鷲獅子を狩る傭兵
「ゥゥ?」
「聞こえたか、ウォーセ?」
唐突に白狼が首を傾げ耳を動かした。聞き慣れない音を聞いたのだろう。たとえば、鏑矢の風切音とか。
落ち着かない様子の狼の首筋を撫でつけ、顎のあたりを掻いてやる。あっという間に機嫌のよくなった小僧は心地よさげに頭を擦り付けてきた。
ここは内海の南、グリフォンの生息地のやや東にある森の中。『鋼角の鹿』猟兵隊は、来るべき瞬間を待ち構えて森の中に姿を隠していた。そんななかで狼が察知した異変である。人間の可聴域外の音がここまで届いたのだろう。
――内海の東の森に潜んでいれば視界は狭まる。本隊の様子など見て取れるわけがない。こうやって何かしら音で合図を待たなければ動きようがなかった。
しばらくしてその予想は形になる。西の方角から数百人の傭兵による喚声が響いてきた。
どうやら一足先に始まったらしい。宴に間に合うように部下を急かすことにする。
「――猟兵。はぐれているものはいないな?」
「はっ。エルモ副隊長含め二十三名、全員準備万端で待機中であります」
小隊長のヴィゴーの気負った言葉に苦笑する。……真面目なのはいいことだが、この男はそれが過ぎるきらいがあった。
「結構。――団長たちはとっくにおっぱじめているようだ。出遅れないよう気合を入れろ。
敵の目は南から迫るあいつらに向いている。これより俺たちはこの森を抜けて鷲獅子の側面を突く。接近されずに撃てるのは最初の一射だけだろうから、外さないように。それから――」
それから、なにがあっただろうか。
何かを言ってやりたい気がする。何かを言わなければならない気がする。……そんな思いに襲われて、衝かれるように口を動かした。
「――この戦いは、誰かに雇われてやるものではない。必要に迫られて魔物を駆除するわけでもない。あのグリフォンを殺さなければどこかの人里が滅びるというわけでもない。
報酬は出るだろう。グリフォンの死骸は珍しいから、それなりに高値で売れるはずだ。……だが、今回の討伐それ単体で黒字になることはない」
今回の戦いで、『鋼角の鹿』は少なからず死傷者を出す。――言外に匂わせた意味は伝わっているはずだ。俺の顔を凝視する部下の表情がそれを物語っている。
せめてこの時の連中の顔くらいは記憶に焼き付けておこう。――そう思って辺りを見回し、ふと気づいた。
「得られるものは傭兵に似つかわしくない名声だ。征服王すら諦めた大業を、一介の荒くれ者が達成する。――すなわち、これを機に俺たちは傭兵という括りから脱却していくことになる」
……ああ、そうか。
今まで、それなりに危険な戦いに身を投じることはあった。
しかし今回のような、犠牲が必至、間違いなく死者が出る作戦を率いたことはない。
つまりは、俺は緊張しているのか。
後悔と言い換えてもいい。
俺はこの中で最後に顔を合わせる誰かへ、その別れを惜しんでいる。
まったくもって酷い話だ。指揮官なんて柄じゃないと、改めて確信する。
最初から覚悟していた犠牲を、覚悟している損害を前に動揺するなど、上に立つものとしてなっていない。
こういうところは昔から治らない。筋金入りだと自嘲する。
俺の身体ひとつでどうにかなるなら、それで済ませていた。
それでどうにもならないから、こうして部下を死に追い立てているというのに。
割り切ることのできない馬鹿は、いずれとんでもない失態を犯して自滅する。わかりきった自分の未来に、思わず苦笑が漏れた。
「――――仕事納めだ、傭兵ども。自由な身空で大暴れできる、最後の機会と思うがいい」
●
……また来たのか。
しずしずと迫りくる気配を感じ取り、彼は不思議と懐かしい感覚に囚われた。
人間が彼に挑むのは百年以上ぶりとなる。かつてはひと月も間をおかずに襲い掛かってきた人間も、何度も撃退しているうちにその間隔は延び延びになり、最後に彼に挑戦してきた人間の群れは五十人に満たないほどだった。
人間が彼を襲わなくなったのは、戦う度にあまりに損害が大きすぎるためと、彼の群れがあまり縄張りから出ようとしない閉鎖的な気質をしていたからだ。
内海は豊饒の海で、獲れる魚に困ることはない。内海沿岸を縄張りにしているグリフォンはその豊富な餌によって群れを増やし、寿命で死ぬ個体も現れるほどだった。
当然、縄張りに侵入してくる人間に容赦する理由はない。紛れ込んできた旅人も、彼に気付かれないように縄張りをすり抜けようとした商人も、蛮勇に従って近くに居を構えようとした山賊も、全て例外なく爪で引き裂き貪り食った。たまに人間が連れている馬はグリフォンの好物で、一頭あればその日は満腹でいられるほどである。
