青年よ、大志を抱け
「――今、なんと言った?」
謁見の間にイアンの声が響いた。
『鋼角の鹿』を束ねる団長は高座に座り込み、広間にいるすべてを睥睨する位置にいる。傍らには愛用の鉄剣と真鍮色の円盾が立てかけられてあり、何かあってもすぐさま迎え撃てるように鍛錬も欠かしていない。
横に控えるのは副団長ウェンター、ハスカール執政クラウス・ドナート、執政補佐ゲイル。そしてこの十五年をイアンとともに戦い抜いた『はじまりの十人』たち。
彼らは自らを束ねる男の不穏な声に顔を強張らせ、それでも身動きせず脇に控えている。
――――否、例外があった。
「――――そん、な……」
副団長ウェンターだ。大剣を背中に担ぎ半島内で一、二を争う武勇を誇る藍色の髪の青年は、愕然とした表情で目の前の光景を視界に収めている。
寡黙な副団長にあるまじき醜態である。しかし周囲の人間がそれを咎める様子はない。咎められようはずがない。
なぜならば――
「もう一度聞くぞ」
イアンが再び問いかける。目の前の人物に、謁見の間の中央に跪き先の言葉を言い放った人物に。
「エリス夫人。貴女は今、俺に向けて何をしろと言った?」
「何度でも申しあげましょう」
ゆるゆると伏せた目を持ち上げた彼女の面立ちに迷う様子はない。
ウェンター副隊長と結ばれて一年にも満たない新婚の夫人は、物怖じする気配もなくイアンと視線を合わせ、
「割拠なさいませ、イアン閣下。恐らくこれが、あなたが飛躍する最後の機会です」
そんな台詞を口にした。
「――エリス、冗談は休み休み言ってくれ」
ウェンターが言った。信じられないものを見る目で自らの妻を見つめ、あまりの思いに手元は小刻みに震えていた。
……この数日、議題に上るのは常に、いかにして領都へ援軍を送るか、いかに外聞を損ねずにベッケンバウアーたちを鎮圧するかという点のみ。自らが兵を起こし独立するなど夢にも考えたことがない。
それが団長の意向であったし、副長自身それを念頭に頭を悩ませていた。
――思うところがあるとはいえ、いつまでも反目してはいられない。領都と交易都市、竜騎士と『鋼角の鹿』は融和を進めていかなければならなかった。
竜騎士の武力は侮れない。辺境伯の権威は無視できない。これからの立身出世を望むにあたって、彼らの存在は避けては通れない課題だ。たとえ反目の末排除することになろうと、そこから生まれる団長への悪評は致命的に過ぎる。
ゆえにこそ、かれらは今回半島で起きた内乱に手を打つことができず、手をこまねいて考えあぐねる羽目になった。
――そんな時である。唐突に現れ団長に面会を申し込んだエリス夫人が、こんな台詞を臆面もなく口にしたのは。
貴族らしい優美な、楚々とした佇まい。身に着ける衣装は清潔であるものの質素そのもの、しかし身に纏う雰囲気と指先にまで行き渡る気品に満ちた仕草が、まるで彼女を貴人のように彩っている。
……そんな様でありながら、どうして彼女がそんな台詞を口にするというのか。
「冗談ではありませんよ、あなた」
……どうして彼女は、こんな剣呑とした場にいながらうっすらと笑みすら浮かべて佇んでいられるというのか。
エリス夫人は言った。笑みを絶やさず、凛とした佇まいで団長を見つめ。
「辺境伯、もはや恃むに値しません。多くの竜騎士を失い、歩兵すら領の外へ置き去りにし、ベッケンバウアーの反乱に打つ手のない彼らに、この半島を治める器量など皆無といえましょう。ましてや芸術都市を占拠し今にも王都を脅かす魔王軍にどうやて抗しえましょうか。
今半島に必要なのは速やかに乱を鎮め軍を纏め上げ、外部の勢力と結んだうえで魔王に抗する、優れた武力統率力を持つ実力者です。残念ながら、歳若いアリシア・ミューゼルには経験も実力も欠けていると言わざるを得ません。そして彼女が統治者として成長するのを待ち呆ける余裕などあるはずもなし」
鈴を転がすような声色で彼女は語る。その場にいる誰もが思わず聞き耽るほどの流れるような弁舌だった。
「――であるならば、今現在この半島で、もっとも統一に近い位置にいるのはイアン・ハイドゥクその人だけ。……目の前に熟れきった果実が実ろうとしているのです、もぎ取ることにどうして良心の呵責を覚えることがありましょう」
「ふざけた戯言を抜かしやがるな、夫人」
イアンが言った。険しく目を細め眼前の夫人を敵を見る目付きで睨みつける。
「俺に主君殺しをやれって言うのか。虚仮にするのも大概にしやがれ」
「下剋上は戦国の華、何を賤しむことがありましょうか」
動じない。まるで堪えた様子がない。
殺気の入り混じった団長の視線を受けながら、妙齢の女は艶めかしい笑みすら浮かべて受け流す。
「窮地にあって失われない忠義は美徳といえますが、忠心と野心はまた別のもの。同じ心でも質の異なる代物を比べることなどできますまい。――機あらば起つ。それが乱世の気風でありましょう」
あぁ、そうでした、と女は独り言ち、
「――――そうであるからこそ、かつての我が夫も己が手を実の姪の血に染める覚悟を負ったのです」
「――――ッ!」
――ダン、と荒々しい破砕音が響いた。
床石を粉砕する勢いで踏み込んだ副団長が、目にも留まらぬ速さで背中の大剣を引き抜き自分の妻の首筋に突きつけたのだ。
「――エリス、いったい何を……!?」
「あらあなた、剣の冴えは相変わらずのようですね」
自らの伴侶に命の危険へ晒された夫人は、まるで何事も無いようにうっとりと微笑んだ。
「その打ち込みは見たことがありませんね、今度ルッツにも教えてやってくださいませ」
「エリス! 今の言葉はどういう意味だ……!?」
「どういう意味も。あなたもお察しのことでしょう?」
絶叫じみた詰問の声。声を震わせて糾弾する副長を前に、物怖じすることなく夫人は答える。
「我が姪より竜騎士位を簒奪せんがために企図された暗殺計画。私がそれに一切気付かないままだったとでも?」
「エリス」
「むしろこうはお考えにならなかったのですか? ――あの底の浅い男に、そんな大それた計画を成し遂げる器量が本当にあったのかと」
「エリス、やめろ!」
「あの夫を、陰から焚きつけた人間がいたとは思わなかったのですか?」
「エリス……ッ!」
血を吐くような声で副長が叫んだ。にじり寄る切っ先が夫人の首に食い込み、滲んだ血が玉のように膨らんで滴り落ちる。
「――イアン閣下、あえて申し上げます。この私が申し上げるのです。――――割拠なさいませ。
今やまさに千載一遇の絶好機。閣下が半島の主となる唯一の機会です。これを逃せば閣下の覇業は二十年は遅れましょう」
「…………」
「立身出世は閣下の悲願とお聞きします。ならばこれを逃す手などあり得ませぬ。この動乱を、飛躍の足掛かりとなさいませ。……それすらできないのであれば、閣下の目指す英雄の道など永劫歩めぬ夢想と諦めることです――――!」
「エリス――――ッ!」
叱咤するがごとき夫人の声。応えるように副長が吼えた。
衝撃すら放って振り上がる身の丈の大剣。激情を孕んだ男の一刀が、生まれて初めて愛した女の首筋に振り下ろされた。




