オスヴァルトという男
オスヴァルト・ミューゼル。辺境伯ジークヴァルト・ミューゼルの弟として生を受け、兄を補佐する者として生きてきた彼には、辺境伯家の総領として家を継ぐ権利は有していなかった。
コロンビア半島は竜騎士の統べる土地――そんな慣習が、ドラゴンに見初められることなく成長していくオスヴァルトを認めなかったのである。
現に、次期辺境伯として今もなおジリアンに待機するアリシア・ミューゼルは、初代辺境伯と契約した伝説に名高い赤竜ラースの加護を受けている。資質だけならばアーデルハイト・ロイターをも上回るとされる彼女ならと、他の竜騎士たちからの評価も高い。
対して、オスヴァルトはどうであったか。
元から家を継ぐ可能性など無きに等しく、しかし万が一を考えて家を出ることもできない。ただ兄の添え物として、辛うじて日陰者の歩兵を率いることを許された凡庸な弟。
生まれながらに日陰者の烙印を押されたオスヴァルトだが、彼自身はそれを苦に思うことはなかった。むしろ竜騎士という地位に呆気ないほどの無関心さを示し、本人も納得ずくで兄の補佐に専念してきた。
半島の人間ならば、貴族なら誰もが憧れるドラゴンナイト。その地位を常に目の当たりにしながらも、嫉妬も執着も見せることなく歩兵たちの統率を買って出た。その理由は、彼自身が持つささやかな――本人からすれば重大な――気質に起因していた。
高所恐怖症である。
いつからそうであったかは定かではない。少なくとも物心つくころには高い所が苦手だった。今は妻となっている乳兄妹の母親の言によると、幼い頃に領城のドラゴン発着場より落ちかけたことがあり、それ以来のことであるという。
彼女の言葉の成否は定かではないが、オスヴァルト自身齢が十を超えたあたりから発着場には頑として近づかなくなっていた。後悔はない。
――さて、そんなオスヴァルト・ミューゼルだからこそ、兄の治世には不満なく過ごしていた。中世封建制の世界観でのこの関係は、とても珍しいものといえる。
……馬鹿と煙は何とやら、高い所に飛びたがる人間は勝手に行かせればいい。物理的にも、権力的にも。
権勢を誇り、富貴に溺れるのはさぞ気持ちがいいのだろう。憧れがないと言えば嘘になる。――しかし、それと引き換えに落下死の恐怖と戦うのは割に合わない。
ほどほどの権力、ほどほどの財、ほどほどの武力にほどほどの高さ。……何事にも適度適正適当という加減は存在していて、低い所からしか見えない景色も素晴らしい。そして竜騎士という色々とぶっちぎれた連中とオスヴァルトは人種が違った。ただそれだけの話だ。
かくしてオスヴァルト・ミューゼルは野心薄く、兄の補佐として謹厳に勤め続けた。辺境伯の弟という身分ゆえに他人から軽んじられることもなく、献身的な親族衆としてジークヴァルトの傍らにあった。
これまでも、そしてこれからも、それが続くと思っていた。
――――だが、今はどうすればいいのだろうか。
辺境伯は死んだ。半島の頼みの綱だった竜騎士も大半が討たれたという。敵の魔王とやらは健在で、大鎌のひと振りで四千の軍勢を即死させる強大さ。
何に頼ればいい、何をもって抗えばいい。それとも自らを恃みに一から起てとでもいうのか。
何を守り、何を見捨て、何に命を捧げればいい。どうすれば兄の仇を討てるのだろうか。
岐路に立たされている。引き返しのできない、大きな岐路に。
●
軍勢が近付いている。
大半がガーゴイルで構成された軍だ。だいたいの目算と巻き上がる土煙からして、恐らく五百は下るまい。
追撃のために魔族が放った追手だろう。王都へ敗走した近衛軍でなく弱兵で知られるこちら側に攻めよて来たのは、単にそちらの方が降しやすいと判断してのことなのか。
どう考えても、不愉快な方向へと思考が向きそうになる。相手の事情など考えても無駄なだけだ。
オスヴァルトは軽く息を吐いて気を取り直し、背後を振り返った。
――王国軍と負けず劣らずの敗残の軍がそこにいる。
逃げ延びるロドリック王子を救うために、士気だけは有り余るとはいえ練度の伴わない兵で突撃したのだ。被害が甚大に出ることなど予想はしていた。
