緑影、走る
「なんだ、アレは……!」
トントンに促されて振り向いたビネガーが目にした光景は、いっそう意外なものだった。
密林より沼地にかけての北部戦線。奪われれば森に火をかけられエルフは地の利を失い、それを恐れるがために鎮火用の水魔法を習得した人材が前線に配置されている。無論ビネガーもその一人だ。
それを理解しているリザードマンたちも必ずまとまった数を用意して森に攻め入ってくる。最低でも十人規模でエルフを押し込み、その隙に森の一部に放火してエルフの防御陣を奪うのである。
ゴリ押しじみた脳筋戦法。湿度の高い密林で生木が容易く燃えるはずもなく、蜥蜴の戦術はその大半がエルフの放水に阻まれてきた。
ゆえに――――今この現在、この大雨が降りしきり火をつける余地など欠片もない状況で、彼らが攻め入ってくるなど考えられなかった。
――だというのに、
「トントン、敵はどこだ!?」
「目の前にいるだろ」
「そっちは見えてる、後続の仲間は!?」
「いないねぇ。やっこさん、ボッチで攻めてきやがったぞ」
敵影、まさかの単騎。
有り得ない事実に思わず唖然とする。一体何をとち狂ってそんなことが。
――視線の先、密林と沼地の境目を踏み越えて、一体のリザードマンが疾駆していた。
大柄な体躯の個体だ。煌めく緑の鱗は雨に打たれますます艶を増したように光を放つ。基本全裸が多いリザードマンにしては珍しく身体に灰色のマントを羽織り、布の隙間から覗く腰の剣は拵えからして上等な物。
這うような低い体勢で、それでも力強く木の根の入り組んだ森の地面を踏みつけて走る。地形特性などあってないようなものと言わんばかりの猛烈な脚力。あれでは二十秒もせずにビネガーたちの持ち場を通過してしまう。
――――防がなければ。
我に返ったビネガーは慌ててインベントリから自分の弓を取り出した。
「トントン! やれるか!?」
「いつもの奴かい?」
「俺が牽制お前が本命、ちゃんと合わせろ!」
「あいよぅ」
間延びした返答を返してトントンは足場にしていた枝の上から跳躍し、ビネガーからやや離れた樹上に飛び移る。
スタン、と着地した枝の揺れが収まる頃には、既にトントンは自らの弓に矢をつがえていた。
「始めるぞ……!」
矢筒から引き抜いた二本の矢。一本を手挟み一本をつがえる。ひと息に引き絞り撃ち放った。息を継がせる暇もなく立て続け二連射。
狙いを定めることはできない。入り組んだ森の地形、蜥蜴の姿は木々に阻まれ正確に捉えることは不可能だ。通常ならただ矢を放つだけでは当たるどころが届かせることすら困難である。
――しかしここはエルフの森、エルフの弓兵。
地を這う根の角度、木のうろの向きまで知悉し尽したホームグラウンドにして、ビネガーたちは風魔法に特化した弓の種族。
たかだか捉えられない程度の難事ごとき、彼らの障害にはなりえない。
時に蛇行し、あるいは弧を描き、木々の影を縫うように飛翔する二本の矢。風の加護を得た矢は勢い衰えさせることなく蜥蜴のもとへ殺到し、異なる角度から襲いかかる。
「トントン……ッ!」
――仕留めた。そう確信する。
視界の隅で相方が長弓を引き放つさまが見えた。……魔法に寄りがちなビネガーと異なり、トントンは強弓を得手とする特異なエルフだ。リザードマンの鱗程度なら易々と貫通する弾速はこれまで数々の戦果を挙げてきた。
――――カンッ、と。
甲高い弓鳴りの音が遅れて耳に届いた。
射線は通っている。直線を撃ち抜く軌道は過つことなく眉間狙い。音速にも届こうかという強弓は、弧を描くビネガーの二矢と着弾をほぼ同時にし、
「――――――ッ!」
刹那、蜥蜴が牙を剥いた。
