不退転の導師
「だぁあああああ、くそッたれめい!」
裏路地の闇に紛れて撤退する。口から垂れ流すのは意味をなさない罵詈雑言、言ってる自分も別に意味など求めてはいない。ただ、内心の鬱憤を吐き散らさなければ気が済まなかった。
標的どころか護衛の竜騎士に傷一つ負わせられなかっただと? これでは本気で粛清ものではないか。
ままならない状況に歯噛みする。あるいは姑息な手に出て易々と退けられた自分の惨めさに最悪の気分になった。
理解していた。理解していたとも。ただのごろつき程度でどうにかなるなら、イブラヒムはあそこまで頭を痛めていない。ましてや傍につくのが現役最年少の麒麟児、アーデルハイト・ロイターだ。一筋縄でいくはずがない。
それでも万が一を期待してけしかけた結果がこれである。今後の展開を考えると本気でむかっ腹が立ってきた。
恐らくは最後の絶好機だというのに、時間が経つほどアリシア・ミューゼルの周囲は固められる。そして城の中に籠られたら手の出しようがない。侵入しようとしても身体検査は免れず、標的の周囲には常に護衛が張り付くだろう。監視の目を掻い潜って隠し持った短剣でどうにかなる相手ではない。
いよいよ本当に玉砕覚悟の特攻しか手が無くなってきた。そうならないため拙速に動いたというのに、まったくの逆効果だ。
まずい、まずいなんてものではない。
これでは――――イブラヒムに生きる目が無くなる。
「だからってどうするよ。こちとら戦闘なんざ碌にできねえ下っ端でただの運送屋だ。あんな騎士様とやり合ったら一瞬で首が飛ぶ。だったら――
ああくそ! 落ち着け俺! クールだ、クールになれビークール!」
頭を掻きむしって頭を悩ませても、まるで考えなど纏まらなかった。時間はない、採れる手は限られている。そんな中であの娘を仕留めて無事に逃げ去るだと? 一体どうやって?
「こうなったら北の魔物をけしかけてスタンピードでも起こすか? でもそれだと纏めて竜騎士に焼き払われるだけだ。だったら――」
「いや、その必要はない」
不意打ちのようにかけられた言葉に、思わず露天商の思考が止まった。
視線を上げる。路地裏から大通りに出る入口に、見慣れたなりの男が佇んでいた。
「い、イブラヒムの旦那ぁ? いつからここに?」
「つい先ほどからだ。……お前には、慣れぬ手間をかけさせたようだな」
歩み寄るイブラヒムの口調は、不思議なほど穏やかだった。えもいわれぬ予感が頭をよぎる。湧き上がった焦燥に釣られて露天商は言い重ねた。
「し、これ以上は打つ手なしですぜ旦那。 一旦渓谷に引き返して日を改めましょうや。一年もすれば警戒も緩む。その時にでも狙えばいい。まだ草だって何人か残ってるんだ、それをとっかかりに人を紛れ込ませれば――」
「いいや、それには及ばない」
イブラヒムが言った。巌のような決意を眼に滲ませ、八咫の導師は決定を告げる。
「我らはこれより、かの標的へ猛攻をかける」
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援護射撃はこれにて打ち止め。あとは自力で生還するように。
そんなふざけた捨て台詞を残し、風精霊はきゃらきゃらと笑いながら飛び去っていった。そんな姿に殺意を覚えたのは間違いではないと思う。
「あっ、そこの姉ちゃん! さっきからその路地裏で変な爆発音みたいなのが聞こえるんだ。一体何が起きて――」
「失礼、退いて!」
「いっだぁ!?」
好奇心で声をかけてきた青年を突き飛ばし、アリシアの手を引いて道を急ぐ。謝罪はあとだ、今は一刻も早く城に戻りたい。
大通りに出たアーデルハイトは周囲の喧騒を見て取り、思わず舌打ちを漏らした。……場所が悪い。
富裕層が営業し日暮れに店の多くが戸を閉める主要通りと異なり、ここは比較的中流層が利用する下町通りだ。飲食店や酒場、露店で賑わうこの通りはいまだ人混みがある。これに暗殺者が紛れ込んで襲いかかってきたらと思うと背筋が寒くなる。
