聖騎士道
熱を帯びた掌が背中に触れる感触。肩甲骨の辺りからじわりと染み渡るように熱が広がっていく。同時に、慢性的に感じていた息苦しさが和らいでいった。
「……ふむ。しかし改めて思うが、よくこの毒を受けて生きていられたものだな?」
刈り込んだ金髪に整えた髭。年齢を重ねた眼元は苦み走っている。穏やかな口調に微かな苦笑を滲ませつつ、聖騎士ミカエルは回復魔法を俺の背中に当て続けた。俺たちのいる調度品の少ない簡素な宿屋の雰囲気も相まって、そのさまは騎士というより医師のような雰囲気すらある。
……実際、医師というのも満更誤りでもない。一年前に毒を受けてから、ミカエル氏の厚意に甘えて月に二回ほどの頻度で診察を受けている。高位の光魔法を操る聖騎士は治癒師としても一流だった。
「そんなに強い毒なのですか?」
「強い。というより特殊な毒だな、これは」
そういえば、何度か身体を診てもらうことはあっても毒に対する所感など訊ねもしなかった。解毒はできないと彼自身も言っていたし、揮発して手元にない毒のことなど知ってもどうにもならないと思っていたからだ。
改めてこの聖騎士の意見を聞こうと振り返ると、ミカエル氏の物静かな視線とぶち当たる。
「これは生命力を削る代物ではなく、衰弱死を目的とした毒のようだ。攻撃値や防御値等の対象の全ステータスに直接200の減退をかけるというもの。どれか一つでもマイナス値に入れば死に至る。普通の人間はステータスでなくスキルレベルを重点的に鍛える上に、貴公のように万遍なく地力を上げるということはしない。おまけにこれの効果を軽減しうる毒耐性もさほど普及しているでもなし。他の人間――たとえば貴公の副官のエルモ殿などであれば、悲鳴すら上げられずに死んでいただろう」
「……随分と、お詳しいようで」
「以前、貴公と同じ症状で死んだ同僚を診たことがある。助けることはできなかったが、あの異様なステータスの変動は克明に記憶しているとも」
言って、聖騎士は苦い笑みを浮かべた。
「――騎士団の汚点というやつだ。派閥争いにかまけ、暗闘小競り合いは際限を知らず、越えてはならない一線を容易く踏み越えた。……まったく、90年前のあの事件からようやく立ち直ってきたというのにこれとは。これでは貴公の先代に合わせる顔が無いな」
「ふむ…………は?」
ちょっと待て、今この男は何と言った?
思わず間の抜けた声が漏れた。呆気にとられた顔の俺を見て聖騎士が肩をすくめる。
「……失礼だが、俺の先代をご存じで?」
「存じているとも。ランドグリーズを纏うもの、二剣の蛮戦士。……実際は下賜された宝剣を使い惜しんで自前の得物を振るっていたから、二剣ではなく三剣になるな。
実際に言葉を交わしたこともある。粗にして野だが卑にあらずを地で行く御仁だった」
あんた一体何歳だ。見た目は精々四十代にしか見えないというのになんだその若作り。光魔法ってアンチエイジングの効果でもあるのか。
信じがたいものを見る思いで目の前の騎士を眺めていると、男は軽く瞑目するように目を伏せる。
「……心苦しいが、ベイ――彼女に関しては緘口令が敷かれている。王国から騎士団に至るまで、公的な記録全てから抹消されているほどの扱いを受けているのだ。今や騎士団に所属しない身となった私に、彼女について語る資格はない。詳細を知りたければ騎士団か王国近衛の重鎮に口を開かせるほかないだろう。
ただ一つ言えるのは……あの事件――ファリオン騎士団、そして近衛師団の最大の汚点となった三軍壊滅事件の煽りを受けて、あの戦士は孤独な戦いを強いられたのだ」
「三軍壊滅事件……?」
「聞いたことがあるだろう? 騎士団領内での魔族の蜂起、砂漠民族の侵攻が同時に起き、鎮圧に動いた騎士団との三つ巴の激突のさなかに、不慮の横槍によって三勢力が壊滅した事件。
しかし、これは事実を欠いている。そもそも魔族は軍と呼べるほどの規模で動いてはいなかった。大量のガーゴイルを率いてはいたが、あれは『群』であって『軍』ではなかった」
