怒れる叛旗
芸術都市ハインツを巡る攻防は、ひとまずの収束を見た。結果は明白である。
王国は敗走した。ルフト王国国王は討死し、軍部を司るホートン将軍も既にこの世にない。芸術都市は灰燼と化し、魔族たちの勢力は内海の港町にまで伸長している。
これを防ぐ武力は王国にはなく、港町で辛うじて魔族がそこに留まっているのは、半島から出張って来た辺境伯弟オスヴァルト・ミューゼル率いる歩兵団と、同じく半島の交易都市ハスカールから出向いた猟師コーラルの奮闘によるものが大きい。
あるいは、不自然にも魔族軍の進行を滞らせた何者かの意思か。何にせよ、王国軍あるいは王都の人間にそれを推し量る術はなかった。
名実ともに、魔族軍の勝利である。
王国軍を壊滅せしめた魔王ウルリックは、何を思ったか全軍に引き上げを命じた。追撃にかかっていたガーゴイルや魔族たちを呼び戻したのである。その意図は不明であり、追い縋られていた王国軍はこれ幸いと王都への道を急いだ。
完膚なきまでに、王国は敗北した。
失われた二万近い将兵、稀代の魔法使い、そして国王。ルフト王国がこの戦いで喪ったものはあまりに大きい。ともすればこのまま迫りくる魔族たちに押し潰される未来すら現実になりかねないほど、王国はその武威を落としている。
敗走するロドリック王子にもやるべきことは多い。王都に引き上げたのち、急いで軍を再建しなければならない。退役し予備役に入っていた市民を再度編入させ、寡兵の対象年齢を引き下げて強引に人手を増やすことになる。無理矢理に形だけでも整え、訓練を施して、使い物になるのは……いつになるものか。
目測だけでも見当をつけてくれる将軍は死んだ。なにもかもが手さぐりで始めなければならないというのに、それを助けられる人間はあまりにも少ない。
何にせよ、王国軍は敗北したとはいえ王国自体が滅びたわけではない。ロドリック王子は健在であるし、挽回が不可能でない程度に王都は富と人に満ちている。ここから盛り返すことは困難とは言え不可能ではないだろう。
少なくとも王城には無傷の魔導兵団が残っている。これを用いれば王都と芸術都市を結ぶ大街道を封鎖し防戦に徹することは十分に可能だ。
――――だが、果たして。
あれほど反目したうえに、無様にも敗走してきたロドリック王子を何も言わず迎えるほど、あの宮廷魔術師筆頭は穏健な気質であったか。
●
「馬鹿な……」
王都の門が閉ざされていた。
十メートルを超えるレンガ造りの城壁が重々しく聳え立つ。南の海から海水を引き込んだ深い堀にはなみなみと水が湛えられ、朝靄に煙る空を照り返している。弓兵の籠る尖塔には物見の兵が付き、血と汗と泥に汚れた王子たちに不躾な視線を送っていた。
城門が閉ざされていた。
分厚く、重々しく、魔法による保護を何重にも施した第六紀の逸品。これを突破できた魔法使いはなく、破城鎚で打ちかかろうにも左右に控える尖塔から矢が浴びせられ近寄ることもままならない。
難攻不落、無敗の城壁。その堅牢さは呼び声高く、第六紀の大陸再統一の足掛かりとなったほど。いかに攻めようと落としようのない城砦を前に、対抗勢力は攻撃の無為さを思い知って傘下に降ったという。
――その城門が、閉ざされていた。
「……どういうことだ」
幸いなことにというべきか、跳ね橋はまだ架けられたままだった。
破ることは不可能ではない。責任者が何を考えているのかわからないが、跳ね橋さえ降りているのなら、今ある手勢でかかれば押し破ることも不可能ではない。
門の手前に、大勢の婦女子が並べられているのでなければ。
「どういうことなのだ、これは……!?」
母がいた。姉がいた。妹がいた。
今回の戦いで死んだ貴族に嫁いだ叔母がいた。文官として財務に携わっていた従兄弟がいた。つい先日に五歳になった姪がいた。
王族が、その縁者が、まるで晒し者のように城門の前に並ばされていた。繋がれてはいないものの、背後に立つ兵士たちに武器を突きつけられ、身動きもできずに怯えている。
なんだ、これは。
何が起きている。何をされている。
いったいこれは、誰の仕業――
「――――っ、マクスウェル! 姿を現せ、マクスウェル筆頭……ッ!」
決まっている、あの男だ。あの男以外に考えられない。
陰気で神経質な、何を考えているのか窺わせない不気味な魔法使い。最近になって派閥争いに嘴を突っ込んでくるようになった、身の程知らずの小才児。
「マクスウェル! 顔を見せろ!」
「――ここに」
果たして、筆頭は王子の前に姿を現した。城壁の上、矢をつがえ王子たちへと弓を向ける兵士の後ろから現れたマクスウェルは、怒気に顔を歪ませる王子を冷徹な表情で見下ろす。
「……先日ぶりであります、殿下。ご機嫌麗しく……は、ありませんな」
「貴様……!」
「あぁ、お待ちを」
いけしゃあしゃあと言葉を紡ぐ筆頭に王子が激昂する。今にも剣を引き抜こうとする男を手で制し、マクスウェルはあくまで無表情で語り掛けた。
その視線は――――王子を向いてはいない。
「――栄光ある王国近衛兵よ。この度の戦、実に大義であった。亡くなられた陛下並びに王都市民に代わり、心より礼を言わせてほしい」