「……こちらです、姫様」
「うん……」
「おい、ちょっと――」
剣を鞘に納め、少女を促してできるだけ人混みの少ない道端を通ろうと歩を進める。それでも何度か誰かとぶつかりそうなったほど、この通りの人混みは激しかった。
申し訳ない思いではあるが、前に立ち塞がる人間は強引に押し退けた。文句をつけてくる男たちは睨みつけて退散させる。
それでも、
「なあ姉ちゃん! そんなに邪険にしなくたっていいだろ! あの路地裏で何があったのか教えてくれるだけでいいからさ! ついでにそこの店で一服してかない?」
「――――っ」
最初に入り口でぶつかった青年がいつまでも食い下がってきている。こちらは帯剣しているというのに見えていないのか。あまりのしつこさにうんざりする思いだった。
ついに堪え切れず、一喝しようとアーデルハイトが振り返ると、
「姉ちゃん、危ない後ろだ!」
「な……っ!?」
背後に殺気、振り返る。
人混みに紛れて迫りくるフードの男。反りのある短剣を手に振りかざしている。
振り返ったアーデルハイトが意外だったのか、暗殺者は動揺した様子で硬直し、
「ふ――――ッ!」
その隙を見逃す竜騎士ではなかった。
ひと息に踏み込み掌底を胸元に打ち込む。掌には火炎、解放した魔力は指向性をもって直進し、暗殺者の肋骨から心臓までを焼き尽くした。
声もなく倒れ伏す暗殺者もそのままに、アーデルハイトは振り返った。警告を発してくれた青年に一言礼を言おうと視線を向けると、
背中から短刀を引き抜き、少女の肩に手を乗せて陰惨な嘲笑を浮かべる青年と目が合った。
「え――――?」
「間抜け……!」
呆気に取られる竜騎士を尻目に、青年は短刀を煌めかせた。狙うのは青年の眼前に取り残されたアリシア・ミューゼルの背中。突然の荒事で彼女の注意は完全にアーデルハイトの殺した暗殺者に向いていた。短刀を振りかぶる青年にいまだ気付く様子もない。
「待っ――」
手を伸ばす。でも届かない。魔法の射出はアリシアまで巻き添えにするかもしれない。――その躊躇いが致命的だった。
打つ手はなく、伸ばした手は虚しく空を切り、
「間抜けはお前だ、五流未満……!」
唐突に飛来した鋼の斧が、青年の額に突き立った。
紅い影が走った。残像のように紅銀の粒子が噴き上がり、見るものすべてを圧倒する。
視界を掠める誰かの背中。外套に描かれた交差する斧と剣、見慣れないシンボルが目に焼き付いた。
疾走する猟師は絶命した青年など目もくれず、青白い閃光とともに二振りの牙刀を掴みとる。
肉薄するのは通りすがりの肥満の巨漢。キョトンとした顔がやけに印象に残った。
薙いだ短刀は膨れ上がった腹を裂いた。鮮血が飛び散るかという予感は、しかし代わりに傷口から零れ出る大量の鉄針に裏切られた。
……味方がいたのか。膨れた腹に見せかけて、凶器を革袋に収めた。
驚愕するアーデルハイトを置き去りに、猟師は返す刀で巨漢の心臓を貫いた。反撃を許さず、断末魔を上げる間すら与えない鮮やかな手口。どすん、と重々しい音を立てて巨漢が倒れた。象牙色の短刀を引き抜いた胸の傷から、じわじわと血だまりが広がっていく。
「――――さて、言いたいことは色々あるが、まずは一言」
……あぁ、そうだ。この人はいつもそうだった。
毒を受け、未だ癒えきらぬ満身創痍。荒い息に上下する肩。足元は発熱でふらつき、手元は細かく震えている。
決して見栄えがいいものではない。決して無敵などという存在ではない。
――それでも、誰よりも頼もしい背中がそこにある。
「よく頑張ったな、ハイジ」
あなたの隣に立ちたい。あなたと肩を並べたい。あなたに背中を預けられたい。
私は――――いつかは、そんな存在になれるでしょうか。




