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PHOENIX SAGA  作者: 鷹野霞
闇に踊る護り手
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突き立つ毒牙

 ハスカール新城への侵入は困難ではない。事前に買収した出入りの商人の荷に紛れ、食糧庫に潜入を果たせばほぼ完了といえた。

 なにしろ見回りの兵たちは戦闘力に優れた『鋼角の鹿』とはいえ、お世辞にも索敵に優れたスキルを有しているというわけではないからだ。古参の傭兵ならば余技として目を養っていることもあるが、今や辺境伯の正規軍として拡大を始めている彼らには望むべくもないことである。そしてそういった『眼』の優れた団員たちは、イアン・ハイドゥク団長やその家族、あるいはクラウス・ドナート執政の警護に張り付いている。他が手薄になるのも仕方のないことだった。

 あの猟師の指揮下にある猟兵ならば、それなりに感知に長けた人材もいるのだろう。あの男の隣によくいるエルフなどまさに要警戒で、通常ならば視界を掠めることすら避けるべき相手だった。


 しかし、今ならば。

 彼らの上司であるあの猟師が毒に倒れ、警護対象であるアリシア・ミューゼルが失踪を遂げた今なら、付け入る隙は大いにあった。

 その上、標的がもとより無警戒なあの男であるならばなおのこと。


「ふ…………」


 煉瓦組みの城壁、外側から真新しい漆喰が塗られ、ただでさえ手掛かりのない白い壁に、篭手に仕込んだピッケル状の器具を打ち込んでよじ登る。あとに残る痕跡は指先ほどの大きさの小さな穴が点々としているのみ。後日になってこれを見た人間も、築城早々にできた虫食いと思い込むに違いない。

 夜闇に紛れるよう黒ずくめの衣装に身を包み、息も切らせずに軽々と壁面を登る提婆の口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。


「無様なものだな、イブラヒム……」


 これしきの潜入に手を焼いて頭を抱えるなど、あの男も焼きが回ったのではないか。

 見るがいい、警備の素人など所詮はこの程度。城壁の上を巡っている若者など目を凝らしているのは外側に対してだ。内側の城壁に蜥蜴のように張り付く不審者など気付きもしない。


 目の敏い男が警備を務めていた? ……馬鹿馬鹿しい、もろとも殺してしまえばいいのだ。現にあの男が倒れた途端、事態は彼らの手から離れた。制御の利かぬお転婆姫は出奔し、エルフの副官は障害たりえた猟兵そのことごとくを捜索に充てている。思い切りがいいというべきか、後先考えぬ愚行と見るべきか……。

 あとに残ったのはもぬけの殻の新城、あの猟師にとどめを刺すなど造作もない。

 毒の一刺し、服に縫い込んだ毒糸一つでこの有様である。こんなものにかかずらうイブラヒムは、やはり導師の器ではなかった。


「――そう、なにが八咫だ。多少剣の腕が立つから、なんだというのだ」


 壁に杭を打ち身体を引き揚げながら軽く毒づく。……標的の寝込む部屋の窓まであと少し。


 暗殺教団は、在り方そのものが歪だ。藁を意味不明に信奉する教義、いざとなれば白兵戦をもって強引に殺害を達成しようとする手口、透視の魔眼に開眼すれば問答無用に敬われる慣習。なにもかもが暗殺者として異常の極みにある。

 気付かれず、悟られず、時には見せしめのように悶絶させたうえで衆目のもと手品のように謀殺する。――それが本来の暗殺ではないのか。


 だからこその毒薬、だからこそ提婆の手腕が光るというのに、教団でそれを認める人間はあまりにも少ない。

 使用人に扮し料理に毒をふりかけ、衣服に劇毒を塗りたくり、じわじわと身体を蝕み標的が狙った瞬間に倒れるように調整する。……提婆のやり口を周囲の人間は卑怯だの陰湿だのとなじる。馬鹿馬鹿しいことに。