物憂げな瞳。口止めを受けているといいながら踏み込んだ内容を語る騎士の心中はいかなるものか。
「……では、壊滅した三軍とは?」
「あったのだよ、あの事件によって壊滅に陥った、真っ当な組織がもう一つ。無論直接ではない。あの日あの場所で屍を築いたのは騎士と魔族と砂の民に違いない。しかし、あの事件はそこからが本番だった。騎士団どころではない、王国どころでもない、危うく大陸全てを巻き込みかねない狂乱の渦が立ち上がろうとしていたのだ」
●
――結局、聖騎士ミカエルはそれ以上を語ろうとしなかった。守秘義務に触れるからと謎めいた微笑で勿体ぶる姿には流石に苛ついたものの、梃子でも動かない様子には諦めるしかない。気分は寝物語を続きはまた明日と打ち切られた欲求不満少年である。
手を煩わせてしまった聖騎士に礼を言い、立ち去るために席を立った。謝礼を払おうと申し出てすげなく断られるのは毎度のことである。
診察のために取り去っていた外套を羽織る。今は鎧も銀装も仕舞い込んだ平服で、外套も派手な先代のそれでなく地味な藍色のものだ。
ミカエル氏が借りている部屋から立ち去ろうと扉に手をかけたとき、扉の脇に奇妙な物を見つけた。来た時にはちょうど扉の影になって見えない場所に鎮座していたらしい。
それは一抱えもあるごつごつとした球体で、木製の椅子に置物のように置き飾られていた。
「……これは、南瓜……?」
間違いない、エルモが騙されて買わされた人面カボチャだ。ご丁寧に表面の人の顔のような柄は刃物でくりぬかれ、さながらアメリカのジャック・オー・ランタンのように内部が空洞になっている。これで中に蝋燭でも入っていれば完璧だ。
椅子に座ったままミカエル氏が言った。
「――その南瓜か。ショーの終わりに貰った、私のファンだという少年からの贈り物でね。断面が少々ささくれているが、いい出来だろう?」
穏やかな瞳で南瓜を見やるその姿は、まるで小学校の工作コンクールで圭作を取った孫の作品を眺める老人のようである。
言われてみれば過度な装飾の為されていない、ガラに沿って彫っただけという素朴さが何とも言えない味を醸し出して……やっぱ駄目だ、不気味過ぎる。こんなもんを平然と部屋に飾っていられる神経が信じられないのですが。
「エルモ殿の功績だな。彼女がこのカボチャを半島に普及させたおかげで、この地に新たな風習が芽吹こうとしているのだろう。最近では中身をくりぬいた南瓜を兜代わりに被って遊ぶ子供もいると聞く。微笑ましいことだ」
本当に? アナタそれほんとに正気で言ってます? ただの百鬼夜行だろそれ。
大陸に名を轟かせる聖騎士との間に美的センスという溝を感じる。これは俺の感覚が異常なのか。いやそもそも異常とは何だ、正気と狂気の狭間が曖昧なように周囲の異常に取り残された正常とはすなわち正常の方が異常で、異常は正常正常は異常――――ええい頭がこんがらがってきた!
悶々としてきた頭の中の整理もつかないまま、退室の挨拶もそこそこに俺はその場を辞していった。
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ディール暦714年、十一月中旬。
辺境伯から出兵要請を受け、猟兵は芸術都市ハインツへと派遣される。
……のちに、俺はこの任務を受領したことを大いに後悔することになる。
断っておくべきだった。迂闊だったのだ。耳をそばだてていれば、情報などいくらでも入ってきていたはずなのに。
なんとしても、何を置いても、あんなものと関わるべきではなかったのだ。全ては後の祭りとわかっている。それでも、あの都市へ行きさえしなければ――――あんな惨状を目にすることはなかった。かけがえのないものを失うことはなかったのだ。
冬の始まろうとする肌寒いハインツにて、俺たちはそれと遭遇した。
あらゆる理不尽、あらゆる不条理を煮詰めて固めた、人智の及ばぬ悍ましい存在。
名状などできようものか。あれを形容する言葉など、誰に思いつけるというのだろう。
正気は崩れ、機知は委縮し、真実は狂気とともに。
夜の魔都にて、崩壊の轟音を耳にする。




