女傑の所以
選択はなされた。道は定まった。
交易都市の元傭兵は離反を選ばず、辺境伯麾下の身分を捨てる機会は失われた。
「――本当に、それでよろしいのですね?」
エリス夫人が問う。本心の窺い知れない微笑みを浮かべ、見定めるような瞳でイアンを見つめていた。
「悪いな、夫人。せっかくのお誘いだったんだが、そっちを進むと笑えなくなりそうだ」
イアンが応えた。迷いのない瞳で彼女を見下ろし、わずかに眉を寄せる。……まるで、出来のいいジョークを聞きながら笑い時を逃した聴衆のような顔だった。
「エリス……」
顔を強張らせたウェンターが夫人に向き直る。片手には愛用の大剣。悲壮な表情で猟師の肩越しに彼女を見つめた。
……イアン・ハイドゥクは独立の道を選ばなかった。ならばそれを教唆した人間は、彼の身の潔白を証明するために除かなければならない。
「……どいてくれ、コーラル。もう、どうにもならない」
「…………」
ふん、と軽く鼻を鳴らし、猟師は背後を振り返る。
「いいのか、ご夫人?」
「ええ、構いませんよ」
夫人の表情は変わらない。どこか達観した瞳で猟師を見つめる。
「もとより覚悟の上のこと。たとえ命を落とすことになろうと、この場に立ったことに悔いはありません」
「よく言う。なら好きにするがいいさ」
呆れた声で肩をすくめ、猟師は副団長へ道を譲った。大剣を手にエリスの前に立つウェンターを尻目にして、小さく呟く。
「……もっとも、とんだ茶番になってしまったが」
その台詞の真意を問いただす暇はなかった。なぜならば――
「――話は聞かせてもらったよ! その決定、大いに異議あり……っ!」
その場の全員の思考を遮るようにして、やかましい闖入者が現れたからだ。
開け放たれる謁見の間の大扉、勢い余ってはじけ飛ぶ蝶番。閉め切った部屋に外気が流れ込み、ひときわ明るい廊下から差す光が逆光となってその人物のシルエットを映し出す。
燃えるように赤い髪、幼さの残る丸い輪郭に小柄な体躯。
釣り目がちな赤い瞳が謁見の間を睥睨し、何が面白いのか口元は吊り上がり笑みを浮かべている。
次期辺境伯、アリシア・ミューゼルがそこにいた。
●
いやー乱世乱世。この世はまさに諸行無常ですなぁ。
ガルサス翁から話を聞いて謁見の間までダッシュダッシュ、不穏な気配と副団長の怒号で大体の内容を把握し、どうにかこうにか止めてやることができましたよ、ええ。
隣室に見覚えのある魔力反応を見たときから大体のことは察したよ。ひでえ茶番だわこれ。
……まぁ、必要な儀式みたいなものであることは否定できないのだが。
「……まぁ、早い話が、だ。試したんだな、お嬢」
「いぐざくとりー!」
「……私は、反対したのですが」
俺の問いにアリシアが小さい胸を張って頷く。その背後から疲れ切った顔つきのアーデルハイトが姿を現した。
「――半島内で有数の歩兵戦力を誇り、かつ新参のイアン・ハイドゥクを信任するには、その忠誠心を目に見える形で表さなければならない、と。叔母様が自ら領城で談判なさいまして……」
「言ったとおりでしょう、アーデルハイト。イアン傭兵卿は甘言を跳ねのけ、見事忠誠を証明してみせました。重用の根拠としてこれ以上のものはありません」
「やり方というものがあるでしょうっ。コーラルが駆けつけなければ私では間に合わなかった。寿命が縮むかと思いました……!」
にこにこと微笑みを絶やさないエリス夫人に対し、アーデルハイトは心労を隠せない。実際下手すれば副団長に斬られていたのだから笑いごとではないのだが。
「いいえ、笑いゴトでいいのです、猟師殿」
すわ、読心術の使い手だったか。
思わず顔を引き攣らせる俺に夫人が向き直る。どこか勝ち誇ったような笑みが腹立たしい。
「……済まないが、いったい今のどこに笑える要素が?」
「あの時点で、私はあの人に斬られない。そう確信していましたもの」
「そりゃまたどうして?」
「信じていたからです。貴方を、そして運命を」
歌うような声色だった。
「――あの人、イアン殿、そして猟師殿。あなた方の話を聞いていると、まるでよく出来た物語の中にいるような気さえするのです。悲劇を許さない、絶望に屈しないその意志に。足掻いて、もがいて、のたうち回って。そして最後は必ず最高の結果を掴みとる。まるでお伽噺の勇者のようだわ。……奇跡さえ、きっと起こせてしまうと私は思うの」
それに比べれば命など安い賭けだと夫人は言った。人の気も知らないでよく言うものだと呆れるが、不思議と悪い気はしなかった。
「……言い分は大体理解した。けどよ、ちっと確かめたいんだが――」
団長が口を挟んだ。高座に座る男は緊張感が抜けたのかだらしなく足を投げ出し行儀悪く肘掛けに頬杖をついている。
団長は藪睨みのような視線で夫人を見つめると、
「――あんた、俺の選択についてはどう踏んでたんだ?」
そんな台詞を口にした。
「迷ったんだぜ、正直。あんたはやたら口が上手いし、そこの猟師はめちゃくちゃ煽るし、おまけにほんとに最後の機会みたいだしな。まだ憧れるよ、一国の主なんてなぁ。
我ながら紙一重の選択だった。けしかけてるあんた自身がわからないはずがない。そのあたり、本当に俺が起ったらどうするつもりだったんだ?」
「それこそ望むところです、傭兵卿」
女が答えた。その悪辣さを内心に押し込め、華やかな笑みさえ浮かべて言葉を続ける。