抜き放った腰の曲刀、腰だめに構え足を踏みしめる。
バシン、と緑の鱗に覆われた尻尾が地面を叩く。遠く離れた樹上にいるのこちらにまで響く激震、近くにあれば地揺れすら生じただろう。震脚じみた尾の一閃――――それを、反動としたのか。
「ゲ、ェエァアアアアア……ッ!」
――――ギン、と。
これは鋼と鋼が撃ち合う音か。耳鳴りすらもたらす激烈な衝撃音が辺りに響く。
豪速をもって逆袈裟に切り上げた翡翠色の刀身が、トントンの放った矢を正確に斬り落とした。
「な――――!?」
絶句する。一体どんな動体視力をしているのかと、思わず思考が真っ白になった。
蜥蜴が斬り払った矢はその一矢のみ。ビネガーの矢は二本とも意にも介されず易々と鱗に阻まれ地に落ちた。
……有り得ない。
ビネガーの二矢を追い越す形で襲い掛かった止めの一矢、通常なら先に放った二矢の対処をまず考える。その隙をつくためのトントン、そしてビネガーの陽動だった。
だというのにこれはなんだ。あの蜥蜴は視界のギリギリから襲来するすべての矢から、その威力を見切ったというのか。
「ビネガァアアアア!」
「――――っ」
絶叫じみたトントンの大喝。我に返ったビネガーが振り向くと、空中に身を躍らせた相方が更なる矢を放つ場面が見えた。
「増援を呼べ! 時間は稼ぐ、早くっ!」
「わかった――――ッ!」
インベントリを展開し、雁股の矢を取り出す。早く早くと急かす焦燥感を抑え込み、味方本隊のいる方向へと引き放った。
ビョウ、と異質な音が森林に響き渡る。風を引き裂き森を突き破った鏑矢は、騒音を撒き散らしながら西の彼方へと飛翔する。
……間に合えば――いや、間に合う。間に合うはずだ。
「おぉぉおおおおおおっ!」
トントンの雄叫び。その腹の突き出た体格からは信じられないような動きで木々の枝の上を跳び回り、矢継ぎ早に蜥蜴へと矢を射かける。
「――――――!」
耳をつんざく咆哮。もはや形容すら為せぬ音量が枝葉を揺らす。
着衣のリザードマンは足を止めなかった。灰色のマントを翻し、迫りくる矢をある時は左手の曲刀で弾きある時は身を躱し、ある時は爪の伸びた右手で払い落としてなお歩を進める。
……効いてない。完全に見切られている。技量値に劣るリザードマンにあるまじき矢落としの絶技。一矢たりとも届かない。エルフとて不可能な剣の冴えに身が凍る思いだった。
そして――
「トントン――――!?」
「ォォォオオオオオオオオオッ!」
ひときわ轟く咆哮。身を捩じった蜥蜴の戦士が、まるで野球の打者のように横薙ぎに曲刀を振るう。狙いは大の大人の胴三人分はあろうかという巨木。刃渡りからして届かないはずの一閃は――――いったいどんな絡繰りか、一撃をもって幹を両断した。
その木の枝の上には、ぐらりと体勢を崩したエルフの姿があった。
「くそ……!」
倒れ込む木から逃れようと必死の形相で枝を蹴るトントン。地面に落ちれば蜥蜴の餌食だ。あんな怪力、たかだか力自慢のエルフ程度に抑え込めるはずがない。
飛び立った先には細い木がある。戦いの場にするには心許ないが、他の木へ飛び移る足場にするには丁度いい。トントンは迫りくる枝に向けて着地態勢を整えようと――
「ガァ――――!」
「な……!?」
翻る灰の外套。踏み締めた地面は陥没し、衝撃で落ち葉が四方に吹き飛んだ。
頭の横に構えた緑の刀身は、まるで日本の示現流のようで――
「ァ――――――」
跳躍。
周囲に土を撒き散らして射出された緑の巨体。
僅か一瞬にして宙に躍るトントンの身体へと肉薄し。
――――その体を、一刀をもって斬り捨てた。
「トントン……ッ!?」
