残党の末路
「くそっ! くそっ! くそッたれが……ッ!」
真夜中の森を走る。通り過ぎる木の幹が視界を流れ、みるみる後方に去っていく。夜目を鍛えた男の眼でも起伏を読み取るのが精一杯の暗闇の中、それでも脚を緩めることはしない。
男は全力で半島の山を駆けていた。
最悪の気分だ。荒く息を切らせて今にも胸がはちきれそう。胸元の服は汗で濡れきり、肌に張りついて気持ちが悪い。半刻前にぬかるみに突っ込んだ右足は泥にまみれ、筋をやられたようで鈍い痛みを訴えている。
「畜生っ! 畜生がぁっ!」
それでも男は立ち止まらない。立ち止まれない。
一刻も早くこの半島から離れなければならないのだ。逃げきらなくてはならないのだ。
そうでなくては――――あの、ドラゴンが。
あの悪魔のような紅いドラゴンに焼き殺される。あれがやってきて、まるで畑で燃やす藁みたいに、熱線が、赤い火の息吹が――
「イブラヒムっ! あの無能……!」
たまらず男は罵声を漏らした。かつての上司、目の前でドラゴンに灰も残さず焼き殺された、教団随一の手練れを称していた導師目がけて。
なにが八咫だ。あんなものの何が導師だ。手羽先のように燃やされて、あれで本当に黒焦げの鴉ではないか。
初めて顔を合わせたときから気に食わなかった。たかが透視の魔眼を持つからと偉ぶって。今回死んでくれて本当に清々する。
「ざまあみろ! 仲間の仇だ、クソ導師!」
本来、男の任務はハスカールに潜入したまま情報を収集することにあった。それこそ十年二十年をかけて街に取り入り、いざ教団より遣わされた実働部隊を補佐することが役目である。
だからそう、本来彼は荒事になど関わるはずがなかったのだ。
あの渓谷でおざなりに訓練を受けて、下級の構成員――草として各都市に派遣される。十年に一度かに現れる暗殺者を手引きして、贅沢に肥え太った豚どもが不審な死を遂げるのを風の噂に聞く。そんな人生のはずだった。
護摩は好きだ。煙を浴びていると悩み事の何もかもが取り払われて頭脳が冴えてくる。薬効が翌日まで続けば、ハスカールでの職業だった靴の出来も良くなった。アレのために教団に所属しているといっても過言ではない。
浴び過ぎれば依存症になって毒だから少量ずつ。不足すれば教団との連絡役に催促して仕入れてもらう。
――あぁ、そうだ。あの新しく来た連絡役、腐ったへらへら笑顔の露天商め。
顔を合わせた途端顔をしかめて鼻を押さえて、なにが薬中野郎だ。持ってくる護摩の量を勝手に減らしやがって、くそったれめ。
奴が派遣されてきてからいいことなんか一つもなかった。護摩が足りなくてイライラする。手元が狂って革を駄目にして親方に何度殴られたか。
今回の仕事でイブラヒムが死んで、それから野郎の姿は見ていない。きっと一目散に逃げやがったに違いない。腰抜けめ、お前なんかインベントリがなければ草以下のチンピラだ。『客人』が何だって言うんだ。
「くそが……ァ!」
走る。走る。もつれた脚を必死に動かして、鳩尾が引き攣ってぜいぜいと息が漏れた。
あのドラゴンのブレスを見て、男は何もかも目もくれずに荷物をまとめた。貯めこんでいた護摩は持って行けないから、直前に景気よく一気に使ってしまった。警戒が厳しい領都には寄れないから芸術都市で組員と会って補充しないと。それまでなら細々使えばたぶん持つはず。
一刻も早く逃げないと。ドラゴンが追ってくる。あの猟師が追ってくる。……なんなんだあの野郎。毒で死んだんじゃなかったのか。何でイブラヒムと互角に斬り合ってるんだ。血を吐きながらイブラヒムを投げるとか頭がおかしい。どうして教団の八咫が、あんな簡単に。
「ひっ……はァっ……!」
大丈夫だ。きっと追いつかれたりはしない。
これでも教団に所属していたアサシンなんだ。気配を殺すなんてお手の物。
その上この山の中、森の中なら見つかるはずもない。そもそも追いかけてくるかどうかも怪しいのだから。
