分水嶺
「――まったく、骨の折れる」
聞こえよがしな溜息。やれやれと続きそうな面倒くさげな台詞。
大剣がぎちぎちと軋みを上げる。いくら押せどもびくともしない。
剣先は女の首に届かなかった。象牙色の刀身に大剣の切っ先を食い込ませ、牙刀は副長の剣を阻んでいる。
「割り切りが早いのはお前の美点だが、早過ぎるのもよりけりだ。危うく間に合わないところだったぞ」
「猟師……っ!」
――突如現れエリスとウェンターとの間に割って入った猟師が、大剣の一閃を二刀でもって受け止めていた。
「邪魔をするな、コーラル!」
ウェンターが唸るように怒鳴った。
「扇動の罪だ、処断しなければ示しがつかない!」
「それが自分の嫁に対する言葉かねぇ?」
煽るような口調。叩きつけられる副長の殺気を柳に風と受け流し、猟師は茫とした瞳で見つめ返す。
背後に守るエリスは、こうなることがわかっていたように身じろぎ一つしなかった。
「――コーラル殿、わざわざお越しいただき感謝いたします」
「感謝するくらいなら無用な挑発は控えて貰いたいものだ。この若造の性格はよく知っているだろう? 容赦などない。俺が間に合わなければ首が無くなっていたぞ」
「躊躇いなく私を処断して、そのくせ義理を果たしたあとは後悔に沈むのでしょうね。――――ええ、そこが素敵なの」
「あーそーかい」
顔を赤らめて頬に手を添えるエリスと、背中越しにそれを察してげんなりした表情で肩をすくめる猟師。ごっそーさん、と心にもないぼやきが漏れ出た。
和やかなやり取りは、赤の他人から見ればつい直前まで命のやり取りに発展していたなど信じられないほど。ゆえに、ウェンターの頭の中は混乱の極地へと放り込まれた。
「――退け、コーラル」
「それは断る。どいたら斬りかかるつもりだろう?」
「俺の妻だ! 表舞台からは身を引いて、二度と政治に関われる立場でもないのに団長を唆そうとした! 身内の罪は俺が雪がなければ……!」
「だからこそさせられない。老婆心から言ってやろう。――やめておけ、それ以上やれば傷跡が残る」
深々とした溜息。がき、と音を立てて牙刀がへし折れた。牙刀の切っ先が破片となって地面に落ち、支えを失った大剣も腕から垂れ下がる。
先ほどまで漲っていた殺気は、いくらか収まっていた。
男が言う。
「……まったくもって見てられん。お前は一体何を学んだんだ、ウェンター。言っただろう、入れ込むのも割り切るのも構わない、だが後悔だけはするなと」
「それは……」
「必要だから、敵だからと、刃の動くままに任せて心を置き去りにする。その先にあるのは重苦しいだけの人生だ。……お前のことだ、ここで彼女を斬ればリアルでも延々と気に病み続けるに違いない。二十代も始まったばかりで男やもめを決め込むつもりか」
「あら、それはそれで嬉しいかもしれませんね。愛されている証拠だもの」
「茶々を入れるくらいなら黙っててもらえませんかねぇ……?」
のほほんと口を挟むエリスに猟師が突っ込んだ。うんざりした口調に脱力した雰囲気、ともすればついその場の空気に流されて矛を収めてしまいそうになる。
だが――
「――――だめだ」
こればかりは見過ごせない。見逃せない。
彼女は一線を踏み越えた。踏み越えてしまった。
あの日、彼女とその息子の死を偽装したとき、交わした約束があった。
――二度と政治には関わらせない。戦にもはかりごとにも、断じて触れさせはしないと。
約定は破られた。公に出てはならない彼女は公然と身を曝し、あまつさえイアン・ハイドゥクに謀反を教唆しようとした。
どんな思惑があろうとも、その事実だけは変えられない。
「……だめだ、だめだ、だめだ……! けじめは、つけないと。どんな理由があろうと、どんなに些細なことでも、見過ごせない。他の誰でもなく、俺だけは……!」
かたかたと手元の剣が音を立てて震えた。関節が白くなるほど強く柄を握りしめる。噛みしめた唇から血が滲んだ。
視界が霞む。絵具をぶちまけたように不鮮明になる輪郭に、ぐらぐらと目が回りそうになる。過呼吸でも起こしたみたいに、いくら息を吸っても身体が落ち着いてくれない。
――怒りながら滂沱する。そんなウェンターの姿を、眼前の猟師は茫とした表情で見つめていた。
「……けじめけじめと、ヤクザかお前は。やはり何もわかっていない。――いいか、お前たちはそもそも、始める場所から間違えている」
何を言っているのだろう、この男は。
思いもよらぬ言葉を受け、思わずウェンターは目の前の男を凝視する。
気だるげな溜息ひとつ。端的に猟師は言った。
「聞くがいい、ウェンター。お前は一体どこの何様だ」
「俺は……」
「わかるか? 何様か、と訊いたぞ。この半島で、この城で、このハスカールで、お前は一体どんな立ち位置に立っている。
そう、お前は何をすることが許されているんだ? どんな権限があって無実の嫁を斬ろうとするんだ」
「無実?」
鸚鵡返しに繰りかえした言葉に、猟師はそうともと頷いた。
理解できない。この男は彼女が引き起こそうとした扇動を見ていたのではないのか。どうしてその口でエリスを無実だなどといえるのだ。
「そこだ。そこを間違えたぞ、若造」
猟師は言う。言い聞かせるように、諭すように。
「定まっていない、定まっていないんだ。夫人の行動がただの扇動で終わるのか、それとも団長を思っての諫言になるのか、まだ天秤は傾いていない。
彼女の罪を決めるのはお前か? ――違うだろう。そんな権限をお前は持たされていない。この場でそれを決めることができるのはたった一人だけだ」
振り仰ぐ。
転じた視線の先には議場の高座。
まるで王侯のように高座に鎮座する、ひとりの男。
「お前が決めろ、イアン・ハイドゥク。ここがお前の分岐となるぞ」
その言葉は、雷鳴のように広場に響いた。誰もが、剣を突きつけられたような感覚を覚えた。
一家臣として辺境伯家に甘んじるか、群雄として起つか、今ここで決めろと猟師は迫る。
「――――俺は」
座上の男はその言葉に、緩やかに瞳を閉じた。
スランプに突入しました。
パソコンの前に座ると、気が付くとキーボードに顔を押し付けて寝コケてる重篤な病です。
ログイン画面から次に進まず日付が変わるって一体……




