鹿の旗は胸のうちに
「――さて、弱りましたねぇ……」
地下に築かれた暗室に男の声が響く。
ルドルフ・ベッケンバウアーが開戦を宣言したその夜、ハイモ・ディカーは砦に備えられた地下牢にてわざとらしい溜息をついてみせた。
深夜も深夜、竜騎士たちも寝静まり、夜番の兵士たちが寒さに鎧を震わせる音ばかりが砦に響いている。芯までくる冷え込みに、思わずディカーも身に纏う外套をかき寄せた。
ディカーの目の前には男が跪いていた。
――否、跪いていた、ではない。
手足を縛りあげられた男が両脇を囲む兵に押し付けられ、強引に膝をつかされていた。
「もう一度お聞きしましょう。今度は正直にお答えください」
「…………」
ディカーの丁寧な口調に男は言葉を返さず、ただ険しい瞳で睨みつけるにとどめた。今にも唾でも吐き捨てそうな顔つきに何の感想も懐かず、ディカーは独り言のように言葉を続ける。
「四日後――あぁ、もう三日後でしたか。次に控える戦い、辺境伯はどのような作戦をもってあたるのでしょうか?」
「知るかよ、屑が――ぶ!?」
嘲りも露わに男が答える。間髪入れずに傍らの兵士が頬を殴り、たまらずよろめいた身体を強引に引き戻す。
突起の多い篭手で殴られた男の頬は赤く腫れ上がり、べっと吐き出した唾には血とともに白い歯が混じっていた。
「ご存じでない? おかしいですねぇ」
「……知る、わきゃねえだろ。こちとらただの農民、あっちはキラキラしい将軍様だ。関わりなんかあるかよ」
「いえ、いいえ。それは違いますとも、ええ」
男のぶっきらぼうな返答にもディカーは笑みを絶やさない。鼠のような瞳を更に細めて男を見下ろした。
「あなたは立派に辺境伯の関係者だ。ねえ、元『鋼角の鹿』のゲオルグさん? 私がそれを知らずにあなたを招き入れたと本当に思っていましたか?」
「…………」
黙り込む男に、ディカーは満足げに頷いた。
――昨日の明け方のことだ。ベッケンバウアーたちが籠るこの砦に、この男が単身訪れた。
目的は彼の住む村での徴税と徴兵の減免。拓いて数年も経たない農村で、耕作が波に乗るまで税は大きく免じられていた土地である。彼はそのことを引き合いに、どうにかしてベッケンバウアーから譲歩を引き出すつもりだったという。
……なんと苦しい言い逃れか。人手も、年貢も、まともに差し出す気があったかすら怪しいというのに。
「相談役だったそうですねぇ、村の。あぁ、前の村でもそうだったんでしたか。読み書き計算ができて、あの傭兵とも顔が利く。村の皆からたいそう頼りにされていたとか」
「……昔の話だ。団長とは別れてもう十年以上も経つ」
「スタンピードでしたか。酷い災害でしたねぇ。あなたも剣を振るえなくなった」
ちらり、と視線を落とせば、鎖に繋がれた男の右手の小指と薬指が中ほどから無かった。古傷なのだろう、断面は完全に塞がっていたが。
「戦えない傭兵など価値がない。しかし情が深いと人気の傭兵殿のことだ、さぞ待遇が良かったのでしょうね。あなたが野に降るにしても、こうして学まで付けて村の顔役にまで留め置いてくれた。さぞ恩は深いでしょう」
「……何が言いたい」
「今でも繋がっているのでしょう? 間諜としてはまさに適役だ」
ずい、と腰を曲げて顔を寄せれば、怒りの滲んだ瞳とかち合った。
「あの傭兵は何を企んでいるのですか? 義倉を焼き払い、街道沿いに潜み兵にも奇襲をかけている。おかげで兵站の連絡に余分な兵をつけなくてはならなくなった。必要十分な麦も集まらず、無理に兵を集めても動かせる期間が短くなっては元も子もない」
「カボチャでも喰えばいいだろ、道脇に散々生えてるじゃねえか」
「――――」
ディカーの顔から表情が消えた。あくまでふてぶてしい態度の男に首を振ると、脇に控える兵に目配せを送る。
兵士はディカーに頷くと、腰に備えた刃毀れの目立つ手斧を手に取ると、
