まずは一手
芸術都市に動きは無い。王国が大軍を持って南方から迫っているというのに、住民のいなくなったハインツは不気味なまでに沈黙を保っている。ガーゴイルの大軍も、それを率いている魔族の姿も城壁の上にすら見られず、実はとうの昔にハインツを放棄しもぬけの空だといわれても信じてしまいそうだった。
意気も露わにハインツに出撃した兵たちも、これには拍子抜けを隠しきれないほどだった。陣を敷き芸術都市へいくら警戒の目を向けようとも動きはなく、それを警戒したのか王国軍側も出撃の命令は出ずにいる。末端の兵には緊張感を保てないものも現れ始めていた。
……恐らく魔族もこの大軍相手に恐れをなし、攻めあぐねているのだろう。直接の戦闘はほとんどなく、包囲戦が主になるに違いない。
そんな下馬評が広がるのも無理はない。朝から晩まで臨戦態勢を維持できる人間の方が異常なのだ。先の見えない現状維持に、根拠のない楽観論が広がるのは時間の問題だった。
無論、指揮官たちもそう言った空気を歓迎したわけではない。適度な休憩と士気の意地を図るため、ローテーションを組んだ上で兵たちを休ませていた。
――そしてその事件が起こったのは、雪のちらつく正午が回った頃のことだった。
「――ノックス中隊長」
警戒を解き、休憩を命じられた部隊である。昼食を済ませた兵たちは思い思いに焚火の前でくつろぎ、要領のいい者が持ち込んだサイコロで博打に興じる者もいる。中には昨年生まれた子供の自慢で仲間から不興を買う父親の姿もあった。
当分出撃は無いと聞いている。ノックス中隊長もこれを機に、朝から妙に着心地の悪い鎖帷子を脱いで点検に勤しんでいた。
そんな時のことだ。不意に現れた直接の上司である大隊長に声をかけられ、ノックス中隊長は慌てて居住まいを正した。
「……これは、大隊長殿。このような格好で申し訳ありません」
「構わん。急に来たのは俺の方だ。――あぁ、そう改まることもない」
「いえ、そういうわけには」
直立不動の体を取る中隊長に大隊長は鷹揚に手を振り歩み寄った。とはいえ、入隊の頃より世話になった上司にだらけた姿は見せられない。あくまで硬い態度を崩さない中隊長に大隊長は苦笑を深めた。
「――それで、御用向きはどのような?」
「いやなに、大したことではないのだ。ちょうど貴様の隊が休憩に入ったと聞いてな、いい機会だからと顔を出したのだ。」
そう言って大隊長は気安げに中隊長の肩を叩いた。篭手をつけた手がごつごつとした感触を伝えてくる。
「……ふむ、装備の補修か。精が出るな、ノックス」
「はぁ……いえ、今朝急に不調が出まして。見苦しいさまをお見せします」
「いや、構わんさ。不具合というものは常に意図せぬ時にやってくるものだ」
それに、と大隊長は軽く口元を歪め、
「――俺も、そちらの方が都合がいい」
何気ない仕草。まるで親しい友人の胸を小突くような自然さで、手元で引き抜いた短剣を一閃した。
「ぐ、ぶ……!?」
喉に走る熱い感触。数瞬で明度を失っていく視界。
何が起きたのか。何をされたのか。何故、どうして。
訳も分からないままノックスは反射的に切り裂かれた喉を抑えようと手を動かし、
「……あぁ、存外しぶとい。済まないな、苦しませる気はなかったんだ」
駄目押しに胸に突き立てられる短剣。疑問を解消する余地も断末魔を上げる暇もなく、ノックス中隊長は絶命した。
●
「――誰か! 誰かあるか!?」
ノックスが率いていた中隊の陣営に大隊長の怒号が響く。雷鳴のごとく怒気を含んだその大喝に、休憩中だった中隊員が次々と姿を現した。
そこに血まみれで倒れる中隊長と短剣を持ったまま佇む大隊長を見て取り、駆けつけた面々が絶句する。
「か――大隊長閣下!? これは一体……!?」
「見てみよ」
驚愕と疑心の入り混じった視線を受けながら、大隊長は落ち着き払った物腰で中隊長の亡骸の前に膝をついた。鮮血で真っ赤に染まった胸元を無造作に探り、懐からひと振りの短剣を抜き取る。
慎重な手つきで鞘から引き抜いた刀身は、不自然な黒い錆が浮いていた。
「……毒塗りの短剣。普段帯びるものとは別に、わざわざもう一本忍ばせていたか。――何を企んでいた、ノックス」
「ば、馬鹿な……!?」
「そんな、中隊長が!?」
沈痛な顔つきで目を伏せる大隊長。事態を呑み込めずにいた配下たちも、これを見て流石にただ事ではないと騒ぎ出す。
「毒塗りの短剣って……まさか、暗殺教団か!?」
「馬鹿を言うな! 中隊長の人柄は知っているだろう!? それにあの教団は壊滅したはず」
「そうだ! それに中隊長は法衣貴族の出だぞ! 教団との関わりなど――」
「壊滅したとはいえ人員が全員死んだわけではない。残党から短剣を入手したという可能性も――」
「貴様! 中隊長を疑う気か!?」
「静まれい――――ッ!」
落ち着きを失う面々に、再び大隊長の大喝が響く。
「……俺はこの件をホートン将軍閣下に伝える。貴様らは他の陣営を回って注意を促せ! 考えたくない可能性だが、ノックス以外にもこの企みに乗るものがいるかもしれん」
「そんな――」
「これは命令だ! 早く指揮系統を整理したうえで、そののち全員の所持品を検めよ。全員、全員だ。例外は無い!」
「は……はっ!」
慌ただしく駆け出すノックスの部下たち。繰り上がる形で臨時に彼らを纏める男は大隊長に軽く一礼し、殺気立った様子で部下と今後のことを協議していった。
一気に喧騒を増していく陣営。彼らにその場を去る大隊長を注意深く観察する余裕など失われていた。
「――――くっ」
踵を返す。歩きながら、ノックス中隊長から抜き取った毒の短剣をおもむろに懐から出した手拭いで包み、懐に飲ませる。
ごつごつとした掌で覆った口元には、堪え切れない笑みが浮かんでいた。
●
――その後、王国軍一万五千の陣営の各地で、同様に毒短剣を所持した近衛兵が検挙、あるいは抵抗の末討伐された。
どれもが中隊長以上とそれなり以上の役職に就く者ばかり。動機も一切が不明であり、捕縛された下手人も尋問の前に隠し持っていた毒を飲み自殺を図る始末。真相を知る術は何も残らなかった。
模範的な部下に慕われる前線指揮官。良心的な精鋭の兵士。
犯人の誰もがそのように評価される人間ばかり。直前までそのような素振りは一切見せなかったというのに。
――もはや隣に並び背中を預ける仲間ですら、いつ自分に剣を向けてくるのかわからない。
同時多発的に起きたこの事件は指揮系統の混乱を呼び、その異様さから兵たちの間に疑心暗鬼を生むことになる。




