とある錬金術師の場合・前
ディール大陸におけるエルフの本拠地、パルス大森林は陸の孤島と呼ぶにふさわしい立地にある。
東方西方南方を海に囲まれ、大陸中央部へ唯一の陸路である北方は森が途切れリザードマンの巣窟である湿地帯が広がっている。エルフとリザードマンは長年の天敵同士で、接触イコール即殺し合いに発展する間柄となれば、エルフの湿地帯通行など望むべくもないことだった。
エルフが大森林から大陸へと行き着くためには、陸路を除けば二種類の方法がある。
一つは森から東回りに船を用いるもの。最近では東辺海航路なる代物が開通したと聞くが、今語るのは一度遠洋に出て潮流に乗る東辺海航路とまるで違い、簡素な筏じみた船で陸地沿いに浅瀬を行くものだ。
当然これはリザードマンの縄張りを掠めるルートをたどるため、同じように筏に乗った蜥蜴どもに襲われる危険を伴う。渡航の成功率は二割を下回る程度で、およそ検討に値する手段ではない。
もう一つは南海ルート。大森林の西海岸から船に乗り、ロイス群島海域を突破して王都の商業港を目指すというものだ。
東辺海のような時化やクラーケンのように海棲の魔物に襲われる可能性はほぼないが、代わりに群島を縄張りにする海賊や、海域中心にそびえ立つナガン火山から飛来するドラゴンに襲われる危険が常に付き纏う。
八つの群島それぞれに割拠している海賊団。通行料は出くわす度に支払わなければならず、あっちに払ったからこっちは負けろなどと言えば帆下駄に吊るされる。海を行けば雲霞のごとく海賊がボロボロと出現し、エルフの天敵であるドラゴンと身を隠すもののない海上で戦うとなれば、うんざりする旅路であることは想像に難くないことだった。
危険度としては陸路と南海ルートはほぼ同じで、よほど実力のあるものでなければエルフの森から出ることは叶わないというのが一般的である。
――しかし、何事にも例外というものは存在する。
エルフの癖に火魔法の達人として知られる長老級の戦士や、第四紀に活躍した南海のエルフ竜騎士のように、自らの弱点に真っ向から喧嘩を売って平然と勝ち抜く出鱈目もまた存在するのだ。
そんなトンデモに早くから出会えたイクセは、自分のことをそれなりについているプレイヤーだと自認していた。
イクセはログインして幾許もしないうちに、ある女エルフと出会った。彼女は大森林西部に住む錬金術師で、大森林で採集できる錬金素材に不満を持ち大陸へ飛び出そうと画策している変わり者だった。
そんな錬金術師の彼女に対し、イクセは迷わず弟子入りを志願した。目的は大森林からの脱出そのものである。
夢と希望に満ち溢れたログイン当初の目論見は、歓迎と称して饗された食事に打ち砕かれた。……あんな香辛料と砂糖の塊、毎日食べるだなんて気が狂うに決まってる。エルフの里に早々に見切りをつけたイクセは、脱大森林の手筈に心当たりがありそうな女エルフに五体投地して懇願し、彼女の大陸生活を助手として手伝う代わりについていくことを了承させたのである。
そして、イクセの目論見は見事に的中した。
女エルフの用意した粗末な小舟で南海に漕ぎ出したときはどうしたものかと絶望しかけたものの、その後の航海そのものは天候にも恵まれて順調そのもの。途中で現れる海賊やドラゴンも、女エルフの魔法でけちょんけちょんに滅多打ち。特に苦労もなく王都の港に辿り着き、さらに西に赴いた港湾都市に居を構えることに成功した。
それからの十五年、イクセと女エルフ――師匠は今や二人で港湾都市ゴダイヴァに研究小屋を建て、時折魔法薬を商人に売ることで生計を立てている。
苦手な戦闘とも無縁で、任される仕事と言えば北東の丘陵地帯の植物の採集であったり、新鮮な素材を入荷した港の朝市への買い出しや、王都やブレンダに住む貴族へのお使いくらいだ。それも遠出と言っても馬車を使い護衛を雇った安全な旅路。恐れるものなどどこにもない。
