ハインツ防衛戦④
「敵はどこ!?」
「あれを――」
駆けつけるや怒鳴るように発したエルモの問いに、上階を受け持つ分隊長の一人が眼下を指差して見せた。身を乗り出すようにして下を見下ろすと、
「吸血鬼……っ!」
一体の吸血鬼が塔の壁に四肢をつけ、手がかりもないというのに這うようによじ登ってくるところが見えた。垂直を登りながらまるで平面の床を這うような動きは、まるで往年のアメコミ映画で見た蜘蛛男のようだった。
この尖塔に武者返しは設けていない。オーバーハングすらない旧式の築城方式、これもこの都市が古都と呼ばれる所以か。こうなってはあの吸血鬼が最上にまで辿り着くのは時間の問題だ。
「この……」
……やはり狙われたか。
予想していたとはいえ舌打ちは押さえきれない。
西城門を臨む南北の二つの尖塔、そのうち北側からの射撃が段違いに強力なクロスボウによるものであれば、敵の指揮官がここを狙って襲撃をかけようとするのは当然のことだった。
下階の狭間は頭を突き出せる程度の広さしかなく、真下への射撃は構造上不可能になる。よって対処できるのは上階屋上のこの持ち場のみ。
それでもやはりあれに当てるには特殊な射方をするほかなく。
……嫌だなぁ、修験道とか男のやる宗教じゃないのか。『西の覗き』なんて自殺体験は役行者にでもやらせればいいのに。
思わず込み上げてきた恐怖心を振り払い、エルモは気合を入れるために声を張った。
「迎撃するわ、ベルトを持って!」
猟兵の一人に腰のベルトを掴ませ命綱代わりにし、彼女は城壁から身を乗り出す。――そう、文字通り身を乗り出した。
前方に向けて重力が働いているのがよくわかる。支えになっているのは必死でベルトを引っ張る部下の手と城壁に接した二つの足裏だけ。ちょっと足を滑らせたらそれだけで宙づりになり、部下は支えきれずに手を放す。落下死体の出来上がりだ。
――その代わり、城壁の光景はよく見えた。
上階に向けて這い上がろうとする吸血鬼。彼女の行動が予想外だったのか、動きを止めてこちらを眺めている。
「……は、ぁ――――」
息を吸う。肺から肚に冬の冷たい空気を送り込み、強引に震えを押し込める。……大丈夫、これはただの武者震い。怖くない怖くない。ほーらもう大丈夫――
「――――な、ワケがあるかぁあああぁぁぁあああああッ!」
怖いもんは怖い。気合を入れたところで誤魔化せるはずがない。落ちる落ちる落ちる怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!
喚き声を上げながら怒涛のごとく連射を開始する。ものの三秒で矢筒を一つ使い切り、腰の矢筒に手を這わせ……ない? 無い!? そういえば重力のせいで前の方に垂れ下がってるんだった。改めて手探りで矢筒のありかをまさぐって矢を引き抜き連射を再開する。
「ひ、ヒヒィャ……!」
それは、嘲りの声だったのか。
連射を受けた吸血鬼は奇声を上げながら回避してのけた。重力などないかのように片腕だけで身体を支え身を翻し、かと思えば足裏を壁に張り付けたままブリッジして矢をやり過ごす。そうして回避し続ける姿はまさしく昔見たハリウッド映画の蜘蛛男そのままで、実際にあんなのが存在すると気色悪いこと限りないということがありありとわかった。
「舐めんな……ッ」
俊敏に矢を躱しながら壁を登攀し続ける吸血鬼。しかしエルモの眼はそれの弱点らしきものを捉えていた。
――あの吸血鬼、まるで自在に空を浮かぶような機動を見せる。壁に向けて垂直に逆立ちした時は軽く殺意が沸いた。しかしその実、身体のどこか一部は必ず壁に触れている。つまり一点だけでも身体を支える箇所がどうしても必要と見た。
弓を引き絞る。
――敵が走る。
これのために左腰の矢筒から引き抜いたのは銀メッキの雁股の矢。
――既に吸血鬼は八割がた登り終えている。あと数歩も駆ければ下階の矢狭間に手が届く。
狙いは一点。タイミングを見計らい、
――勝利を確信した吸血鬼が、狭間の縁に手をかけ、
「これでも食らえ――――ッ!」
引き放った。飛翔する雁股の矢は狙い違わず吸血鬼の腕を切断する。勢いを減じぬ矢はついでとばかりに男の腿を引き裂き通り過ぎ、グールひしめく地上に突き立った。
