄まっておる。――ふん、雨もまた善し悪しだわ」

「風も吹いとる。インプの身長……だいたい90㎝くらいか? 殺傷高度はその程度じゃな。大した毒耐性を持っとらんのがうぬの不覚よ」

「誰に言っているのだ」


 そもそもあれは毒といってもいいのだろうか。植物毒や魔物が精製する毒とはまた異なる仕組みのようだし、どうにも世の理から外れた代物のようにすら見える。

 苦悩するオスヴァルトを尻目に、ドワーフたちは眼下の光景を眺めて一点を指差した。


「……うむ、やはりな。儂でもあれ(・・)はやる」

「他に手段がないしのう」

「堀が……」


 見れば、十体近くのガーゴイルが堀の中を北へ向けて進んでいく光景があった。その先に特に何があるというわけでもなく、ただ堀の終わりが途切れているだけである。

 ガーゴイルは堀の端に辿り着くと、その鋭利な爪を次々と土壁へと振るい始めた。


「――堀を、海とつなげようとしているのか?」

「うむ。水を引き込んで毒を薄めようという算段じゃな。ついでに底に積んである死体の掃除もしてくれるとありがたいが」

「施工が間に合わなかったところだの。代わりにやってくれるというなら是非もない」


 口々にガーゴイルの動きを解説するドワーフたち。視線を返すと、それまで堀の中まで攻めようとしていたインプたちが引き上げ、堀の向かいから遠巻きに作業を見守っている。


「――――ハ、ざまあ無いのう。やっこさんめ、とうとう被害を気にするようになったようじゃぞ」

「ようやく折り返しといったところか。無尽蔵に敵が来るわけでないのは助かるわい」

「――射手、射手の手配を。あのガーゴイルの作業を妨害し続けろ」


 堀が海へ開通し、毒が抜ければ戦が再開する。それまでは本格的な交戦にはならないだろう。

 貴重な小康状態だ、兵を下げられるだけ下げて休ませた方がいい。破損したバリスタの修復や壁を乗り越えて絶命したデーモンの撤去など、出来ることは多い。


 慌ただしく指示を出し始めたオスヴァルトからやや離れた場所で、老人二人の会話がぼつぼつと交わされていた。


「――機構が錆びる。射出孔はもう使わん方がいいな」

「せっかく組み込んだ回転刃も出番なしか。あの調子だと火炎放射も怪しいのう」

「まったくもって善し悪しだわい。時間が稼げたのは万々歳だが、後がなくなった」

「投石機の配置を変えるとしよう。掘った先から埋め立ててやれば、まだ少し開通が延ばせるじゃろ」


 やれやれ、と二人して息を吐く。能天気に見える二人の顔は、土汚れでわかりづらいが精神的な疲労で隈ができていた。


「……いつ来るかもわからん援軍を待つのは、流石にきついのう」

「なんじゃ貴様、もうへばったか」

「元はただのリーマンじゃからのう。十年かそこらで七十年重ねた気質は変えられん」

「よく言う。貴様は地下王国でもそうお目にかからん気狂いじゃぞ」

「ふん」


 揶揄するガルサスにギムリンは鼻を鳴らす。夜空に滴る雨水が陰鬱な音を響かせていた。


「……必要が人を殺す。飢えも、差別も、暴虐も、全ての悪徳の第一歩は必要さから生じた」

「まだ踏み出すには早いじゃろう。ゆめ早まるな」

「使わずに越したことはないがの。しかしコーラルが来た時にとっくにここが落とされていた、なんてザマは御免じゃわい」

「む? …………いや、あぁ、なるほど」


 黒髭のドワーフの言葉に、白髪のドワーフは何か得心がいったかのように頷いた。その様子にギムリンも不審に思ったのか、ぶっきらぼうに問いかける。


「……なんじゃ、一体」

「ちょっとした齟齬を見つけての。――貴様、勝利条件を履き違え取るぞ」

「あァ?」


 馬鹿にされたのかとばかりにチンピラのごとく凄むギムリン。対しガルサスは微笑さえ浮かべて言った。


「貴様は知らんのだったな、援軍がいつ来るのか。儂は知っとるぞ。――――つまりはだ、戦とは外交のいち形態に過ぎん。そういうことよ」

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