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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
闇に踊る護り手
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暗殺教団

 砂塵の舞う砂漠を越え、ディール大陸の西北にある渓谷に行き着くまで、どれほどの道程を要するであろうか。

 頻繁に巻き上がる砂嵐に閉ざされるアルス砂漠北部。道を阻む陽炎と蜃気楼は道行く人を幻惑し、容易に遭難せしめる。現れる魔物は猛毒の蟲、火炎の鳥、石化の蜥蜴と環境の過酷さを示すように強力なものが徘徊している。

 天然の迷宮にして魔物の坩堝――およそ踏破不可能とも思えるような僻地に、教団の本拠地たるホグ渓谷は存在した。

 荒涼とした景観である。あちらこちらに無骨な岩が転がり、碌に舗装のされた道など馬車一台が通れる程度の粗末な筋道ひとつしかない。風が吹けば煙るように砂が舞い、回転草が辺りを転がり西部劇じみた雰囲気を醸し出していた。


 そんな中、渓谷へ続く道をよろめくように進む者がいた。

 痩身の、しかし鍛え上げられた身体つきの男だ。白い装束に顔まで被さる薄気味悪いフード、暗がりから覗く鷹のように鋭い目。

 ――暗殺教団の導師、『八咫』のイブラヒム。

 交易都市ハスカールにて猟師に敗北し、赤竜の火炎に焼かれたはずの男は、あれから数カ月を費やしてようやく自らの家に帰還しようとしている。


「――――、ぐ……」


 苦鳴が漏れる。息が荒い。足がもつれそうになる。

 導師の象徴であった白装束は砂ぼこりにまみれボロボロで、一目では浮浪者と区別がつかない。道中で見知らぬ行商人から掠め取った頭陀袋は何度か補修した跡があった。

 そして――腕。


 イブラヒムの右腕は、その前腕部の半ばで切断されていた。


 まともな処置など望めない逃避行だ。傷口をきつく縛り上げるのが精一杯で、それ以上のことなど叶わなかった。傷を洗う水があるなら喉の渇きを癒し、元より清潔な布などない。薬を買い求めるよりもその日の食糧が必要だった。

 出血は止まっている。しかし不十分な処置のせいで、きつく縛った部分から先が黒く変色し、壊死を起こしていた。これでは元の手首が手に入っても繋げることは叶わないだろう。

 傷口から雑菌が入ったのか、イブラヒムは半月前から吐き気と発熱に苦しめられていた。


「――もう、少し……」


 喘ぐように前に進む。息も絶え絶えに足を動かす。

 苦悶に歪む顔は彼を知る人間からは信じられないほどの様相だ。


 ……もう少し、もう少しで、家に帰れる。

 ただその一念で歩み続ける。



   ●



 ――あの時、あの赤竜の火を浴びた瞬間。

 横合いから空中のイブラヒムを突き飛ばす、一つの影があった。


「畜生……っ!」


 露天商。

 名前も知らない、信条を語ったこともない。付き合いの浅い教団の単なる構成員。

 前線に出る気はないと臆面もなく語ったはずの男が、どうして。


 いつから魔法を身に着けていたのか、背中には小さな竜巻を帯びていた。敏捷値も低く軽業のスキルも持たない彼が投げ飛ばされたイブラヒムを追うには魔法を用いる以外なかったのだろう。

 衝突するように導師を突き飛ばした露天商は、彼に代わって業火に呑まれた。畜生、畜生と悪態を撒き散らし、涙目になりながら手を伸ばしてきた男の顔を、イブラヒムは鮮明に思い出せる。


