申し訳ありませんが担当者が不在でして……
三十路を超え四捨五入すれば不惑に手が届くというのに、いまだ役場のマドンナ扱いを受けるのは、ハンナにとってあまりいい気分のすることではなかった。
商人のノーミエックからの求婚を受け、二人の子宝にも恵まれた。今日も帰宅すれば夕飯を作って夫の帰りを待つ日課が待っている。
出産を機に役場を退職しようとも思った。収入は充分にあるし、どちらかといえば夫の稼業を手伝うのが筋だと思ったのだ。
しかし夫は、受付に座って微笑んでいるハンナさんが好きなんです、などと歯の浮くようなセリフを吐いて彼女を留めた。……正直なところ、村の人たちとふれあえる賑やかな村の役場という職場は得難いもので、傭兵団の人たちが巻き起こす騒動も、傍から見るだけなら楽しいもの。仕事を変えずに済むというのはありがたい話ではあった。
何だかんだで十年も勤めている。忙しさの絶えない役場も随分と新顔が増え、ハンナはいつの間にか最古参の一人になっていた。
振り返ってみれば感慨深い。最初の夫を喪って悲嘆にくれたあの日が、遠い昔のように思えるほどに。
――――しかしそのハンナをもってしても、その日の光景は忘れがたいものになってしまった。
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「――討伐証明部位の買取りをお願いしたいんだけど?」
「――――はい?」
書類作業の最中に声をかけられ、ハンナは頭を上げて受付台の向かい側に目を向ける。
そこにいたのは一人の少年だった。黒髪で黒い瞳、堀の浅い整った顔立ちは副団長や猟師のような『客人』によくある特徴で、珍しいながらもハンナにとっては見慣れたものである。
ただ、子供の『客人』というものが存在するなどとは聞いたこともなかったが。
「あの……これ、買い取りお願いしたいんだけど」
言葉に詰まったハンナを、よく聞き取れなかったからと判断したのか、少年は再び声をあげて手に持つ革袋を受付台の上に置いた。どさり、と重々しい音。血の染みついた革袋は一抱えほどもあり、下ろしたときの音も相まってそれはたくさんの『何か』が詰まっているのだと察せられる。
少年はこの革袋について思うところがあるのか、どこかこれ見よがしな笑みとともに、さあと革袋を押し寄せてきた。
「討伐証明、ですか?」
「そう、討伐証明。北の領境からの帰りで仕留めた奴なんだけど、ジリアンに引き返すのも手間だったし、せっかくだしここでお金に変えようと思ってさ。
だからほら、討伐報酬支払ってくれる?」
ニコリと笑って要求する少年から目を離し、ハンナは目の前の革袋に視線を注いだ。……付着した血痕は乾きつつあり、それなりに日が経っていると判別できる。微かに漂う腐臭からも同様なことが察せられた。
――北の領境、と少年は言った。未だ人間の支配下にない半島北部は魔物でひしめいている。その魔物が偶然南下したところに出くわして倒したというなら、なるほど若いながらも見事な腕だといえる。『鋼角の鹿』の中でも、それができるのは小隊長格以上に限られるだろう。
――残念なのは、それを評価するのはここではないことだろうか。
「何か、勘違いなさっているようですが……」
何故か自信満々な笑顔の少年に引き攣った微笑を向けながら、ハンナは目の前の革袋をそっと押し返した。
「今現在、ハスカールでは魔物の討伐部位は受け付けておりません」
「…………は?」
少年の顔から笑みが消えた。気の毒には思うものの、規則である以上は仕方がなかった。
「ちょっと。どういうことだよ、それ」
「本当に申し訳ありませんが、証明部位は領都に持ち込んでください」
事実である。討伐報酬は辺境伯が依頼し、特別に任命を受けた官吏が支払いを代行する。ハスカールは都市化が進んでいるとはいえ新興の村に過ぎず、担当官は常駐していなかった。
……つまり、討伐証明部位をいくら提出されたところで、公的な役場ではないここでは支払いなど出来ない。
その旨を説明すると、少年は納得いかなげに言葉を荒げた。
「でも! 村の廃棄場じゃゴブリンやオークの耳なんかが積んであるじゃないか!?」
「あれは巡察当番が彼らの縄張り内で遭遇した魔物の部位ですね。季節ごとのボーナスの査定で数えるため、集める必要があるんです」
もっとも、遭遇したといっても大半は死体の状態でだ。ご丁寧に頭部だけ残して、残りは狼の腹に収まってしまっていることが多かった。……それでも、魔物の出現傾向を記録するための有用なデータであることに変わりはないのだが。
ハスカールは領都に討伐部位の持ち込みはしていない。辺境伯との反目が続いていた頃の名残のようなものだ。それに今や『鋼角の鹿』は辺境伯直属の独立大隊。官兵となった彼らがならず者の傭兵のように討伐報酬目当てに槍働きするのは道理に合わない。
ゴブリンの耳のように、貰ったところで焼き捨てるしかないものを買い取っているのは、ひとえに領内の治安のためだ。辺境伯側からすれば、必要がないなら払わずに済むに越したことはないのである。
ハンナがそこまで説明しても、少年は引き下がらなかった。
「じゃ、じゃあ素材だけでも買い取ってくれないかな? 村の入り口に死骸だけ積んであってさ、解体場を貸してくれれば――」
「申し訳ありませんが、ハスカールでは魔物の素材は買い取っていません。解体場も場所をお貸しすることはできません」
ハスカールが売りにしているものは、領内の治安、エルフの大森林との交易品、そして討伐した魔物の素材である。自ら生産している特産を、どうしてぽっと出の外来から仕入れなければならないのか。
仮に買い取ったところで少年の利益になるかどうかもはたして疑問だ。集団で連携し効率的に魔物を狩る兵隊と、性能に任せて強引な戦いにならざるを得ない個人。――どちらが一人当たりの負担が大きいかは自明だろう。
苦労の多い後者はその分大きな見返りを要求し、前者が支配的なこの地では提示する素材の価格差という形で、悪い意味で浮いてしまう。
仮に買い取りが禁止されていなかったとしても、少年の希望価格に届かないのは容易に想像できた。
解体場にしても、携わる人間は引退した元傭兵で、シャベルを担いで場所を整備したのも傭兵団だ。ほぼ私有地のような場所を、横からやってきた競合業者に貸し出す道理はなかった。
一言に纏めてしまえば、『関係者以外立ち入り禁止』という話だった。
「――それと、村の前に死骸を放置しているとのことですが……速やかに撤去しなければ罰則が科せられます。衛生的に問題ですし、村の子供の目にも毒です」
「撤去って、どこに!?」
努めて淡々と受け答えしていたハンナにとうとう耐え切れなくなったのか、少年が大声を上げて机を叩いた。数分前の余裕ぶった態度はどこへ行ったのか、掴みかからんばかりの勢いに身の危険を感じてハンナはわずかに後ずさる。
……守衛さんを呼ぼうかしら、と思案していたところに、
「ちょっとハンナさーん? 村の前に腐りかけの魔物の死骸が放置してあるんだけど? ぶっちゃけ臭くて鼻が曲がりそうよ。おまけに目つきのきついユニコーンが傍に繋がれてるし、訳が分からないわ、ほんと」
「エルモさん……?」
事態を更にややこしくしかねない、ハスカールの賭場荒らしが現れた。