少なくとも、討ち果たしたガーゴイル700に見合うだけの兵は失った。怪我人はその倍はいて、まともに戦えるのは千が精々。立派な壊滅である。
これが王国軍なら退路上に置いた拠点にいる回復魔法の使い手により、何割かは戦線復帰可能なほどに回復できるのだろうが、生憎と半島に魔法の使い手は希少極まる。少なくとも領城に逃げ帰るまでは応急処置に留めるしかないのが現状だ。
――そう、逃げることはできる。
重傷者を見捨て、走れるものだけでこの場から逃げ出せば、少なくともあの五百のガーゴイルから逃れることはできる。
常ならば考えもできない選択肢である。この冬場、いつもなら兵一人一人が背中に負っているはずの防寒具。それがアミュレット一つに抑えられるだけで、これほどまでに身体が軽い。
今ならば逃げられる。無用な損害は抑え、一旦引いてハスカールたちを率い、再度挑めばいい。それが常識というものだ。
だが――
「閣下、いかがなさいます」
「いかが? いかがだと? 何をどうしろと言いたい?」
副官の問いかけに、オスヴァルトは苛立ち紛れに応えた。予想外の剣幕にやや尻込みした副官が続ける。
「撤退の合図です。早くしなければ敵が――」
「撤退、撤退か。――――それは、ない」
副官の息を呑み込む音。険しくなった視線が突き刺さるのを感じる。
それでも、オスヴァルトに撤退の意思はない。
「撤退はない。守るか、死ぬか、二つに一つ以外に選択肢はない」
「閣下――」
「後ろを見てみろ」
――背後に伸びる、東へと続く街道。北側を内海に接し、半島へと続く道。
その先には、建設のさなかにある港町が存在している。
「……まだ名前も決まっていない街だ。拡張の途上にあり、城壁すら満足に備えていない。攻められれば跡形もないだろう」
「しかし――」
「わからないか、あそこには難民がいるのだぞ……!」
あの港町には、芸術都市から逃れて来た民衆が八千もいる。碌に寝具も持てず寒さに凍えながら、我が家に帰れることを信じて待ちかねている。
自分たちが退けば港町が攻められ、人口一万に届こうかという民衆が殺される。そうオスヴァルトは主張した。
「いいか、これは良心ではない。正義の心ではない。政治の話だ。……兄の亡い今、私が政治を鑑みて軍を動かす。その結論として、あの港町は守りきらなければならないと言っているのだ」
あの港町にいる人間が、今後を左右する。そんな直感がオスヴァルトにはある。野生のそれではなく、政治家としての直感だ。
人口一万の町――それが逃散するでもなく魔族の手に任せて虐殺されでもすれば、その損害はいかほどのものか。それだけの人数が新たに生まれ育つのにどれだけの費用と期間がかかるか。
これまで港町に投資してきた兄の遺志を継ぐという思いもある。しかし、それ以上に――
「……見捨てられるか。見捨てられるものか! 兄は死に際すら立ち会えず、あのクソ王子のために殿軍まで務めてやった。その末におめおめと逃げ帰れと!? 汚ねぇケツを、見捨てた一万に晒しながら、それで帰れるというのか!? くたばってしまえ、そんな屑は!
断じて許さん、断じて認めん! 負けたままでいられるか……ッ!」
乱れた言葉は、誰に影響を受けたのか。
結局どんなに繕おうとも、これはただの意地でしかない。世間体があるから、政治的に重要だから、そんな理屈をこねてはいるものの、つまるところ――――いい加減、堪忍袋の緒を切ってもいい頃合いだと心のどこかが叫んでいる。
見捨てられない。逃げられない。ならば戦う以外にない。そしてその戦う理由に足るものが背後にあるなら、それは男の死に時ではないかと思ってしまう。
――なんという愚かさか。無駄に騒がしいハスカールどもの気性がうつってしまったのではないか。
……仕方がないと思う。義息子の持つあの熱は、きっと男なら誰もが憧れるものだと思うから。
「――死んでもらうぞ、戦士たち。これは王のためではない、我々自身のための戦いだ。竜騎士なくとも我らありと、存分に知らしめよ――――ッ!」




