帰りたい
本当は、考えるまでもないことだった。
今更思う。今になって思い知る。何を願おうが全ては手遅れで――――いや、ことの始まりから手のつけようのない流れの中にあったのだ。
だからだろうか。気付くまいと、いつも目を逸らし続けてきたことだった。
本当は、転生なんてしたくもなかった。特別な力なんて要らなかった。
普通に高校に通って、学力に相応しい、出来れば学費の安い公立の大学に受かって。
就活は大企業じゃなくて地元の、週休が二日取れるところがいい。給料は安くても、有休をとりやすくてブラックでなければ。
初任給で家族旅行に行きたい。今まで面倒見てくれた分にはまるで届かないけど、これからは俺が頑張るんだっていう意志表示だ。一人前にやっていけるって母さんたちに見せてやりたい。
そしていつかは誰かと出会って、結婚して、子供を持って……もちろん、そんなうまくいくわけがないんだろうけど。
そんな――――そんな平凡でありきたりな日々が、今はどうしようもなく遠い。
思い出したんだ。死んだ時のことを。
いや、本当はまだ死んでないから、死ぬきっかけになった事故のことをだ。
死んでなんかいなかった。転生なんかじゃなかった。
電車に轢かれて、全身が磨り潰されそうな痛みの中、肉片一つ一つを白い防毒服を着た連中に拾われた。
奇妙な装置を頭に被せられて、どうせもう死ぬんだからとビスで頭蓋骨に固定された。
痛かったけれど、肺が潰れてて声なんかでやしなかった。生きていたのはいつの間にか心肺装置に繋げられていたせいだ。首から下は無いも同然。培養液でぷかぷか浮かぶ出来の悪いB級映画の出来上がり。
気が狂うほど痛くて苦しくて、それでも死ねない地獄があった。
きっと一瞬だったはずなのにその痛みは延々と続くみたいで――
そう、あの空間。
あの自称『転生神』。
見るからに怪しい、冷静に考えればまず疑ってかかるようなご都合主義。赤ん坊のように無垢でもなければ、ヒーローみたいに徳を積んだわけでもないのに、なんで俺みたいのが特別扱いなんだろう。
……本当に、馬鹿なネット小説みたいだ。
信じたのは現実から目を逸らすためだ。
だってそうだろう? これがただの仮想現実で、お前はただの実験体に選ばれたモルモットです。あと数時間もしないうちに死ぬだろうけど、それまでバーチャル世界でエンジョイさせてやるよ――そんな現実に立ち返ったところで、いったい何になるっていうんだ。
だから都合よく自分の記憶に蓋をした。多分『奴ら』が頭に細工をしたのもあるのだろうけど、それを俺自身が望んだのも確かなんだ。
チートを貰ったよ。これがあれば異世界でも好き勝手振舞える、夢のような能力だ。
楽しかったよ。思い通りに伸びていく能力、珍しいスキルは倒した敵から奪える、パーティを組んで特典を分け合えば、同じように『才能』が開花する仲間から神様みたいに崇められるんだ。
まるでゲームの勇者だろ。いつか来る魔王を倒すんだってクレアは言っていた。『運営』から言われたのは別の奴の始末だったけど、ひょっとしたら『そいつ』が魔王なのかもしれないと思った。
転生神とやらは言った。『敵』を殺したら願いを一つなんでも叶えてくれるって。
何を願うかなんて決まってた。
帰りたい。
帰りたいんだ、僕の家に。
母さんに会いたいよ。夕飯にまたカレーを食べたいんだ。
父さんと次の日曜日に野球を見に行く約束だった。野球に興味はないけれど、試合を見ながら父さんのする西武の解説を聞くのは好きだった。
まだ親孝行だってできちゃいない、大切な家族なんだ。
――全てはもう、どうにもならない話。
ゲーム会社の運営の口車に乗った、馬鹿なガキが辿る末路。
もうここからは出られない、帰れない――
●
「――お前に、何がわかるんだ……!」
――そして今、腕の下にはそう歳の変わらない少女が組み伏せられている。
「作り物の世界で、接待用に用意された人形が賢しらげに人間様を憐れんでる。いったい何様なんだお前は……!」
「…………」
「笑ってるのかよ、俺を! こんなゲーム世界に閉じ込められて、チート振り回して悦に入ってる馬鹿なガキを!」
少女は答えない。黙りこくったまま、静かな瞳で見上げてくるばかり。
――その澄ました顔つきが、どうしようもなく癪に障った。
なんでお前に見透かされなきゃいけないんだ。なんでお前に憐れまれなきゃいけないんだ。
何も知らないNPCの癖に、サービスが終わればスイッチ一つで消え去る虚影の癖に。
――――そして自分は、そんなNPCにも劣る存在なのだ。
「私は――」
「作り物だ! 偽物だ! 知らなかったろ? お前は、お前たちはゲーム会社が作り上げた都合のいい人形の一つで、プレイが終われば電源が落ちて消え去るだけの存在なんだよ!」
そのとき、自分は一体どうなるのだろう。
現実に引き摺り戻されるのだろうか。ブクブクと泡の浮かぶ水槽の中に、あの痛みとともに叩き起こされるのだろうか。そのまま数分後に死ぬのだろうか。
それとも、この場所に取り残されるのだろうか。……とっくに肉体は死んでいて、魂だけいまだに残っているのなら――
「馬鹿馬鹿しい! そんなオカルトなんてない! ふざけた奇跡なんてない。都合のいい展開なんてないんだ……!」
こんな茶番、終わらせたい。消えてしまいたい。死んでしまいたい。
でも終われない。
終われば――――あの現実に帰るのかと思うと、心が竦む。
出来ることなんて、この世界の片隅で隠者を気取って自分を慰める毎日くらいだ。
「――わからないよ、キャバリー」
ぽつり、と少女が零した。
仰向けに横になったままこちらに向けてくる視線は、思わず怯んでしまうほど真っ直ぐで、
「私はあなたの言ってること、きっとほとんどわからない。だって私たちが作り物なんて言われたって、実感が湧かないもの。
こうして空を見上げて、土の匂いを嗅いで。それに、こうすればあなたの温もりだって感じ取れるもの。偽物なんて思えないよ」
それに、と続く声。
伸ばした指先が頬に触れる。気付けば、いつの間にか涙があふれていた。
「――それに、私たちが明日消え去る存在だったとしても、私は今を精一杯生きたいよ」
――――それは、
「明日消えるにしても、何も残らないにしても、嘘になるのは明日だもの。――嘘はね、続くうちは本当なんだよ、キャバリー」
――――なんて、羨ましい在り方なのか。
●
「…………帰れ」
振り絞った声が少年から零れた。
「お前には帰る場所があるんだろ。帰れよ、二度と来るな」
身を起こし、背を向けた少年はぶっきらぼうに促した。頑なに顔を背けるその姿からは、表情を窺うことはできない。
ノエルは立ち上がると服の土をはたき落とし、小さく息をついて口を開いた。
「……また来るね、キャバリー」
「来るなって言ったろ、馬鹿」
いいや、来ると決めた。絶対来る。
呆れた声色の悪態を背に、ノエルはいつものように東へと足を向けた。