――今回もまた同様。百年前と同じように容易く蹴散らし、一人残さず胃袋に収めよう。
決まりきった結末に心を動かすことはない。彼は作業に取り組むように何気なく飛び立ち人間の群れを視界に入れ――違和感を覚えた。
まず、規模が大きい。
前回の襲撃は五十人足らずだったというのに、今回の人間は三百人を超えるほど。これほどの規模は数百年前に一度あったかどうか。
次に、装備が違う。
グリフォンを襲う人間の群れは姿形が一定していない。青銅や錫でできた鎧であったり、精錬の未熟な鉄剣であったりと、装備自体が安価にまとめられていることが多かった。
正規軍といえど装備の全てが上質に揃えられるわけではない。グリフォン狩りに駆り出される一般兵に支給される装備など、最低限の質を保証する程度でしかなかったのだ。
しかし、今回の人間たちはなんだ? 真鍮色の盾と剣。魔物の毛皮を加工した革鎧は粗野ながら武骨。腰のあたりからはどうしようもなく忌避感を掻き立てられる悪臭を漂わせている。
明らかにこれまでの襲撃と異なっている。
そして何より、その群れから漂ってくる気迫が違う。
悲壮感がない。諦観がない。いつも向けられるはずの恐怖がない。
人間を何度も食い散らかしてきたグリフォンを、まるで恐れる様子がない。
ただ狩り殺す対象。殺すべき敵として見られている。……彼の極めて優れた視力は、人間たちの浮かべる表情から自分がどう思われているか推察した。
……面白い。その増長、見る影もなく引き裂いてやろう。
声を上げる。高く伸びる鷲の嘶き。聞きつけた群れの配下が巣から飛び立ち、人間の軍勢に向けて飛翔した。
人間の軍勢から数えきれない矢が放たれた。弓兵を多くとっていたのだろう。山なりの曲射は配下の視界を覆い、逃げる隙もなく先鋒の鷲獅子たちに突き刺さっていく。二頭が脱落し断末魔を上げながら落下していった。
しかし所詮はその程度。二頭の被害で済んだのなら僥倖である。人間の軍勢で恐れるべきものなど、遠隔から放たれる弓か魔法くらいだ。鋼の鎧は爪で引き裂ける。剣の一撃が脂肪を抜ける前に嘴で抉り殺せる。
近づいてしまえばこちらのもの。彼がそう勝利を確信している間に、配下の一頭が一人の人間に躍りかかり、
「こ、のぉ……ッ!」
ぎしり、と軋みを上げて、真鍮色の盾に爪を阻まれた。
「―――――――」
驚愕する。見たことのない色をした盾は、彼が思う以上に強靭だった。
弾かれて体勢を崩した配下は横合いから他の人間に打ちかかられ、額を斧で割られてたたらを踏んだ。そこに、
――唸る轟音、鈍い打撃音。
後ろに控えていた男が走り寄り、手に持つ戦鎚を振り下ろした。狙いは誤らず鷲獅子の頭部を陥没させ、一撃で絶命したのが見て取れれる。
「――――――ッ」
手早い対応、慣れた手つき。
この人間の軍勢は今までとは明らかに異なる。紛れもない精鋭だと彼は理解した。辺りを見回せば他にも数頭が襲撃を失敗させ、人間に取り囲まれて斬りかかられている。無事に人間を食い殺し、空に飛び立って逃げた配下の方が多いが、この被害が続けば群れが立ち直るのも難しくなるかもしれない。
……侮れる相手ではない。余力を残そうとすれば滅びるのはこちらだ。
最初の襲撃に飛んだグリフォンは三十頭。若く未熟であったり、老いて動きづらくなった配下は巣に残している。この二十頭を投入して再度突入すれば――
「――――猟兵、構え。狙いは前方直近、飛ぶ気配のない三体」
その瞬間、彼はあり得ないものを見た。
己の後方、巣の近く。いつの間にか近づいたのか、人間の小さな群れが膝をついて佇んでいる。優れた彼の知覚をもってしても気付けないとは、一体何が。
彼らの周辺に霧の残滓が漂っていた。微かに闇魔法の気配がして、幻惑の効果を付与したのだと理解できる。――しかし、たかが魔法ひとつでこれほどまでに?
手に持つ武器は見慣れないもので、それでもその構えから弓や遠隔魔法に類するものだと判別できる。その切っ先は真っ直ぐに、彼の巣で立ち尽くす配下を狙っていた。
――――ケェエエエエエエエエ……!
彼は甲高い咆哮を上げて警告した。早くそこから飛び立て。もたもたしていたら撃ち抜かれる。あれらの持つ玩具のような武器が、己の毛皮を貫通しうるとどうして想像がいたらないのだ……!?
結論から言うと、彼の警告は間に合わなかった。
「猟兵――斉射、開始」
動かぬ目標の急所を捉えるなど容易いといいたいのか。
射出された二十を超えるボルトが三頭のグリフォン、その胸元に深々と突き刺さり、配下の鷲獅子は翼を広げることなく絶命した。