一瞥して理解できる。あれは致命傷だ。
袈裟に切り捨てられた身体。右脇に通った傷は背中まで裂かれ、中からはらわたが零れ出ている。力なく宙を舞うトントンは、がぼ、と血の塊を吐いて、
「――――そ、そんなー!?」
「この馬鹿! 狙ってやがったな!?」
断末魔までネタに走るとか馬鹿じゃないのか。リアルに戻ったらとっちめてやる。
顔文字でもつきそうな口調の悲鳴を上げ、トントンは今度こそ絶命して地に落ちる。その姿を脱力した気分で眺めつつ、ビネガーは目の前の危機へ戦意を昂らせた。
「静謐の光芒よ――――」
近接は論外、一合も持たずに両断される。しかしビネガーの弓ではあの蜥蜴の鱗を貫けない。――――だが、エルフの武器は剣と弓に限らない。
循環した魔力を左手に集め、属性を変換させる。指先がびりびりと痺れ、針で刺されたような痛みを訴えた。亜熱帯の湿気が凍り付き、霜となって纏わりつく。
敵が振り返った。四肢を使って大胆に着地し、獣のような動きでこちらを睨みつけてくる。左手にはいまだ血の滴る緑の曲刀。両腕をたわめ、再度の跳躍でこちらに迫ろうというのか。
……上等だ。やってみやがれ。
「喰らえ――――ッ!」
突き出した左腕から冷気が迸る。収束した水属性の魔力は一本の氷柱へと姿を変え、着衣のリザードマンへと飛翔した。
――蜥蜴の苦手とする水属性魔法、おまけに冷気を帯びる氷の塊だ。どんなに頑丈な蜥蜴相手で、たとえ殺しきれなくとも動きは鈍る。その隙に距離を離して逃げ回ってやる。
これで本隊が到着するまでの時間は――
有り得ないものを見た。
蜥蜴の右腕。曲刀を持っていない徒手の手。
毒の爪さえ気をつけていればいい、遠距離主体のエルフに対しては役にも立たない右腕に。
――――どうして、赤い炎が揺らめいているのか。
「ば――――!?」
「ガァアアアアアアア……!」
爆発が起きた。
視界が真っ白に埋め尽くされる。爆風がビネガーの身体を猛烈な勢いで叩き伏せ、身を潜めていた枝の上から突き落とされる。
「げっ、う……」
背中から落ちても無傷だったのは鍛え上げた軽業スキルの恩恵だろう。それでも肺の中身を押し出され、みっともなく咳き込んだ。
呼吸のたびに火傷しそうなほど熱い湿気が喉の奥に入り込む。あまりの不快感に思わずむせ返り――それが今の爆発で生じた湯気であることに気付いた。
水蒸気爆発。
今の爆発が?
水はわかる。今まさに自分が撃ち出した氷柱だ。
――だが、火はどこから?
まさか――――まさか、まさかまさか。
有り得ない想定に背筋が凍る。
馬鹿げた空想だと笑い飛ばしたいのに、今なお周囲に充満する熱気と湯気がそれを否定する。
この有様は、つまり、あの蜥蜴は――――
「――――――」
「……は……」
ざり、と地を削る音。
身を起こしたビネガーの目の前に、緑色の鱗に覆われた野太い脚が突き立った。
振り仰げば、翡翠色の曲刀を携えたリザードマンが、無言でこちらを見下ろしていた。
こちらに向けて差し出した左手には、赤々と燃え盛る火球が轟々と音を立てて浮かび――
「あぁ――――畜生め」
俺も、断末魔のひとつでも考えておけばよかった、と。
どこか場違いな感想を胸に、ビネガーは目を閉ざした。
●
パルス大森林北東部前線が、一体のリザードマンの手によって陥落し火を放たれた。
大雨という気候にもかかわらず燃え広がった山火事は周囲一帯にまで広がり、エルフの生息域をさらに狭めることになる。
――――本来適性からして有り得ない、火炎魔法を操るリザードマン。その存在が公になり、エルフの長老たちが対応に追われるようになるのは、その頃からである。