イクセの生活は、まさに順風満帆といえた。
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「師匠? 何やらお手紙が届いてますよ?」
「んー?」
早朝の市場からの帰り。郵便受けから数枚の宅配物を取り出したイクセは自宅の扉を開け、ちょうど起き抜けで大欠伸を漏らしながら食卓についた師匠に手渡すと、自らは愛用のエプロンを装着して台所に入った。取り出すのはフライパンと油と卵。豚の腸詰が手に入ったので、朝食は軽く炒め物で済ませるつもりでいる。
「私に手紙ねぇ……?」
「品のいいあしらいですよね、その手紙。縁取りとか染めてるレターセットなんてこの大陸で初めて見ました。仄かに鈴蘭の薫りもしますし、ひょっとしたら貴族様からかも」
胡乱げな視線でじっとりと手紙を睨みつける師匠。寝起きで機嫌の悪い彼女に苦笑しつつ、イクセは朝食の用意を進めていく。
油を敷いたフライパンに溶き卵を注ぐと、弾けるような音とともに香ばしい匂いが家中に広がった。出来上がりには最近手に入ったパセリを振りかける予定である。
港湾都市ゴダイヴァは南に南海、他三方を平原に囲まれた肥沃な土地である。第四紀の都市国家時代にノーフォーク農法を確立し、以降は王都を凌ぐ一大穀倉地帯として発展してきた。莫大な収穫量を元手に南海を通じて東の王都や西の騎士団領ブレンダと交易を繰り返し、商業都市としての役割も多大に持っている。
特に昨今での主な顧客は西のファリオン騎士団である。内乱が活発になってきた砂漠を警戒し、騎士団は彼らが持つ各拠点の物資の充実を進めている。食糧に武具に馬具、野営道具だって予備がいる。ブレンダだけで供給が間に合うはずもなく、彼らに物資を売りつけているゴダイヴァや王都では戦時特需とばかりに好景気が発生していた。
一番影響を受けているのはもちろんこの港湾都市だ。ここで作った物資はもちろん、王都からの商品も一度は中継港としてこのゴダイヴァに停泊する。いわゆる日本でいう『くだりもの』が港湾都市で大規模で流通するようになったのである。良質な商品が安価に出回り、イクセたちが商品にしている魔法薬も飛ぶように売れていった。
もちろん、西の抗争もいいことばかりではない。何しろこの港湾都市、ステータスを商業一本に極振りしたような極端な発展をしてきたせいで、軍事関係がまるで貧弱なのだ。
砂漠民族に対してはファリオン騎士団に頼り切り、行き来する船の荷を狙うロイス群島海域の海賊たちに対しては金品を渡してへりくだり、北の丘陵地帯の魔物には傭兵をあてがって急場をしのぐ。――それがルフト王国に所属するようになってからの港湾都市の基本方針である。
「よ、し。――できましたよ、師匠」
「んー」
竈の火を弱めてフライパンを取り上げ、卵炒めを皿によそう。そして追加で火を入れておいた、いまだ脂の弾けるソーセージを皿に乗せれば出来上がりだ。あとはライ麦のパンをざくざくと輪切りにして、マグカップと牛乳の入った瓶を用意すれば朝食である。
米や和食とまではいかず、あくまで『比較的』の域を出ないものの、リアルとあまり大差ない食事ができるというのは王都や港湾都市の魅力の一つだと思う。
……もっとも、こういった贅沢もそれなりの出費を伴うのではあるが。
イクセが皿を食卓に乗せたとき、師匠は届いた便箋から手紙を取り出して読みふけっているところだった。
最近コロンビア半島を中心に出回るようになった植物紙は、サトウキビを原料としているという。作り方は和紙のそれを用いているようで、所々の漉きむらが何とも言えない風情を醸し出していた。
無造作に破り開けられた便箋は食卓にぞんざいに放り出されている。素人のイクセから見ても綺麗な文字で綴られた差出人の名前に、どこか見覚えがあるような、と彼女は首をひねった。
差出人の名前を、アーデルハイト・ロイターといった。




