流浪の聖騎士
風の吹きすさぶ荒野に、一人の男が蹲っていた。
一見して騎士のような外見をしている。鍛え上げられた全身に白銀の甲冑を纏い、金の縁取りの施された蒼いサーコートで覆っていた。
物々しい兜に覆われ、表情を窺うことはできない。
騎士のような、と表したのは、男の風体が騎士と呼ぶにはいささか異様な点があったからだ。
まず、その重々しい甲冑姿に反し、それを運ぶはずの馬の姿がどこにも見えない点。そして男の手に剣も槍もなく、得物どころか盾の一つも帯びていない点である。
乗騎もなく、得物もなく、従者もなく。白い騎士は荒野にひとり膝をつき、
「ぐ、ぶ――――ッ!」
男が大きく身を痙攣させた。えずくように身を屈め、大きく息をつく。顔を隠す兜の隙間から、苦鳴とともに夥しい量の鮮血が溢れだした。
「――――無様だな、ミカエル」
いつの間にそこにいたのか。また一人の男が騎士の正面に立っていた。
人間ではないのだろう。外套から覗く右腕、その途中から生える甲殻質な鋏は生き物のように生々しい質感で、男の息遣いとともに緩やかに開閉している。
浅黒い肌に描かれた幾何学模様の刺青は、まるで何かの呪いの文言のようだ。
――――魔族。
聖騎士ミカエルが騎士団を脱してから戦い続けてきた宿敵が、まるで勝者のように身をそびやかしている。
距離にしておよそ二十歩。往時のミカエルなら一瞬で詰められる間合い。それが今では、まるで地の果てのように遠い。
魔族の放った一撃は無防備なミカエルを正確に捉え、身動きすらままならないほどのダメージを与えていた。
「剣を奪い、馬を遠ざけ、動きを封じれば聖騎士と言えど他愛ない。――なるほど、貴様に人質は特に有効だったようだな、高潔な騎士殿」
「貴、様……!」
「ミカエル……ッ!」
皮肉気に魔族が言い、外套を翻した。露わになった中身には、五つほどにもならない少年の姿が。
日に焼けた肌、粗末な衣服。近くの村から攫われた少年は、聖騎士を誘き出すための餌につかわれていた。
腕を後ろ手に縛られ、拘束された少年の顔は悲痛に染まり、目にいっぱいの涙を溜めている。
「ミカエル! もういいよ! オレなんてかまわず、こんなヤツ……!」
「駄目だ! それ以上言うな!」
「そうとも、あまり騒いでくれるなよ、マウノ少年。耳障りが過ぎると、思わずその頬を引き裂きたくなる」
暴れ出そうとする少年に右の鋏を突きつけ、魔族が言った。
「しかし、あまりにも呆気ない。あれほど我々をてこずらせた聖騎士が、人質一人でこのざまとは」
「――――っ! 放せ! 放せよ、この野郎!」
「クッ、フハハ……好い悲鳴だ、マウノ少年。奴への思いやりに溢れている。己の命など顧みない、実に愚かな蛮勇だよ。
――それが慈悲を乞う保身の悲鳴に変わる瞬間が、私は何より大好きでね」
「――っ、やめろ!」
魔族の顔が喜悦に染まる。何をする気か察した騎士が制止の手を伸ばした。――しかし届かない。
歪んだ笑みを貼り付けたまま、魔族は右の鋏を振り上げた。じゃきん、と寒気のする音を上げて鋏が開き、鋭利な刃先を覗かせる。腕を掴む手に力が籠り、たまらず少年は苦痛に喘いだ。
「やめろ……」
届かない。
咳き込んだ息に血が混じる。脚は萎え、腕に力も入らない。戦場を焼き払う光輝の魔力は、相手に発動を欠片も見咎められた瞬間少年を断首する引き金へ変わる。
せめて――――せめて短剣の一つもあれば、あの振り上げた凶器を斬り捨ててみせるというのに。
「やめろ……!」
