急報火のごとく
その日、コロンビア半島に異変が起こった。
冬に差し掛かろうとする寒い夜のことだ。最近は日照時間も特に短くなり、あっという間に太陽も沈んでしまった。そんな夜更けのことである。
――――ォォォォオォォォオ……ォォオオォォォオオ……!
どこか遠くから届いてくる、獣の遠吠え。
方角は恐らく内海の彼方からだろう。しかしこれはどういうことか。
遥か彼方に芸術都市ハインツが控えるとはいえ、海を一つ隔てている。よほど空気が澄んでいなければ半島側からハインツの城壁を見ることは叶わない。そんな中、遠く半島に届いたこの声とは。
異変は連鎖する。まるで示し合わせたように――否、元より取り決められたとおりに。
――――ォォォォォオオォォォオオオン
――――ゥゥォォォオオオオォォオォオオ
――――ォォォオォオォオオオオオ……!
次々に、そして絶え間なく。半島に居を構える狼たち、猟師が灰色と呼称している狼の子孫たちが、か細い遠吠えを聞きつけるなり、釣られるようにまた遠吠えを放っていった。
巨狼が吼えた。
黒狼が吼えた。
雌狼が吼えた。
仔狼が吼えた。
孤狼が吼えた。
老いも若きも雄雌の区別なく、更に言うなら灰色狼と血の繋がらない外の狼も、自らのつがいに促されて音色の違う声を上げた。
立ち昇る狼の声。鬨の声じみた獰猛な喚声。幾十、あるいは百に届こうかという咆哮が重なり合い、半島中に響き渡る。
人々は恐怖した。かつてない異変、未だ経験のない肌を震わせるようなおどろおどろしい唸り声。屈強な酔いどれは凍り付き、夫婦は睦言を取りやめ、泣く子は黙って寝具に縋りつく。出歩いていたものは怯えきった目つきで自宅に飛び込み戸締まりを厳にして閉じ籠る。半島に住む誰も彼もが息を潜めて遠吠えの気配を探り続けた。
彼らの顔は恐怖に染まり、そしてまた疑念に歪んでもいた。
……一体何が起きたのだろうか。半島の狼は人を襲わないはずではないのか。どうしてこんな、まるで夜明けの鶏のように。
まるで伝承に出てくる地獄の喇叭だ。地の底から響く法螺の笛、何かに号令するかのように遠くへ遠くへと鳴り響く。
狼たちは宗旨を変えたのだろうか。人間を守る狼だと言ったあの猟師の言葉は偽りだったのか。
混乱のさなかに突き落とされた半島の住民たち。だというのに、当事者の一人であるはずの傭兵たちは不思議なことに沈黙を保っていた。
遠吠えは響き続ける。何かを伝えるように、届けるように。どんな早馬よりも彼らの声は迅速だった。
●
――そして、この方向を待ち望んでいた人間も、半島には確かにいたのだ。
「――来た……!」
狼の遠吠えは交易都市はおろか領都ジリアンにまで届いていた。
領城のとある一角、竜騎士の寝食のために割り当てられた一室にて、若い女竜騎士アーデルハイト・ロイターは跳ねるように寝台から飛び起きた。原因は今なお鼓膜を震わせ続ける狼たちの大合唱である。
猟師と示し合わせた一つの合図だ。――何か異常があれば狼が声を上げると。どこでもいい、白狼の遠吠えが半島の片隅にでも届けば、灰色の子供たちが拾ってくれる。半島に投じられた小石は、あとに連なる遠吠えによって波紋を生み半島中に広まるのだ、と。
無論、本来こんな手段は採るべきではない。半島の住民を無為に怯えさせ逃散すら招きかねない暴挙である。――ゆえに、だからこそ。
だからこそ――――狼が吼えたときは、相応の危機があの男に迫っているのだから――――!
「コーラル……!」
間の悪いことにその日は非番だった。完全に休暇のつもりで準備も整わず、明日に備えて床についたところだった。スヴァークも起きているか怪しい。
歯噛みしながら手早く着替え、革鎧と鋼鉄の胸甲を身に着けていく。防寒用に外套を纏い、武器棚にかけた剣を軽く状態を確認して腰に提げる。藍色の布地に若草色の刺繍を施したマフラーを首に巻き付け、口元をうずめて深く息を吸い込んだ。
――さあ、行こう。
居室を飛び出し駆け足で廊下を突き進む。通り過ぎる役人が何事かと振り返るがかまけている暇はない。挨拶もそこそこに足を速めて真っ直ぐに目的地へ。
目指すは領城の上層、竜騎士の発着場である。
●
「――残念だったな、ロイター卿。先駆けは譲ってもらうぞ」
発着場に辿り着いたアーデルハイトは、扉を開けるや得意満面な暑苦しい笑みに迎えられた。
肌を突き刺すような寒さの中、ひらけた発着場には一匹の騎竜と一人の竜騎士が佇んでいる。その人物のことを彼女はよく知っていた。
「ルオン殿……」
「いやなに、事情は辺境伯から窺っているとも。このわんわんとやかましい遠吠えについては初耳だが……狼がこれほど騒ぐということは、つまりはそういうことなのだろう? ――なるほど、音は馬よりも鳥よりも足が速い、狼煙のように見晴らし悪く見えにくいということもないわけだな。
好い出陣だ。当直であった幸運を天に感謝したいほどに」
ぐるぐると喉を鳴らすドラゴンの鼻先を撫でながら、ルオン・マイヤーは白い息を吐いた。覇気に満ちた瞳がきらきらと輝き、アーデルハイトを見つめる。
「息せき切って駆け付けてきたのは良いことだが、ロイター卿。貴殿のスヴァークは寒さと眠気にやられて動きづらそうにしていた。硫黄を食わせて一時間は大人しくさせておくべきだろう」
「それは……」
「貴殿の不手際ではないとも。己が騎竜を休ませもせず、臨戦態勢を常に保たせておくなど愚の骨頂、竜騎士など名乗らせてはおけぬ。手前とて今が当番でなければこのグリーヴとともに眠りこけていただろう。今回は単純に、貴殿の間が悪かっただけなのだ」
そう言って、中年の竜騎士は歯を見せて笑った。
「万全を期すのだ、ロイター卿。あの男のもとへ一刻も早く駆けつけたいという気持ちは理解できるが、急いては事をし損じる。よく休み、よく飛ぶのが我らの仕事よ」
「な――――っ!?」
いきなりぶっかけられた言葉に心臓が跳ね上がるのを感じた。冬の風が吹きつけるというのに、それを忘れるほどに顔が熱い。
真っ赤な顔でパクパクと口を開閉するアーデルハイトを満足げに見やり、ルオンは颯爽とした仕草でドラゴンの背中に跨った。
「それではお先に失礼する! ――あぁ、急ぐなとは忠告したが、貴殿のために獲物を残しておくとは言っていない。遅れて到着した時に見せ場が残っていることを、ゆるりと祈っているのだな……!」
ドラゴンの羽ばたきに負けない声量で哄笑を上げながら、竜騎士は飛び立っていった。向かうは暗黒に彩られた内海の先。何者かに襲われ、あの猟師が助けを求めた窮地の都市。それだけで彼の地がどれほどの魔窟と化したか想像がつくというもの。
しかし、それが何だというのだろう。
竜騎士に怯懦の二文字はない。ドラゴンの力を借る以上、無意味な尻込みは許されない。
たとえ死地に向けてだろうと、獰猛に笑って突き進むのが竜騎士道だ。
何が待ち構えているかも知らず、それでも竜騎士は不敵な笑みを浮かべて空高く飛翔した。