傷ついた兵たちを、一人一人見定めるようにゆっくりと見渡していく。
まるで将のように、王のように。
「疲れただろう。身体が痛むだろう。諸君らの苦痛は理解している。一度任を降ろし、家族のもとでゆっくりと体を休めるといい。そのあいだの王都の守りは、我々が引き受けよう」
「何を勝手に――」
「諸君らの目の前には二つの道がある」
王子の怒号を遮り、筆頭が続けた。
「見てわかるように、私は王国へ反旗を翻すこととした。全てはそこの、暗愚なロドリック王子を見限ってのことである。王国内の派閥争いにかまけた上に、数々の失策で将兵の命を無為に散らせ、我が師父の命を費やしてなお素知らぬ顔で王都へ返り咲こうという厚顔無恥さ。王国存亡の機にあって到底看過できるものではない。少なくとも、その男は一国の舵取りを任せるには不足甚だしいと判断した」
クーデター。
王国軍が出払い、最低限の守りしか残らなかった王都を掌握し、マクスウェルは自ら起とうとしていた。
「軍部への根回しは終了している。王都に残留していた軍人の八割は私の計画に賛同し、残りは立場を退くか、西のゴダイヴァへと退去させた。……余計な膿を取り出さした我らは、結束も新たに魔王へと相対するだろう。
戦いは困難なものとなる。しかし、ここで退くわけにはいかない。我々の後ろには守るべき家族があり、それを支える生活がある。敗れるわけにはいかないのだ」
ゆえに起ったのだと筆頭は嘯く。ルフト王朝恃むに値せず、自らが起ってこそ、この王都が守れるのだと。
「――諸君らには二つの道がある。ひとつはそこに留まり、そこの無能な若造に付き従って無意味な忠義の死を遂げるか。もう一つはこちらに歩み寄り、諸君ら自身の家族を守るため我が戦列に加わるか。……すべては君たちの自由だ。いかなる選択も私は支持しよう。咎め立てはしない。君たちの家族にも類が及ぶことはないと約束する。
――しかし時間だけは与えられない。時間はないのだ。今すぐ、そこで決めたまえ」
「どの面を下げて抜かす、筆頭!」
「――――殿下」
声を張り上げた王子の背中に、静かな声が浴びせられた。
振り返る。背後にはここまで王子の身を守り続けてきた近衛中隊長の姿。ガーゴイルから逃げる戦いでは何度も背中を預けた頼もしい槍の使い手である。
中隊長の顔は、恐ろしいほどの無表情で塗り固められていた。
「……オーサー閣下からの命令では、殿下を王都へ無事にお送りせよとのことでした。ここは王都、もはや魔族の追撃も届かないでしょう。……私の任務は、これで完了です」
「なに、を――」
引き留める声は届かない。
王子から視線を切った中隊長は、背後の兵へ野太い声を張り上げた。
「もはや義理は果たした! これより、私は近衛を離反する! 筆頭とともに家族を守るのだ! ……どうせ担ぐなら、頭のまともな神輿を担ぎたい」
吐き捨てた言葉に万感の思いを乗せて、中隊長は王子の元から去って行く。跳ね橋を横切り、並ばされた王族を手で掻き分け、城門のすぐ手前で振り返ると挑むような目つきでこちらを睨み、門に背中を預ける。
それが切っ掛けだった。
「――――」
「……殿下」
「……失礼いたします、殿下」
「これにて、御免」
「申し訳ありません、娘が待っているのです」
「お達者で……」
去って行く。
次々と、王子の誇る精鋭の近衛が、櫛の歯が欠けるように抜け出していく。
苦渋の表情を浮かべるもの、せいせいした顔で走り去る者、小馬鹿にした顔で首を振る者。次々と王国兵が離反していく。
残ったのは、たったの百人足らずだった。
「マクスウェル……」
「殿下におかれましては、ゴダイヴァへと退去して頂く。その旨はファリオン騎士団にも通達の伝令を走らせているところです。生活に不便は無いよう、可能な限り取り計らいます」
「マクスウェル……」
「本来ならば、殿下から軍政両面の権限を取り除いたうえで、王国に君臨のみしていただくつもりでした。しかし、あなたは傀儡の身に甘んじることを良しとしないでしょう。ゆえに除くこととした、それだけです」
「マクスウェル……ッ!」
吼えるような叫び声に、しかし筆頭の表情は動かない。
「これが私の、最後の忠義です。今ここで討ち取られる前に立ち去り下さい、殿下」
「どの口が――ッ!」
「人質は取りません。王族の方々は全て身柄を殿下に引き渡します。西の国境まで、我が軍は誰もあなた方に手出し致しません。――――これが最後だ、失せろ、小僧」
「――――――っ」
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ディール暦716年2月。
突如起きた政変により、ルフト王国正統後継者ロドリックが王都より追放。政権を宮廷魔術師筆頭マクスウェルが奪取した。
ロドリック王子は王都より街道を西に進み、ゴダイヴァにてファリオン騎士団の親王国派と合流。再び王都へ返り咲かんと再起を期すことになる。なお、王都で行われる予定であった戴冠は見送られ、王都を奪還してのちに行われると――