だからこの山を抜けたら街道に出よう。領都の門前市で食糧を買って、西の砂漠へ、渓谷のアジトへ旅立つのだ。
大丈夫だ、きっと辿り着く。
教団のみんなも温かく迎えてくれるに――
「え――がっ……!?」
何かに躓いた。護摩で頭が痺れていたせいだ。勢い余って顔面から転倒した。口の中に土が入り込んで気持ち悪い。
「なん……なんだぁ?」
泥を吐き出しながら男は振り返った。……躓いた何か、蹴とばした感じが木の根やい岩とは微妙に違った。重いものであることに違いはない。――ただ、そこはかとなくグニャリと柔らかくて、心なしか生温かいような。
それはまるで――
「――――ぁ?」
何かの、死骸のような。
「なんだ、これ……」
振り返った先にあった何か。それは、魔物や獣の死骸ではなかった。
丸太のような太さの胴。体表は白く毛がほとんどない。革や布でできた衣服で身を包み、腰のベルトには短剣を差している。
首はない。何かに食いちぎられたような切り口で、赤い肉の断面と突き出た骨が覗いていた。
――――人間だ。人間の死体だ。
それもただの人間ではない。
食いちぎられた衣服の肩部分、露出した肌に、猛禽の刺青が施されていた。
「あ……ぇ……?」
……有り得ない。おかしいだろう、それは。
半島に、特に領都やハスカールの間に、人間を襲う魔物はいないんじゃなかったのか。
どうして人間が、それも教団の人間が、まるで示し合わせたみたいにここで殺されてるんだ。
呆然としていたのも束の間のことだった。
――ごそり、と。
何かが視界の端で蠢いた。
「ひ――――!?」
身構える。背中に差した短剣を引き抜いて目の前に構えた。刃先はぶるぶると震えて、みっともないったらありゃしない。
「く――くそったれェ! 隠れてんじゃねえぞ、畜生が!」
虚勢の限りに叫ぶ。叫んで気を奮い立たせなければ、恐怖で狂いそうだった。
そして、それに応えるように、そいつは現れた。
「――――――」
「ぁ、は……?」
雪のように白い体毛。馬を超える巨大な体躯。ギラギラと夜闇に輝く黄金の瞳。
狼だ。見たこともないほど大きな狼が、のそりと男の前に立ち塞がっていた。
「ヒ……は……!」
「――――フン」
歯の根が合わない。あのぞろりとした牙を見ただけで、それに喰いちぎられる痛みが想像できる。
どうしてこんな目に遭うんだ。俺はただ、ここから逃げたいだけなのに。
浅い息を繰り返す男に、白い狼はつまらなげな視線を向け、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。……それは極限まで追い詰められた男の精神に最後の一押しを加えて、
「な、舐めるんじゃねえぞ、この犬畜生っ!」
ぶつり、と何かが頭の中でキレるのが聞こえた。
……これ以上追い詰められるくらいなら、いっそこっちから。そんな自暴自棄な思考が抗えないほど魅力的に感じられた。
短剣を振り上げる。元仲間だった肉塊を踏み躙り、男は雄叫びを上げて白狼に跳びかかり、
――背後から現れた二頭の狼に、両腕を喰いちぎられた。
「え――――?」
理解が追いつかない。軽くなった肩、噴き上がる血飛沫が何を意味しているのか。
間の抜けた声を上げて男が立ち止まり、両腕のあった場所を見返す。何度確認しても自分の両腕はどこにもなくて、
「お……おぉぉぉおォオおオオォおお――――ごびっ!?」
呆然と立ち尽くし絶叫を上げる男の頭を、白狼が喰いちぎった。
ばたりと倒れる死骸。仲間のそれと折り重なるように、またひとつ。
不味いものを食べたとばかりに白狼が男の首を吐き捨てる。金色の瞳を憎悪に細め喉を鳴らす白狼に、二頭の狼が慰めるように寄り添った。
――教団のものよ、覚悟せよ。
逃げられる術はない。目印は既に広まった。なまなかな手練れごときに、この網を抜けられはしない。
猟師のごとき隠密なれば、潜り抜けられもしようが――