 暗殺者に剣の腕など不要だ。逃げ惑う脚の速さも無駄の一言。人知れず背中を刺し、人知れず去る人間に剣を振るう間も走る余地もない。そもそもが必要がないのだから。


 謂れのない中傷を受けた。――提婆に暗殺の腕はない。毒を盛るだけが能の、素人も同然の薬師に過ぎない、と。


 ――ほざいたものだ。ならば証明してやる。貴様らの導師が手こずっている男を、この手で殺して。

 お前たちの大好きな短刀の一撃で心臓を突き殺してやろう。この提婆が毒にだけ長けているのではないだと、頭に藁しか詰まっていない無能どもに見せつけてやる。

 さすれば、自分につけられた『提婆達多』なる汚名も――


「――――」


 からり、と窓枠を押し上げて、提婆はその部屋に侵入を果たした。

 夜も更け薄暗く明かりは燭台の灯が廊下から扉の隙間から入り込む程度、猟兵たちはアリシア・ミューゼルの捜索に出払い、人間の気配はあまりに稀薄。少なくとも、多少の悲鳴が漏れても誰かが駆けつけるなどということはあるまい。


 そして、寝台には、


「――――くくっ」


 赤毛の猟師はいまだ毒に臥せっていた。

 力なく横たわった姿は存外行儀よく、まるで埋葬前の死体のようにも見える。しかし浅く微かに胸が上下しているところから見て、辛うじて生きてはいるのだろう。

 逆に、乱雑に散った赤毛は湿気にもつれ、相当毒に苦しめられたのだと察せられた。

 こけた頬に、半開きの唇は渇いて罅割れ、何もしなくともこのまま死んでしまいそうだ。

 目を覚ます気配はない。あの劇場であれほど存在感を放っていた猟師は、拍子抜けするほど弱々しい姿で眠り続けていた。


 ……当然だ。この提婆の毒を受けたのだ、易々と動き回られてたまるものか。


「滑稽だな、猟師。貴様が死ぬのは華々しい戦場でも、家族に囲まれた寝床でもない。薄暗い物置のような、粗末な使用人部屋だ」


 込み上げる喜悦が抑えきれない。……なんたる無様か。傭兵団の双璧のひとつ、由来は定かではないが『紅狼』とまで称された男が、自分の毒でここまで衰弱している。


 ――そして今、この男にとどめを刺すのは他ならぬ私なのだ……!


「強いて言うなら。少々残念ではあるよ、猟師。貴様が間抜けな引っかかり方をしなければ、私と貴様との知恵比べが有り得たのかもしれない。

 無論、負ける気はしないが」


 腰から短刀を引きぬく。黒く艶消しを施した短刀には、当然のように猛毒を塗りたくっていた。傷跡から腐敗を始めるこの呪毒は、いわば提婆の刻印のようなもの。

 この男を殺したのは、他の誰でもなく(・・・・・・・)この提婆であると、そう証明するためだけの毒である。


「さらばだ。――――安らかに、毒の地獄を味わって死ね」


 振り下ろす。慣れた手つきで落とした刃は、狙い違わず猟師の胸を貫いた。手応えからして肋骨の間をすり抜け心臓を破壊したと確信する。これで殺し損ねたなどということはあるまい。

 びちゃり、と返り血が胸から噴き上げた。暗闇の中、色も定かに見えない鮮血が飛び散り、ひやりとした感触が提婆の右手にぶちまけられ――


「――――なんだ、これは……?」


 ……待て。何かがおかしい。

 湧き上がってきた違和感に困惑する。


 確かにこの男の心臓を突き刺した。確かにとどめを刺したのだ。

 目の前にあるのは冷たくなったただの死体。自分は確かに任務を果たした。

 しかし――


 何故、心臓を破壊した死体からこれほど勢いよく血が噴き出る?

 何故、先ほどまで生きていたはずの身体から出た血が、これほどまでに冷たい?

 何故、出血の量からして部屋いっぱいに充満するはずの血臭が、それほど拡がらない?

 何故――――先ほどから向けられている異様な圧迫感に、自分は覚えがあるのだ――――!?



「――――ハイ残念。大外れに間抜けが釣れたようだ。

 もう少し人間観察を磨いた方がいいんじゃないか、五流?」



 言葉を失う暗殺者の背中に、皮肉交じりのからかいが浴びせられた。

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