「――おやりなさい」
「は」
――ひと息に振り下ろした。
「か――――あぁぁあぁああぁあああああ!?」
絶叫が迸る。激甚な痛みに男はのたうち回って暴れ回ろうとするが、抑えつける兵士がそれを許さない。
――男の右足は、足首から切断されていた。
「ぎ、ゃぁあああああ……ぐ、そったれが……っ!」
「まったく、下賤の平民はこれだから理解が遅い」
悪態で苦痛を誤魔化そうとする男を前に、ディカーは呆れた顔を隠しもせずに溜息をつく。
「――南瓜を食べろ? あの家畜の餌を、我々が? まったく汚らわしい! あんな得体のしれない人面の植物など、口にできる平民の品性が信じられませんよ私は。しかも広めたのは魔物のなりをした『客人』! 我々竜騎士に、あの平民以下の野蛮人どもから施しを受けろというのですか! 世迷言も大概にしなさい!」
まったくもって嘆かわしい。半島民の品格はここまで落ちぶれてしまったのか。
……いや、古参の傭兵だったというこの男のことだ。あるいは半島の外から来た人間かもしれない。しかし、だとしても仮にも栄えある王国民ならば誇りある生きざまを心掛けて貰いたいものだ。
「繰り返しますよ。傭兵は何を企んでいるのですか? ……短期決戦は望むところ、姑息な小細工など正面から打ち砕くのが竜騎士の流儀ですが、やられっぱなしというのも癪に障る。――そら、早く答えなければもう一つの足も使い物にならなくなりますよ」
あるいは、そのまま出血多量で死に至るか。
言外にすぐそこにある未来を示してやると、苦悶する男はようやく顔を上げた。痛みと足の喪失感に焦点の合わない目を向けると、微かに喉と顎を動かし――
――べちゃり、と。
不快な感触が頬にへばりつく。
「……息が臭えぞ、なんちゃって竜騎士」
「…………」
なるほど、なるほど。
実際にやられるのは生まれて初めてだが。なかなかに屈辱的だ、これは。
取り出した手拭いで顔に吐きつけられた唾を拭う。ぬらぬらと蝋燭の光を照り返すそれを放り捨て、ゴミのように踏み躙った。
「――――結構。情報はもういいです」
「誇り高いなぁ、汚い唾の滴る情報なんざ要らねえってか」
別段、どうしても必要な手掛かりというわけではない。折よく何かを知ってそうな人間が網にかかったから尋問にかけただけのこと。ゆえに、取りこぼしたところで痛くもかゆくもない。
アリシア・ミューゼルは短期戦を御所望のようだ。何を隠しているのかは知らないが、竜騎士の数では勝っているのだ。児戯のごとき小細工など真っ向から粉砕してやる。
ディカーは背筋を伸ばすと軽く首を回し、息を吐いた。振り返り、男へ背を向けた頃にはいつもの細い目つきが戻っている。
「では、お望み通りに。……地獄で仲間と再会なさってください」
●
頭を殴られた。
「ぐ……!?」
明滅する視界、朦朧とする意識のまま引き倒され、石造りの断頭台に首を押し付けられる。両脇の兵のうち一人が身体を抑えつけ、もう一人が斧で首を断つ手筈か。
打つ手はない。片足を失い、元から無い情報の提供を拒んだ時点でゲオルグの命運は断たれている。
「あぁ……畜生」
頭をよぎる悔恨といえば、ただひとつ。
「また、一緒に戦いたかったなぁ……」
こんなナリじゃ、もう無理なのはわかっている。あの日指を失ったときから、道が分かたれるのは必然だった。
だが――――それでも。
どんなに遠くとも、心はともにあると信じている。
思い返すのは、あの夕焼けだ。
疲れ果てた皆の前。夕暮れの浜辺に突き立った、鋼の角の旗印。
照り返すあの角が、紅銀の輝きを放っているようで――
――――ならば構えろ、傭兵!
あの声が、今も魂にこびり付いている。
「……悪いな、団長。先にいく」
精々、寄り道してから追いつけよ。
そうひとりごちて目を閉じたゲオルグに、断頭の斧が振り落された。




