重い雲
「――ッ! やれ、ウェンター……ッ!」
「ぃやぁあああああっ」
グリフォンの急降下を受け止めたイアンの怒号に従い、大剣の副団長は迅速に動いた。
円盾に食い込んだ鉤爪に向け、身の丈ほどの両手剣を振り下ろす。刃毀れの激しくなったとはいえ、その重量は猛禽の前脚を容易く圧し折り、ついには切断することに成功する。
「キキ――――!?」
悲鳴を上げ飛びずさった鷲獅子に追い縋る。跳ね上げた剣先は片脚を失い無防備な魔物の胸を浅く斬り、不利を悟った魔物は身を翻して反転した。
三脚となったとしてもその俊敏さは人間に追いつけるものではなく、鷲獅子は後ろ足を蹴立てて疾走し、あっという間に風に乗って空に舞い上がった。
「この――すばしっこい……!」
また仕留め損なった。
僅かに残る手応えに、ウェンターは苛立ちを抑えきれない様子で歯噛みした。
初撃で敵先鋒を潰して以来、グリフォンの動きは慎重さを増していた。
深入りしない。拘泥しない。人間に囲まれることを最大限に警戒しているのがよくわかる。
上空を旋回し、隙を見ての一撃離脱を徹底している。襲撃した人間が深手を受けたら御の字で、周囲の傭兵が対応しようと素振りを見せただけで上空へ舞い戻っていった。
今傷を負わせた鷲獅子にしてもそうだ。足を切断できたのは僥倖で、興奮して逆襲してくるわけでもなく躊躇なく撤退してのけた。状況の不利を見て取るその思考は、優れた知能によるものか。
恐らく今後積極的に単身で襲い掛かってくることはないだろう。上空で飛び回り、間接的にプレッシャーを与えてくるに留まるに違いない。
少しずつ薄皮を剥いでいくような攻勢は、まるで人間を相手にしているときのような――
「――落ち着け、ウェンター! グリフォンの全部が全部狡猾なわけがねえ! 現に最初に突っ込んできた馬鹿は猪みたいにハメ殺せただろ? 頭がいいのは一握りだけだ!
誰かがこいつらに指示を出してやがるんだ! 他の連中はそれに従ってるだけだ!」
「統率個体――――!」
オークやゴブリンの統率個体なら相手をしたことがある。ただ周囲の配下の身体能力を向上させるだけで、それらを効率的に運用する知能を持ってはいなかった。
だがこれはどうだ? 逸る味方を抑えつけ、消耗を抑制し敵に失血を強いる戦術。襲撃する鷲獅子とは別に上空に陣取り、常時敵に重圧を与える後詰の存在。
明らかに知能を有するものがいる。その名の通り、配下を統率し戦場に臨む将帥としての魔物が、この群れの長として君臨していた。
これが数百年にわたって人間の内海進出を阻んできた魔物の真価か。今まで意識しなかった敵の強大さに、人知れず背筋を震わせた。
歯を食いしばったウェンターがイアンへ進言する。
「――埒が明かない。このまま削り合って勝ち残っても、馬鹿にならない損害が出る。
……こっちから打って出て統率個体を討ち取りましょう! ここは強引にでも決着を急がないと、怪我人が手遅れに――」
その瞬間、轟音が彼の声を遮った。
――――バン、とまるで砲声のような爆発音。思わず振り返った副団長は、正気を疑う光景に目を見開いた。
黒い影。大きく広げた漆黒の翼と、それに見合うほど巨大な獅子の体躯。
翼をはばたかせもしないくせに、まるで弾道ミサイルのような軌道で垂直にぶっ飛んでいく鷲獅子の雄姿。瞬く間に高度を上げ、鈍色の雲に突っ込んでいく。
生物が飛行するための機動として色々と突っ込みたい部分は多々あるが、最も目を引いたのは鷲獅子自身ではない。
――――あの黒い魔物の背中にしがみつく、一人の男は一体誰だ……!?
「……いいなぁ、あいつ。俺も空を飛んでみたいぜ」
「ふざけてると俺が飛ばしてあげますよ、団長」
間の抜けた感想を漏らしたイアンに、ウェンターの冷たい突っ込みが突き刺さった。
●
突っ込んだ雲の中にあった光景は、やはりというか地獄だった。
「なんてことしやがる、この馬鹿……ッ!」
雲のきれっぱしが顔面にもろに叩きつけられる。台風に出くわしたときのように、身体中が水滴でびしゃびしゃだ。
手掛かりにしている短刀も鬣も、血糊と雲の粒子でずぶぬれになって握る手が今にも滑りそうになる。ただでさえ疲労で握力が弱ってるってのに!
おまけにこの黒んぼは何を考えたのか、雲の中でとんでもない挙動に出てみせた。
バレルロールにインメルマンターン、ナイフエッジに上下反転でウン分間も曲芸飛行。お前はどこのブルーインパルスだむしろプレイヤーだろふざけんな墜ちろカトンボがと、あらん限りに言葉を尽くして罵倒してやりたいが叶わない。そんな余裕などどこにもない。口を開ければ飛び込んでくる雨粒に呼吸すら詰まった。
耳元では雷鳴がとどろき、雨粒が視界を遮る。煽り立てる強風はグリフォンの体躯すら派手に揺さぶり、その背に張り付く俺の身体など枝からちぎれそうな木の葉のようだ。
平衡感覚などとうに失った。日差しの途絶えた鈍色の空間では上も下もわからない。振り回され、遠心力やら慣性力に従って落ちた先が雲の上でした、なんて結果になりかねない。
だから俺にできることとは、この黒い背中にしがみつくことだけだ。振り落とすか耐え切るか、世紀末のロデオゲームで人と魔物がしのぎを削っている。
だが――――あぁ、限界が近い。
手が痺れていた。嵌め直した左肩。神経を傷つけたのだろうか。いつもなら何ともない疲労のはずが、今は指先がかじかみそうな痺れをたたえている。
短刀の柄が血でぬめっている。牙刀を突き刺した鷲獅子の背中は、羽ばたくたびに血を噴き上げて短刀の柄を濡らし、雨粒と混じって毛皮と鎧を染め上げた。
「――――の、ぉ……!」
手放せば墜ちる。翼の無いこの身ではこの高度から落とされれば死は免れない。
真っ逆さまに墜落し、地面にぐしゃりと押し潰され、肉と骨を撒き散らして真っ赤な前衛芸術の出来上がり。これを避ける手段はない。
緩む手指に必死の思いで力を籠めて短刀と鬣を握り直す。――否、力を籠めたと錯覚しているのか。感覚などとうに消えた。ならばどうやって握り込んだと確信できる。
目の前で閃光が奔った。轟雷が視界を白く染めていく。前後も上下もわからない。聞こえるのは太鼓のように打ち付け響く耳鳴りだけ。
「――――――」
ずるり、と。
いつの間にか手が滑ったのか。気付いたときにはもう遅い。
身を支えるものの一切を捕まえることなく手放し、俺の身体は灰色の雲の中に墜ちていった。




