ハインツ防衛戦①
矢が十二本入った矢筒を、肩に二つ、腰に横向きに一つ、腰の両脇に一つずつ。合計五つで六十本の矢を用意して身に帯びた。これのうち左肩のワンセットは鏃に銀メッキを施した特製で、数に限りがある以上慎重に使い時を見極めなければならない。
流石にそれだけの矢を抱えてしまえば大した重量で、この状態で山の中を走り回れと言われてもお断りしたいところである。
針鼠のように物々しい外見に愛用の短弓を携え、尖塔の上から地上に向けて油断ない視線を向ける。思い返すのは陣幕の中でロドルフォ将軍にきった啖呵の内容だ。
――ハスカールの弓法をご覧に入れよう。
「……とは言ってみたものの、これはちょっと予想外ね……」
夜更けも夜更け、割り当てられた持ち場で敵勢を待ち構えていたエルモは、いざ敵が姿を現すとそんなぼやきを漏らした。
思わずそんな愚痴が漏れるのも無理はない。何しろ眼下には――――千を超えるグールの群れが戦列を作って迫ってきているのだから。
「……ここの斥候って仕事する気あるのかしら。500って言ってなかった? 私そう聞いてたんだけど、何か聞き間違いしたかしら? それともあの時私の耳の周りだけ空間が捻じり曲がって異世界に繋がったとか?」
「いえ、我々も確かに500と聞いています」
「皮肉よ、流しなさい」
はは、としかつめらしく引き下がる小隊長を尻目に盛大に溜息をつく。……少々失言だった。こんな時、上にいる人間が士気を下げるような発言は避けなければならないというのに。
とはいえ、敵の数が想定を遥かに上回っていることに変わりはない。一体どこに隠れていたのか、それともどこかで増やしてきたのか。
「……確か、ここから西に村はいくつあったかしら?」
「街道から支道が出ていて、山の中に集落が三つほどあったと聞きます。林業を生業としている百人半ばの規模だとか」
兵の供給元はそこか。吸血鬼というものは徴兵にコストがかからないらしい。こちらは人間ひとり命令に従わせるために散々な訓練が必要だというのに、羨ましいことだと嘆息する。
吸血鬼の脅威に関するロドルフォ将軍からの忠告が、今になって重みを増してきた感じがした。
――と、
「…………ん? あれ、なに……?」
不意に、視界の端に煌めくものが映った、ような気がした。
目をすがめて注視すると、
「この街の、衛兵……?」
鋼鉄製の胸甲、簡素ながら要所を守る鉄兜、意匠の統一された鋼鉄剣。……何故かこの芸術都市ハインツの警備についているはずの衛兵の装備を身に纏ったグールが敵勢に混じっていた。それも改めて確認すれば、一人だけでなく何人も。
ちらほらと混じっている衛兵のグール、その中の一人が背負っている頭陀袋を見てエルモはようやく合点がいった。
……つまりはあれは、こちらから放った斥候の末路か。
ロドルフォ将軍の命令によるものではないだろう。彼は斥候を無意味だと断じていた。であるならば執政の命令によるものだろうか。
無意味に詳細な情報を得ようと敵に接近し過ぎ、挙句気付かれて奴らのお仲間入りとは……
「まったく、敵より味方が厄介ってどこの同盟の提督よ。私、そんなガラじゃないんだけど」
もっとも、あの紅茶好きな魔術師も渉外能力に欠陥を抱えていたというかなんというか。潔癖すぎる理想主義者で他人に理解を求めず皮肉屋を気取るタイプだから孤立する。もう少し人当りに気をつけていればあんな最期には……いや、やめておこう。
横道に逸れた思考をもとに戻し、猟兵副官は敵の観察を続ける。――あの斥候兵を見てから、奇妙な違和感が付き纏っていた。何か小骨が喉奥に引っかかっているような、ささやかな不快感。一体どうしたのかと考え込んで――それに思い当った。
……あの斥候たち、どうして一人残らずグールになっているのだろう?
逃げ遅れたにしたって少しおかしい。相手は理性のないグールで、おまけに足はさほど速くないはずなのだ、散り散りになって逃げてしまえば一人と言わず数人はこの都市まで逃げてこられたはず。グールの群れが一千に届こうかという情報も手に入っていただろう。予想の範疇とはいえ、その情報は決して無駄にはならなかったはずだ。
だというのに全員が逃げ遅れた? 装備からして専門の訓練を受けた物見の専門家が?
有り得ない。それこそグールでなく、吸血鬼が彼らを狙い撃ちにしない限り――
「――シルフ、ひと仕事よ」
「――――?」
はたと思いついて風精霊を呼ぶ。すでに召喚はだいぶ前に済ませていた。踊るように目の前に浮遊する可憐な少女に、北西の森を指し示す。
「あの森を調べてきて。あの辺りが一番きな臭いわ」
●
――果たして、エルモの予想は的中した。
芸術都市西街道、その北側に位置する森の中に、もう一つのグールの群れが潜んでいた。――その数、百前後。
本隊と分けて潜ませているのなら、用途など決まりきっている。――後詰だ。万が一、千人のグールが敗れて後退する羽目になった時、追撃に出た芸術都市の兵に横から突っ込ませるつもりだ。
斥候兵たちはこれを見たのだろう。だから生かして返すわけにはいかなかった。
「……ほんと、斥候を断って正解だったわね、コーラル。釣り出し喰らうだなんて冗談じゃないわ」
西街道の隅で斥候の革鎧を着て呻き声を上げるあのグールの姿は、ともすればここにいる猟兵だったのかもしれない。
名も知れない兵卒への同情と、自分がそうならなかったことへの安堵を抱きながら、エルモは短弓に矢をつがえた。
「シルフ、補助を」
「――――!」
今回数本しか持ち込んでいない雁股の矢だ。Yの字に枝分かれした鏃で内側に刃があり研ぎ澄ませている。鏃には今回に備え銀のメッキを施し、風の魔法を通しやすいように刻印を彫り込んでいた。
ぎりぎりと弓を引き絞り狙いを定める。目を皿のように見開いて遥かを見渡す。シルフによる補助を受け、さらに遠視スキルによって強化された視力は森の中に身を屈める一体の吸血鬼を捉えていた。
――通常の射掛けと違い、この射方は勝手が違う。鏃からして重さが違うし、射出後風魔法による加速を得るために弾道が変わってくるからだ。普段なら目標のやや上を狙うところをさらに下に下げていく。
「一度、言ってみたかった台詞があるんだけど」
軽く引き攣る引手を意に介さず、呼吸を見計らいながらエルモは言った。その顔はこんな場でありながら口元を吊り上げ、まるで死地を愉しむかのように――
「――――南無八幡大菩薩。この矢、外させたもうな――――!」
甲高い弓鳴りの音が響いた。風魔法によって亜音速にまで加速した雁股の矢は異様な風切り音を鳴らせながら飛翔し、こちらに気付きもせず身を屈めたままの吸血鬼の首を狙い違わず刎ね飛ばした。
一瞬で灰と化した敵の姿を見れば、事の是非など問うまでもない。
ディール暦714年12月上旬。
唐突に襲来した吸血鬼たちとの戦い――ハインツ防衛戦は、こうして戦端が開かれた。




