噴き上がる異様の狼煙
それは、突然のことだった。
その日、俺はいつものように山へ向かい、太めの木にするすると登って樹上からの狙撃に挑戦していた。
幹から延びる胴体ほどの枝に跨り、装填したクロスボウを持ってひたすら獲物を待ち続ける。枯葉色の外套は晩春の季節ながらいい具合に迷彩となってくれている。
跨る枝の高さは七メートルほどで、周辺の木々と比べては平均よりやや高いといったところ。つまり下を見張るには周りの枝葉が邪魔になるという意味だが、まあそこは欺瞞効果とトレードオフといったところか。
木々の葉を透過した緑の光が肌を灼く。五月も半ばともなれば北の半島といえど毛皮まみれのファッションは暑苦しくなってくる。かといって頻繁に山に入る職業柄、半袖半ズボンなんて軽装は避けたい。そのうち薄手の衣服を取り寄せてもらうよう雑貨屋に依頼すべきか。
そんなことをつらつらと考えていると、待ちに待った獲物が姿を現した。
「…………」
一頭の牡鹿だ。相当に大きい。五股に分かれた角の長さはは人間の腕ほどもあり、威嚇に突き出されるだけでも威圧感は大きいだろう。
……鹿は春になると角が生え変わるというが、この大陸は事情が異なるのだろうか? 外敵が多い世界では角のない時期は無くしておきたいとか。
この大陸の生態系は地球のものと異なるところがある。狼は大きいし兎の毛は短期間で劇的に生え変わる。――多くは魔法や魔物の特性を原因としていて、それはつまり対象の生活方法が地球のそれと違った場合、どこかに特異な特徴を持っている可能性を示している。
あの鹿は角に何か秘密でも持っているのだろうか。……今まで気軽に仕留めてきた獲物だが、そんな疑問がふとした拍子に浮かんでくる。
……暖かくなったせいだ。時折思考が無関係なことに逸れることが増えた。過ごしやすい季節になったぶんどこか緩んでいるんだろう。
まあいいか。とにかく今は、あれにボルトを撃ち込むことだけを考えよう。
クロスボウを構える。使い慣れた弩弓の照準はぶれることなく、ただ呼吸に従って先端を緩やかに上下させる。
息を潜めて機会を待つ。銃と違い弾速が目視できる程度のボルトは、相手に気付かれて躱されることがある。連射の利かないクロスボウでそれは避けたい。出来れば獲物の注意が完全に逸れた頃に引き金を引きたい。
――――今だ。
鹿が足元の草を食もうと下を向いた。今なら前脚の上部――心臓近くに当てられる。
息をつめて引き金に指をかけ、そっと引き絞り――
次の瞬間、轟音と震動が世界を支配した。
「うおおおおっ!?」
慌てて近くの木の幹にしがみついた。なんだなんだ!? いきなりどーんときたぞどーんと!
ぐらぐら揺れる地面につられ、木々がみしみしと不吉な音を立てる。これは最悪倒れるかもしれない。どうにか開けた場所に避難したいが、現状腕の力を弛めでもしたら七メートルの自由落下が待っている。
……そこ。一桁メートルの高度なんて大したことないなーとか舐めたことを言わないように。一般的な二階建て住宅の屋根上が大体その高さだ。そこから身体強化も無しに飛び降りて、捻挫一つしないで済む自信などあるものか。
ここは安全第一にコアラと化して大樹に同化するのが上策である。いやこの場合は猿風船? どうでもいいか
地揺れは一分以上も続き、音に関しては今だ鳴りやまない。
折を見てどうにか地面に降り立ち、先代の額当てを装備してフードを被った。頭上には山の木々が枝を張っている。折れた枝や手を滑らせた魔物が落ちてこないとも限らない。
さっさとここを退去して開けた場所に避難したいところだ。山崩れに巻き込まれたら間違いなく死亡する。小さく振動を続ける地面に冷や冷やしながら帰路を目指した。
そう、そのつもりだった。
一目散に村に向けて足を速めるなか、奇妙なものが視界を掠めた。
北の方向。その上空。
