死の咆哮
「お前……」
息を呑む。あまりのことに言葉を失った。
振り返れば満身創痍の黒狼の姿。
一体どこにそんな力が残っていたのか、息をするのも苦しいはずの獣は、よろめきながらも立ち上がり俺の腕を甘噛みしていた。
……何を考えている。どうしてお前は立っている。
足は小刻みに震えて今にも折れそうな有様。篭手越しに腕に伝わる息遣いは浅く荒い。
血が足りていない。自分を見てみろ。腕を咥える顎にすら力が籠らず、まるで歯の根が合ってないだろうが。
大人しく寝ていればいい。ここは俺がどうにでもしてやるから、お前は大人しく倒れていろ。
腕を引く。衰弱した狼の顎だ、容易く外れるはずだったそれは、狼が諦め悪く食らいついて離れなかった。見れば黒狼は緩やかに尻尾を揺らしてその感情を表していた。
僅かに苛立つ。こんなことをして何になる。今は遊んでる暇はないというのに。
叱りつけようとして――――その瞳と目が合った。
俺を見上げる、火のように赤い瞳。
毒が回りもはやろくに見えやしない黒狼の目は、いつか俺に悪戯した時のようにふにゃりと細まって、
「――――やめろ」
何をする気だと、制止する声など聞きもせず。
腕を離した黒狼は、振り返りもせず前に立った。
「――――――」
震える四肢を踏ん張って仁王立つ。
逆立つ赤黒の体毛がゆらりと熱気を放った。
肩をいからせ、牙を剥いて。あの灰色の子であることを誇るように、どこまでも気高く。
死体のように冷え込んだ体温だというのに、牙の隙間から漏れる吐息は白く煙っていた。
――ただ、熱い。
鬼気迫る黒狼の後姿。圧倒される俺は、ただその熱気に目を奪われた。
まるで文字通り、地獄で命を燃やすように。
大狼の名もない子供は、ひたすらに熱く、熱く、熱く、熱く――――!
――――ォォォォオオオオオオオオオオオ……ッ!
黒炎が噴き上がる。
剥いた牙、大きく開いた口腔から吐き出された業火。
触れるものすべてを焼き尽くす決死の火炎は、あの娘の潜む闇を容易く切り拓き、瞬く間に塗りつぶした。
●
焼け野原。そう形容するほかない。
黒狼が放った火炎は、目の前の光景を文字通り焦土に変えた。
立ち込める白煙、黒く燻る炭のような地面。それ以外に何もない。
立ち並んだ木々も、敷き詰めた落ち葉も、影に潜んでいた生き物の残滓も、あの火は全てを焼き払っていた。
そんな光景を前にしながら、俺はひとつのもの以外何も目に入らなかった。
――――力なく倒れ伏す、一体の狼。
脱力した四肢は投げ出され、ぴくりとも動かない。
緩やかに閉じた瞼は、まるで眠っているかのように穏やかで。
「――――――おい。なにやってんだ、お前」
歩み寄る。黒狼の傍らに膝をついて、震える声で話しかけた。
「なに寝ぼけてやがる、さっさと起きろ。こんな時にふざけてるんじゃない」
なあ、おい。起きろよ、この馬鹿狼。
一体、誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ。
お前、しらばっくれて狸寝入りしてる場合か。
起きろ、起きろよ、馬鹿。
これを見ろ、お前の涎で腕がべとべとだ。あとできっちりお仕置きしてやるからな。
兎の肉があるんだ。ウォーセには皮を剥いだ奴をやるんだが、お前は毛皮付きを食わせてやる。食べにくいぞ、ざまあみろ。
だから、なあ。起きろよ、さっさと。
お前だけだ、ウォーセの同年生まれでまだつがいがいないのは。行き遅れはお前だけだ。
これから相手を捜していくんだろう? こんなぐうたらしたところ見られて恥ずかしくないのか。
だったら……なのに、どうして、こんな。
手を触れる。黒い毛皮は急速に暖かみを失っていって、脈打つ鼓動などどこにも感じられない。
黒狼は、俺の目の前で事切れていた。
「あぁーあ、びっくりした! そのお犬さん、まだ動く元気があったんだね!」
声が聞こえた。あの少女、あの火炎を受けて生きていたらしい。視界の端に、焦げ付いた服から煙を上げる少女の姿が見えた。
手を伸ばした。そっと黒狼の頭に掌を当てて、労うように撫でる。
「まったく、ひどいことするよね。お兄ちゃんから貰った炎除けの御守りが台無し! ニアの宝物だったのに! ――でも許してあげる。そのお犬さん、戦力値が300もあったんだ。きっとお兄ちゃんからも褒めてもらえるもん!」
「――――」
耳障りな声が聞こえる。羽虫のようにどうでもいい囀りが。
お前のことなどどうでもいい。有象無象は黙っていろ。
こんなに騒がしくては――――別れを悼むことも出来やしない。
「お犬さんは許してあげるよ。でもおじさんは駄目だよ。ニアの邪魔をしたんだからその分は返して貰わないと! ……えっとね、損害賠償っていうんだって」
「――――――、……」
痛かったなぁ、苦しかったなぁ、辛かったなぁ。
――悔しかったよなぁ。
こんな娘に邪魔されて、つがいも持てず子もなせず、こんなところで。
御免な、御免な。
本当に、済まなかった。
暗黙の、などといわず、もっとちゃんとした形で半島中にお前たちのことを広めていられれば。
人間を襲うな、なんて雑な言い含めなどしなければ。
言うことを聞いてくれるからと、お前たちの厚意に甘えていたから。
「……さっきからどうしたの? ぶつぶつぶつぶつ、声が小さくて聞こえないよ、おじさん?」
「――――す……」
馬鹿みたいな気遣いをしただろう、お前。
お前を庇っているから、俺はあの娘にいいようにやられていると。
あんな炎を吐いたところで、あれを仕留められるかは賭けになる。――だから、あの炎は攻撃のためのものじゃない。
自分が足手まといだから、枷になるから、お前はそれが我慢ならなくて自分で死を選んだんだ。
偏屈というか、誇り高いというか。まったく……本当にお前は、あの灰色の娘だよ。
馬鹿な気遣いだ。そんなもの、怪我人のお前がやってどうするんだ。
でも――――それが。
それがお前が最期に残した意志だというなら。
俺はそれに、応えないと。
「まあいいや。そのお犬さんから離れてよ。死体を持って帰ってスキルを剥ぐんだ! 邪魔しないならおじさんだけは見なかったことに――」
「――――――殺す」
踏み込んだ。
膝立ちの状態から両脚と両腕、全てを使って跳躍し間合いを詰める。紅銀を纏った身体は三間の距離を一瞬でゼロにした。
右手には抜き放った牙刀。呆然と立ち尽くす小娘の喉元目がけ、一直線に――
「きゃっ――!?」
躱された。身を竦めて捻じった少女の肩を掠め、空ぶった短刀は背後の木の幹に突き立った。
――否、突撃の勢いを余さず叩き込まれた一抱えほどの木の幹は、木片を飛び散らせながら真っ二つに圧し折れる。
「な……ッ!?」
「騒がしい。――だが、黙れとは敢えて言わない」
驚愕の表情で間合いを取ろうとする小娘に、俺は言葉を投げかけた。
目も耳も冴えている。手足は傀儡のごとく思いのまま。激した心はそのままに、頭は奇妙なほどに凪いでいた。
「今生で囀れる最期の機会だ。……精々、悔いの無いよう泣き喚け」




