眠る男、立ちすくむ少女、煽る女
出来たばかりで軋みすら上げない扉を開くと、明かりのない暗闇が部屋を支配していた。
質素な部屋だ。ハスカールの新城、その一角にある使用人用の居室である。未だ入居者のいないそこに生活感などはなく、備え付けのベッドと衣類棚以外の家具もない。
本来持ち主のいないはずの寝台には、一人の男が横たわっていた。
普段は無造作に縛っている赤い髪をほどき枕に垂らしている。規則的に上下する胸以外は微動だにせず、まるで死体か人形のような雰囲気すら漂わせていた。
目を覚ます気配は、いまだにない。
――アリシア・ミューゼルに届けられたドレスに仕込まれた毒に猟師が触れ、昏倒してから丸一日が経っている。
できるだけ音を立てずに扉を閉め、エルモは溜息をついた。
今日一日だけで何度この部屋に入ったことか。そのたびにこの猟師が起き出していないことに落胆している自分に、言いようのない苛立ちを覚えた。
「――容態はどう?」
「落ち着いています。少なくとも、うかされている様子はない」
答えたのは、寝台の傍らに腰掛ける竜騎士の少女だった。
男の手を握りしめ片時も目を離さないアーデルハイトの顔は、やややつれているようにも見えた。
それもそうだろう。薬師の老婆が到着し解毒薬を調合するまでの間、彼女は体力を削る勢いで回復魔法を行使し続けたのだから。
猟師が倒れた瞬間のアーデルハイトの取り乱しようといったら、まるで母親を失った子供のような有様だった。――いや、逆か。男の上半身を抱きかかえ、近寄ろうとする者すべてに殺気を叩きつける姿は、幼子を守ろうとする母親のような。
……こうも立場が逆転したんじゃ、いつも保護者面をしていた猟師も形無しね。
そんなことを考えて、エルモは微かに苦笑を漏らした。あの男は子供に甘いが、付き合いの長い彼女には特にこだわりが強いように思う。もう子供とは言えない年頃だというのになかなかそうと認めたがらないのは、逆に彼女を特別視しているという証拠ではないか。
その疑問に答える猟師は、いまだ昏々と眠り続けている。
いつも猟師について離れない白狼はここにはいない。男が倒れた瞬間こそ甲高く鼻を鳴らして張り付いていたが、気が付けばいつの間にか姿を消していた。
白狼が消え、残されたのは毒に苦しむ猟師と裾の一部が喰いちぎられた真新しいドレス。何をする気なのかはわからないが、きっと何か考えがあるのだろう。
なんにせよ、今気にするべきはもとより当てにもしていない狼ではない。ましてや今や戦力外の猟師でもない。
問題は――自分のまさに目の前、今にも首を括って後追い自殺でもしそうなほど消沈しきった女竜騎士だ。いい加減立ち直って警護に戻って貰わなければ、今度こそ致命的な隙を晒しかねない。
エルモはあえて平静を装って言葉をかけた。
「起きるかしら? そいつ」
「わかりません。薬師様は手を尽くしてくださいましたが、いかんせん初めて見る毒だそうで。……過去にコーラルが持ち帰った短剣毒と似ているとのことで、それを参考にしていると」
「起き出す予兆もない、と。厄介ね……」
正直に言えば、頭を抱えたくなる。
冗談めかして言ってみたものの、あの猟師の鼻の利き具合は尋常ではない。一体どんな経験を積めばあんな風にここ掘れワンワンと工作員を見つける目を養えるのか。
そういえば、リアルでの職業についてはあの男は言葉を濁してばかりだった。……用心棒だの手品師だの人形師だの、果ては喫茶店の店員で糊口をしのいでいただのと、碌に真面目に答えたことがない。
そんなちゃらんぽらんな猟師だが――――あの男がいないとなると、こちらの目の大半が潰されたことになる。
構成員を片っ端からしょっ引かれた暗殺教団がどんな強硬手段に出るかわからない今、猟師の昏倒はこれ以上ない痛手だった。
「あーあ、まったく使えない。こういう状態異常で寝込んでる時は掲示板も使えないのよね。せめて周りの何に気を配ればいいのか、アドバイスだけでも寄越してもらいたいもんだわ。……なによ、毒喰らって戦線離脱とかネトゲ初心者かっつーの。食中毒でもおむつ片手に画面に張り付くのがゲーマーでしょうが」
「――――あなたは」
もっとも、そんな人生を真っ向から投げ捨てたようなゲーマーなどお目にかかったこともないが。
あくまで軽々とした調子を崩さず、冗談めかすとはいえ病人を罵倒すらするエルモに、若草色の少女はわずかに苛立った様子を見せた。気にせずエルモは軽口を叩き続ける。
……これは挑発だ。いつまでも呆けたままの竜騎士には、荒療治が適当だろう。
参考にするべきは猟師の言動。なんだかんだ言って、きつい言葉で発破をかけるのはあの男の常套手段だったっけ。
「ほら、あなたもこんなところで油売ってないで、姫様のお世話でもしてたらどう? 今日一日は私が相手してたけど、子供の相手なんて肩が凝るったら。おまけにあの子も責任感じてるみたいだし? 別にあの子のせいってわけじゃないのに、見当違いな話よねぇ?」
「――あなたは、何も思わないのですか?」
苛立った目つき、握りしめた拳。
アーデルハイトはようやく猟師の寝姿から目を離し、エルモを敵意に満ちた視線で睨むように向き直った。気が惹けたことに内心胸を撫で下ろしつつ、エルフは大袈裟に目を見開いてみせる。
「何もって、何を?」
「今ここで死にかけている彼のことだ。聞こえなかったのですか? 有効な解毒薬は処方できていないと。今だってそう、見た目は落ち着いてはいてもいつ容態が急変するかわからない。――そんなこの人を見て、あなたはそうやって下らない軽口を……。
不愉快だ。どうしてあなたは、仲間の危機にそうやって平然とふざけていられるんだ」
「――――ハ」
弾劾じみた少女の言葉に、エルモはあえて口端を吊り上げる。
……どうして平然としていられるかって?
そんなもの、理由なんてはっきりとしている。
「馬っ鹿じゃないの? どうしても何も――――これが、遊びだからに決まってるでしょ?」
「は――――?」
フィッシュ。
自らの言葉が会心を捉えたことを確信し、エルモは密かにほくそ笑んだ。
――――たまには、猟師流も悪くない。