「安心したまえ。別にマウノ少年をどうこうしようとは思わんよ。大事な人質だ、この子を殺した瞬間、貴様が斬りかかってくるのはわかりきっているのでね」
ならばその振り上げた鋏はなんだというのか。
頭に浮かんだ疑問に答えるように、魔族が言った。
「私が殺すのは貴様だ、聖騎士ミカエル。この少年の命を私が握っていることを忘れるな! 妙な動きをした瞬間、この細い首を圧し折ってやろう!」
「――――――」
「そうとも、首を差し出せ! 跪き、麦のように頭を垂れろ! 我が鋏は貴様を捌く断頭の一撃だ! 汚らしいその首を持ち帰り、大首領様に献上するのだ……!」
魔族の哄笑に応えるように、その体から魔力が噴出した。生み出された魔力は右手に注ぎ込まれ、糧を得た鋏はまるで水を得た植物のように肥大化を開始する。
――肥大化。まさに成長と呼ぶにふさわしい。刃先が伸びる。鋭利に、歪に、禍々しく。あっという間に身の丈を超え、その刀身は建物の柱に匹敵するほど。
驚嘆するべきは男の膂力か。キチン質の巨大な刃を片手で支えながら、魔族の身体は微塵も揺るぎを見せなかった。
凶笑を上げて魔族が叫んだ。
「覚悟だ、ミカエル! 我ら魔族の恩讐の牙ァ、今ここで突き立てん――――ッ!」
「――――――ッ」
騎士は無言。片膝をつき、なす術もなく振り下ろされる鋏を見上げている。兜に隠された表情は何を映しているのか定かでなく、そのスリットから微かに覗く碧眼は、今もなお勝機を見出そうと極限まで見開かれ、
「死ねェ――――――ッ!」
「ミカエル――――――!」
魔族が咆哮し、少年が叫んだ。風を切り振り下ろされる一振りの歪な刃。力尽き蹲る聖騎士はついぞ隙を見測ることができず、まるで不出来な人形のようにその首を宙に舞わせ――――
「――――――フン、無様な聖騎士。……その点においてのみ同意してやろう、アズール」
音が響いた。まるで硝子が粉々に砕けるような。
崩れていく。世界が、まるで細工絵のようにガラガラと音を立てて形を失っていく。
「な――――に、が……!?」
魔族アズールは動揺した。
確かに聖騎士の首を落とした。肉を斬り骨を断った感触が右腕に残っている。用無しになった人質の首もついでとばかりに圧し折った。そのはずだ。そのはずだった。
だというのに、この光景はなんだ?
まるで全てが無かったことになったように、全てが塗り替えられている――――!
肥大したはずの右手の鋏は元の大きさに縮み、左手の少年にいたっては姿を消した。
残されたのは、滑稽な仕草で右手を振り上げて呆気にとられる魔族がひとり。
「これは――――これは――――!?」
知っている。アズールはこの光景を――否、この状況を作り出す術を知っている。
だからこそ理解ができない。
どうして奴が、この土壇場で己の邪魔を仕掛けてくるのだ……!?
「まさか――――」
「――――その、顔だ」
アズールの呻き声に応えるように、一人の男が姿を現した。
「まさ、か――――」
黒い甲冑、襤褸切れ同然の紫紺の外套。
闇色の炎を拳に纏い、静かに佇むその孤影。
「貴様は――――!」
彼の者は光と対となる騎士。かつて騎士団において、聖騎士と双璧を為した一人の男。
幻惑の術に長け、捉えること能わずと称された無双の体捌き。
闇に呑まれ魔族に降り、歴史より抹消されたはずの裏切り者。
その名は――
「無様以上に滑稽なその間抜け面、何よりも見たかったぞ、アズール……!」
「ラミエル、貴様ァ――――ッ!」
幻騎士ラミエル。
怨嗟に狂った騎士のなれの果てが、かつての同胞を嘲笑した。