支えを失った吸血鬼はバランスを崩し、呆気なく地上に落ちて――
――なぜ、そいつは笑っているのか。見下したように、嘲るように。
醜悪に歪んだ顔、視線の先にはいまだ縁を掴んだまま取り残された吸血鬼の右腕が。
――――伝承に曰く、吸血鬼は蝙蝠と狼、そして霧に身体を転じるという。
「しま――――!?」
気付いたときには遅かった。
雲散霧消。そうとしか表現できない。
崩れるように形を失った吸血鬼の身体は、瞬時に黒い霧と化した。ひと塊になったまま、風もないのに蠢く霧は狭間の隙間から塔の内部に流れ込み――
「ば、なん――ぎぁ!?」
「オルフ!? くそ! 総員、近接戦闘……!」
「ぎぃゃははははは! 侮ったな、劣等種風情がァ!」
「斧を持て! クロスボウは捨て――ぐぁ!?」
下階から響く騒音と怒号と悲鳴、肉を打つ音と金属を打ち鳴らし合う音。
「ええい! 第一小隊、射撃を続けなさい!」
振り返り、ベルトを掴んだ猟兵の腕に齧りついた。代わりに部下を引き落とさんという勢いで屋上に身体を引き上げる。泡を食った様子の部下にねぎらいの言葉もかけずに駆け去って、下階に走った。
「こンの……!」
転がるようにした駆け降りた階段の先、そこには盾と斧を構えた猟兵達と、ゲタゲタと声をあげて笑いながら拳を振るう男の姿が。
足元には二人、血を流して倒れる男たちがいた。
「んんん? お前がここの指揮官――」
「黙れ腐れ蝙蝠が!」
腰から取り出したある物を渾身を籠めて投げつける。余裕の表情で払いのけた吸血鬼は、次の瞬間悲鳴を上げて飛び退いた。愕然とした表情で顔を――否、鼻先を抑えつけこちらを睨んでくる。そして、塔の内部を酷い悪臭が充満していく。
……効果あり。副作用はとんでもないが、それでも緊急回避には役立った。
ならば――
「トマトを投げろ!」
その命令に、塔の内部の空気が凍り付いた。
「うぇ……」
「マジかよ……」
部下たちが顔を引き攣らせるが命には代えられない。思い思いに腰の革袋から腐れトマトを取り出すと、特有の悪臭がさらに悪化した。
「きさ、やめ――」
「投げろ!」
狼狽した様子の吸血鬼が何かを言うが気にする余裕はない。エルモの号令に従い猟兵が一斉に投げつけたトマトは七割が吸血鬼に命中し、その他は塔内部の壁にぶち当たって壁面を褐色に染め上げる。
「ぎ、ぁああああああああ!?」
迸る絶叫。もがき苦しむ男のさまは、原因が果実の魔物除けの効果によるのか単に悪臭のせいなのかは判別できない。――それでも、充分な隙が生まれた。
「ふ――――!」
三連射。息も整えず放った三矢は、それぞれ吸血鬼の肩胸腹に突き刺さる。しかし致命打にはならない。それには短弓は威力が不足している。
「貴様……舐めているのかぁ、が――ッ!?」
「こんのォおおおお!」
突進し肩口から突き飛ばす。足元が腐れトマトでぬめっていたのが幸いした。足を滑らせた吸血鬼が転倒する。すかさずエルモが馬乗りになり、手元に忍ばせていた矢を喉元に突き刺した。
「ご、ぶ……!?」
「果実も滴るいい男ね、田舎のトマトのお味はお気に召したかしら?」
ぐりぐりと喉の奥に鏃を押し込みながら皮肉を飛ばす。返答など期待していない。現に吸血鬼は瞳を憎悪に燃やし、腕を上げてエルモを叩き殺そうと振り上げて――
魔力を巡らせる。この十年以上、散々やり慣れた工程。
魔力を変換する。自分が最も得意とする風の属性。
髪の毛が軽く逆立つ。魔力を溜めこみ、まるで帯電したように。
ばちばちと耳奥で響く音を聞きながら、エルモは男の顎を掴み上げるとそのまま勢いよく石畳に叩きつけた。ごん、と石と石を打ちあわせたような衝撃が腕に返ってくる。
「が――!?」
「吸血鬼って、光が苦手なんでしょ? だったら――」
吸血鬼の身体に突き立った四つの鏃、その全てには赤銅のメッキが施してあった。
「稲光はお好きかしら――――ッ!」
「貴、さ――」
「絢爛の光芒よ!」
末期の声など聞く気にもなれない。委細構わずエルモは魔法を発動し――
刹那、閃光と轟音が尖塔の内部を支配した。