「――どう転んでもよかったのです。臣従を選ぶならば、私の首こそが忠誠の証となりましょう。独立を選んだなら、隣室に潜む姫様を差し出すまでのこと」
「うっわ、ひっどーい! 冗談きついよ!」
「お言葉ながら、姫様。無二の忠臣を得るか否かという瀬戸際なのです。その一大事においてたかが命すらかけられない人間に、乱世の主君たる器量を認められましょうか」
「…………」
訳:流れ次第で本当に売り飛ばすつもりでした。
思いもよらない夫人の言葉にアリシアの口元がひくつく。額に流れるのは冷や汗か。どうやらそこまで考えがいかなかったらしい。
「…………本当に、試しただけなんだな?」
あ、再起動した。
アリシア登場から呆然と立ち尽くしていた副団長が、ようやく我に返った様子で自らの妻に問いかける。
「試しただけなんだな? 彼女と示し合わせて、団長を焚きつけて……本当に、本心じゃなかったんだな?」
「ええ、あなた。その通りです」
恐る恐る手を伸ばす。
ぶるぶると震える指先で、壊れ物を触る様にエリス夫人の頬を触り、
「もう、やめてくれ……!」
そこにいることを確かめるように、縋りつくように抱きしめた。
「こんなことはもう二度とごめんだ。頼むから、こんなの、こんな、あぁっ……!」
「あなた……」
「斬らなきゃと思ったんだ。斬るべきだったんだ。きっと斬れる、そう確信したんだ。……最悪だ、最悪の人でなしだ、俺は……!」
「あなたは、それでいいのですよ」
「ちくしょう。好きなんだ、愛してるんだ。君なしじゃ嫌だ、もうこんな思いはさせないでくれ……っ」
「えぇ、二度と。私も愛しています。愛してるわ、あなた」
泣きじゃくり子供のように夫人の胸元に顔をうずめる副団長と、その頭を抱えて母親のように宥めかけるエリス夫人。
……そういうの、夜の寝室でやってもらえませんか?
●
「領城に登城している竜騎士の数をご存知ですか?」
話題を変えるつもりであろうか、エリス夫人の滔々とした弁舌が謁見の間に響いた。先ほどの睦まじい光景を衆人環視のもとに晒したせいか、心なしか頬が赤らんでいる。
「この急事に辺境伯の御ために働かんとする竜騎士の数です。……姫様、そしてアーデルハイトを除けば、その数わずか二人。それも一人はドラゴンが休眠期に入り、そしてもう一人は二年前に家督を継ぎ実績も縁故も薄い新参者。――とても戦力に数えられるものではありません」
残る竜騎士の数は四人。その全てが半島内の旧領にある屋敷に籠り、事態の趨勢を見守っているという。
「彼ら去就定かならぬ竜騎士たちは、この騒動の結末を自らの指標とするつもりでしょう。――すなわち、ベッケンバウアーの要求を呑めば辺境伯家の権威は地に堕ちます」
一度ごね得を許せば、あとは雪崩を打つように要求が加速する。やれ遊興の資金を寄越せだのドラゴンの餌代を寄越せだの王国と血縁を結びたいから仲介しろだの。思いつくままに列挙していけば際限がない。
いざとなれば蜂起する――そんな脅しを外交カードとして成立させてはならない。要は対テロの基本方針と同様である。
「売り込まれている、と考えるべきなのかね?」
「その通り。彼ら四人は、姫様から声がかかるのを今か今かと待っているのです。協力が欲しければ今後便宜を図れ、と」
だからこそ余計に頼れない。今後の憂いを考えるなら、彼らとの関係はこちらから要請するのでなくあちらから恭順する形でなければならない。
エリス夫人がアリシアに取り込むべき候補として第一に団長を挙げたのは、身内だからというのと更にそういう理由もあるのだろう。――竜騎士としがらみを持たず今回の決起に参加できない団長は、長年の譜代の彼らよりいっそアリシアと連携しやすかったのだ。
――はてさて、そうすると新たな問題が浮上してくる。
アリシア・ミューゼルは半島内の臣下のうち、新参の団長を真っ先に抱き込んだ。古参の彼らは当然それを快く思わないわけで。
下手をすると旗色を明らかにしていない彼ら四人の竜騎士がアリシアに反感を抱き、ベッケンバウアー側に合流する可能性すらある。
「……さぁて、どうするかねぇ?」
団長がぼやいた。だらりと肩掛けに身体を預け、思案げに眉根を寄せる。
「出来れば俺と姫様の件は伏せといて、秘密裏に根回ししてもらうか。今は一人でも味方が――」
「必要ありません」
ぶった切ったのはまたしてもエリス夫人だった。
「彼ら四人には姫様と傭兵卿の関係を開示したうえ、要請と恫喝をもって迫るのです。――すなわち、討伐かあるいは臣従か、と。拒めば『鋼角の鹿』を先陣に攻め込むと勧告なさいませ」
少女のような微笑みを浮かべつつも、その瞳は刃物のように鋭い光を浮かべていた。
「――いくら武力に優れようとも、このような時機に日和見を決め込む輩です。臣下としても群雄としても価値など皆無。いっそベッケンバウアーの方が気概がある分マシといえましょう。強大な敵よりも信用できぬ味方の方が危険であると、先の王国軍が証明しております。
ですので、ええ。この際です、いっそ一度に粛してしまうがよろしい」
一騎あれば戦局を変えるとまで称されるドラゴンナイトを、使い勝手が悪ければ無用の長物と彼女は断言する。
弧を描く口元はそのままに、夫人は懐から一通の書状を取り出した。
「……あぁ、ご安心を。始末がしやすいよう、いくつか駒を伏せてありますので」
……やだ、このひとこわい。