木々の枝葉の切れ目に途切れて浮かぶ、暗灰色の物体は――
「あれは……」
予定変更。ぐるりと方向転換し、北にそびえるひときわ高い山を目指した。
駆けに駆ける。速めた脚はいつの間にか全力で動いていた。視界端でSPバーが減少していく。……そういえばここ最近はスタミナを使うほど全力で走ったことはなかったな、と場違いな感想を抱いた。
険しい登り道、否、道なんて上等なものはない。乱立する木々の間を縫うように疾走する。
目前に人丈ほどの段差。魔力を脚に注ぎ込み、強化した筋力で跳び越える。滞空している間にSPがやや回復していた。着地してさらに加速する。
≪経験の蓄積により、『走行』レベルが上昇しました≫
≪スキルレベルの上昇により、敏捷値が上昇しました≫
「っ……!」
舌打ちが漏れる。前方で地面が崩れている。地面はガタガタで通れる有様ではない。
となると……
目についた木に飛びついた。うろに手を引っかけて身体を持ち上げ、今度は枝から枝へ曲芸のように渡っていく。
事故現場の直上に、大きく張り出した枝があった。狭い足場に悪態をつきながら駆け上がり、身体強化付きで跳躍した。
びょうびょうと風が吹く。この時、俺は空を飛ぶ魅力を知った。
肝が冷える感覚。足場の枝を踏み折り10メートル以上の高さにまで跳びあがった。容易く山崩れをパスしたというのに、達成感なんて微塵もない。
目を奪われた。視界いっぱいに広がる緑の世界に。
跳びあがった身体は空中にあり、バランスを失うまいと必死にもがいている。滞空時間は十秒に満たず、このままいけば対岸の木々に激突するか着地に失敗して落下死することもありうるというのに。
――ただ、綺麗だと。
空を行く鳥が上空から見る山は、こんな光景なのかと。
「ぐ、おおおお……!?」
バサバサと音を立てて落下していく。木の枝が容赦なく身体を叩いてくるのをどうにか堪え、咄嗟に腕を伸ばしてその中の一つを掴んだ。
がくんと身体に伝う衝撃。腕がもげるかというほどの痛みが肩に走った。苦鳴を噛み殺して握力を強めて――めきりと、手袋越しに嫌な感触を感じた。
「この……!」
折れた。
一瞬の浮遊感。落下を再開した俺の尻を枝葉が叩く。カマを掘ってくる枝がなかったのはむしろ幸運だったかと、そんな思考が出てくる自分に苦笑して、
「ぎゃ、あ!」
幸いなことに、死ぬことはなかった。
≪経験の蓄積により、『軽業』レベルが上昇しました≫
≪スキルレベルの上昇により、敏捷値が上昇しました≫
そうして、そこに辿り着く。
北の山の頂上。そこに生える大樹の枝に腰掛ける。打った腰は未だに鈍痛を伝えてくるが、今は走り過ぎて足がまともに動かない。
ここは付近でもっとも標高のある山だ。周囲数十キロにわたって視界を遮るものはなく、後方の村やさらに向こうの海まで望むことが出来る。天気が良ければ、北方にある米粒のような大きさの領都らしき大城も見ることが出来た。
そして当然のように、その先に威容を放つ火山までも。
「――――――」
言葉を失う。
北の果ての半島、そのすべてを高みより睥睨する山脈。その標高は大陸で三指に入る。恐らくは富士山よりも巨大なそれから、
「噴火、だと……!?」
もうもうと噴き上がる、黒い煙が。
……なんだ、これは。
なんなんだ、一体。
――周辺の生態を記録した先代の冊子によれば、ミューゼル領の活火山はその地脈の力をドラゴン達が吸収しているため、噴火の起こりにくい環境なのだという。
そうでなければ、この地はとても生活に適さないとも。
ならばこれは、いったいどういう意味なのか。
黒煙が北の空を覆おうとしている。きっと間もなく灰の雪が降るだろう。作物が死に、餓死者が出る。生活の糧を失った人々が、この地に溢れるだろう。
――何かが起ころうとしている。予兆などではなく、異変はすぐ目前に迫っている。