 なにも言い残さなかった。目で語ることすらあの男はしなかった。

 言いたいことは山ほどあっただろう。イブラヒムはお世辞にもいい上司とは言えなかった。適当な言動で熱意に欠ける露天商を軽蔑すらしていた。

 ――それを、あの露天商はどう思っていたのだろう。


 灰は何も語らない。遺品すら遺らない。イブラヒムに身の上を明かさなかった露天商は、彼が寝食する拠点すら口にしなかった。

 唯一残ったものは、あの男との間を結ぶ縁となるものは――それこそ、あの男が寄越してきたあの曲刀(シャムシール)くらいだろう。


 戦いのあと、身を潜ませたイブラヒムは片腕を襲う激痛に耐えながら現場を捜し、取り落した曲刀を回収した。

 曲刀の柄を握りしめたままだった右腕はそのままうち棄てた。……帰還の道中で腐る代物だ、持ち歩くわけにはいかない。――それに、たとえ腕を繋ぎ治癒を施す術があったとしても、身を任せる気にはなれない。


 なにが八咫だ、何が導師だ。

 務めに敗れた挙句むざむざと逃げ帰り、身を救ってくれた恩人すら見殺しにした男が、何を賢しらぶって導師だなどと名乗れる。

 ここまで来たのはひとえに渓谷の老師たちに報告するため。自らの不明を明かし、彼らの献身を証言するためだ。それ以後自分がどうなろうが構わない。


 命はないだろう。死体は広場に晒されるだろう。……当然の末路だと思う。全て覚悟は決めている。

 ただ、背は向けられない。

 露天商が時折向けてきた、何かに憧れるような視線。何を思っているのか、まるで理解はできなかった。

 ――だが、あの視線に恥じる真似だけは、絶対にできない。



   ●



 ――――そう、決意していたというのに。


「なんだ、これは……」


 暗殺教団の本拠地、渓谷を塞ぐようにそびえる砦を前に、イブラヒムは呆然と立ち尽くした。

 声が震え、瞳孔が開くのが感じられる。……それほどまでに、目の前の光景は信じられなかった。


 人が、いない。


 砦の周辺を警戒している構成員は?

 訓練に明け暮れる新人は?

 近場の川まで洗濯に向かう女たちは?

 小屋の屋根から藁に飛び込んで遊ぶ子供たちは?

 厩舎には十頭以上の馬が繋がれていたはずではなかったか?


「ハキムっ!? クバード!? どこにいる!? 一体何があった……!?」


 声を張り上げて人影を探す。声を出さなければ狂いそうだった。

 しかし理解もしていた。透視の魔眼は壁を見渡す。――――視界のうちに、身動きする影は、ない。


 どうして誰もいないというのだ。

 所々に飛び散る血痕はなんだ。

 そして――――先ほどから聞こえる、何かの鳴き声は一体なんだ?


「ゲェェエエエエエエエ……ッ!」

「――――ッ」


 まただ、また聞こえた。

 ともすればリザードマンの鳴き声のようにも聞こえる。しかし混じる濁声が決定的に異なる。屠殺される豚の悲鳴を醜悪にしたような、そんな絶叫が。


 身構える。警戒も露わにイブラヒムが視線を向けた先にいたものは、


「ガーゴイル、だと……!?」


 青銅でできた身体、蝙蝠を模した翼。猿のように長い手足はときには二足歩行すら可能にする。鼻先は豚のように潰れ、口から覗く乱杭歯は物を咀嚼できるかも怪しい。

 ガーゴイル――主に魔族が手先として用いる魔物が姿を現した。


 それも一頭二頭ではない。イブラヒムの声を聞きつけたのか、物陰や建物の中から次々と。誰も彼もがゲェゲェと嘔吐するような鳴き声を上げ、興奮した様子で集まってくる。総数にして五十以上。

 彼らの手足や牙は赤黒い液体で濡れ――それが何であるか、イブラヒムは一目で悟った。


「貴、様ら……!」


 殺したのか、仲間たちを。

 女子供を、老師たちを。

 その醜悪な牙と爪で、嬲るように殺したのか。


「貴様ら……!」


 激昂する。後先など考えずに、ただ殺意一色に思考が染まった。自分が怪我人であるという自覚など一瞬で吹き飛んだ。

 左手で腰の曲刀を引き抜き、近くの魔物に激情のまま斬りかかろうとした、その時のことだ。


「――おうおうおう! ようやく待ち人現るってか! 待ちくたびれたぜ!」


 イブラヒムの背中に、威勢のいい声が浴びせられた。

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