酔いは醒めたか
木の杭 品質:F 耐久:F
伐採した木の幹の先端を尖らせただけの物。
一応の加工として表面をやすり掛けし滑らかにしてある。
武器として使用するものではなく、地面に打ち付けて目印とすることを用途としている。
その重量を利用して武器として用いることは可能だが、甚だ不合理である。
長さにしておよそ二メートル強。太さは一抱えもあり下手な電灯を上回る。当然重さも見事なもので、支える腕がぶるぶると震えた。尖端は四方から斜めに切り込みを入れただけのもので、形だけを見れば本当にただの杭だった。
……武器のつもりで持ってきてはいなかった。実際、攻撃値なんて設定されていないし。
これは本来、今まで狩った獣を弔う塚に墓標代わりに突き立てるため、鍛冶屋に頼んで樫の木から切り出させたもの。こんな行き詰った状況でなければ、馬防柵代わりにしようとすら思うまい。
だが今はこれしかない。
杭の反対側を地面に下ろし、足で踏みつけて固定した。……これで奴が突っ込んできたところを正面から迎え撃つ。あの速度だ。捉えれば最後、自重と勢いで致命打を与えうるだろう。
―――ブェエエエエ! と、猪が咆哮を上げた。真っ向から突進してくる。この杭など一顧だにしない。まるでとるに足らないとでも言いたげに。
迂回する気か。跳び越える気か。あるいは毛皮の強度に任せて杭を圧し折る気か。どちらであろうがもはや関係ない。片膝をつき半ば蹲った状態。抱き着くように木杭を支え、またを大きく開き片足で根元を踏みつけている。こんな体勢では跳び退ることも横転して軌道から逸れることも難しい。
獣が目前まで迫る。毛皮越しにもその躍動が伝わってくる。後ろの腿の筋肉がひときわ隆起するのを見て取り、
―――跳び越える気か……!
前脚が浮いた。視界いっぱいに猪の腹が広がる。全身をたわめ、その筋力の全てを後肢に伝え地面を踏み抜き―――
―――ずるりと、そのひずめを滑らせた。
四肢が泳ぐ。本来上方への跳躍に費やされるはずだった運動エネルギーは十分な変換を得ることが出来ず、即ち、身体は突進の勢いをほとんど減じることなく前方へ流され、
「ギィェ―――!?」
木の杭が胸の中心に突き刺さった。
……仕掛けは実に単純。水を撒いてそこを猪が走り抜けるように誘導し、凍らせて足を滑らせた。ただそれだけだ。
水を凍らせる方法は先代の冊子に記してあった。中の粒子を整列させ、静止させる。……科学的知識を持つプレイヤーならむしろ理解は容易いのだという。
……これで終わってくれる相手ならいいのだが……
―――ずぶずぶと得物が体内を突き進む感触。地面につっかえた杭が、勢いに押されて地面を掘り返しながら後退する。必死になって押さえつけ、少しでも深く杭を押し込もうとする。
≪経験の蓄積により、『長柄武器』を習得しました≫
≪スキルレベルの上昇により、技量値が上昇しました≫
≪経験の蓄積により、『長柄武器』レベルが上昇しました≫
≪スキルレベルの上昇により、技量値が上昇しました≫
≪経験の蓄積により、『長柄武器』レベルが……≫
≪…………≫
アナウンスが喧しい。今は生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに。
びくんびくんと宙に浮いた前肢が暴れ回る。ひずめが顔面を掠めて、流れた血が視界を赤く染めた。
まだ終わっていない。殺せていない。
心臓をやられても死なないのか。それとも心臓に届いてすらいないのか。
二メートルある杭に、中ほどまで貫かれながら、大猪は存命だった。
「本―――っ当に、お前は……ッ!」
自らも咆哮を上げる。その異常な生命力に気圧されないよう己を奮い立たせて、杭を持つ手に力を込めた。
進まない。どれだけ押し込んでも杭はもはやびくともしない。
このままでは抜けるかどうかも怪しいものだ。もはや致命傷。このまま放置すればこの獣はじきに息絶えるだろう。
だが、杭越しに感じる脈動が、明確な憎悪を浮かべるその眼が、このままでは終わらせないと語っている―――
「―――ォ」
手を離した。
もがく前肢を避けて後退。猪は後ろ足と杭のみで直立した状態。杭は深々と地面に埋まり、そう簡単に動くまい。
弓を引き絞るように構えをとり、正面から突進する。暴れる脚を掻い潜り胸元へ潜る。
狙いは胸元。杭に穿たれながら血を噴き上げ、今も広がり続けるその隙間。
「―――ォオオオオオオ!」
雄叫びとともに貫手を放った。杭の表面を滑るように辿り、指先は胸の傷に侵入を果たした。
突き進む。突き進む。生暖かい獣の体内の奥深く。
ひしゃげた杭の表面が掌を切り裂いたのがわかる。砕けた肋骨が腕をずたずたにしていくのがわかる。
視界はない。熱湯のような血しぶきを顔に浴びて何も見えない。その代わり、右腕から伝わる痛みだけが鮮烈だ。
突き進む。突き進む。決して止まるものか。決して折れてたまるか。
これは意地だ。そう意地だ。相手はもう死に体だとか、そういう話ではない。相手が諦めず足掻く以上、それに付き合わずしてなんとする―――
―――そして、そこに辿り着いた。
手に触れる。ひときわ熱く脈動する何かの感触。心臓だろうか? 何でもいい。どうでもいい。
これは奴の最期の熱だ。これを断たなければ勝ったとは言えない。
だから―――
「死ね」
何かを掴む。魔力を放出する。尽きたMPの代わりにHPが削れていく。腕から出た血が滲み獣の体内で混ざり合うように、猪の内部を俺の魔力が侵食していく。
抵抗は微小だった。恐らくは精神系の状態異常の弊害。それに猪のステータスにMPがない点、さらに今まさに掌握しようとしている魔力の炉がアンバランスなほど小さい点から、恐らくこいつはこういった魔法的事象に縁遠く、抵抗値が低いのではないだろうか。ゲーム的に言うなら攻撃と敏捷の特化型。さらに毛皮が強固な鎧となって鬼に金棒。……洒落になってないんでもっと控えめに生きてください。
―――感じ取る。獣の体内に流れる循環を。
魔力は血液に混じり合い全身に供給される。ゆえにこれらを正確に感知すればCTじみた精度で対象の動きを把握できる。
俺はもはや自分のものに染まり切った猪の魔力を掌握し、
―――その流れを停滞させた。
血流が止まる。胸の傷から噴き上がる血しぶきすら勢いをゆるめた。
びくびくと断末魔のごとき痙攣。生臭い呼吸はほとんど意味をなさない。血を止められては肺腑など歯車の壊れた水車と同じ。
猪がその動きを完全に止めたときには、一分が経過していた。
後ずさる。猪から腕を引き出す。傷口からずるりと姿を現した右腕は酷いありさまで、これってほんとに治るのか心配になってきた。腕全体に砕けた骨やら木片やらが突き刺さってるし、こびりついている肉片は猪のものか自分のものか判別付かない。軽くスプラッタである。
やっちまったと左手で頭を抱えようとしたところで、
「あ……?」
失われる平衡感覚。まだ昼間だというのに薄暗くなる視界。
そういや残りHPは一桁にまで削れてたっけと頭を巡らせたところで、俺の意識は断絶した。