夜闇に思う
目を瞑り、耳を澄ます。
足場にしている領城の屋根はそれなりに傾斜していて、支えなしに立ち続けるのはなかなか難しい。おまけに屋根瓦が経年劣化していて、踏むだけで割れてしまいそうだ。
居城の屋根の補修すら行きわたっていない辺境伯の財政事情は、なるほど見た目以上に切羽詰っているらしい。俺たちの村を取り込もうとするのも頷ける。
城の見回りに気付かれた形跡はない。気配は消しているし、身に纏っている外套はあまり派手でない青色系だ。念のため周囲に霧を漂わせて輪郭を解かりづらくしているのもある。
そのおかげか、城壁を行ったり来たりしている衛兵がこちらをぼんやりと眺めてきたことがあるが、特に何をするでもなく業務に戻っていった。
すでに夜も更けた。領都の街の喧騒も静まろうという時間帯。閉じた目には見えないが、見上げれば満天の星空が広がっている。
男女の逢瀬にはこれ以上ないお膳立てではあるまいか。
――――ふと、微かな音を聞いた。
「これは……」
狼の遠吠えだ。
ここから見て北東の方角。声の調子に聞き覚えがあるから、恐らく灰色の子供のうちの誰かだろう。方角からどこを縄張りにしている狼か推測して、存外遠くから声が届いてきていることに少し驚く。
高い所に陣取るとやはり音の通りがいいのだろう。村にいるときと違い、聞こえる子供の声が段違いだ。
意識して音を聞き分けてみれば、他の方向から届いてくる声があった。南や西、前日大要塞近くに縄張りを構えた黒狼は元気にやっているようだ。
領境を棲み処にしているウォーセの兄は、やはり年長の意地かやや低めの威厳のある声をしている。
狼の長く尾を引く声は、時間が時間なだけに何も知らない人間が聞けば物哀しげな響きすら連想させる。
しかしよく聞いてみれば感情豊かな抑揚をしていて、少なくともこの領都に声が届く狼たちの遠吠えから、何かを悲しんだり嘆いたりという負の感情は感じ取れない。何だかんだで息災なようでとりあえずは一安心というところか。
そんななか、領境の兄狼の声に追従するように混じる、やや高めの声があった。
聞いたことのない抑揚だ。少なくとも灰色の一族にはいない狼のものだと断言できる。息が続かず途切れ途切れになる辺り、まだ若く未熟な個体なのだろう。
……ひょっとすると嫁でも迎えたか。あるいは子供でもこさえたか。
ありえる予感に自然と頬が緩むのを感じた。……北の境界は魔物で溢れていて嫁探しがままならないと思っていたが、なかなかどうして。
そのうち冷やかしに顔を出してみようと密かに決める。なんというか、人間の恋愛は政治やしがらみが組み合わさって面倒なことになるというのに、彼らのそれは清々しいほどに一直線だ。独身を患っている一人の男として羨ましいことこの上ない。
「結婚、ねぇ……」
きっと、この状況のせいだ。
いつの間にかつがいを得ている狼や、今この瞬間にも恋愛を謳歌しているあの若造のことを思いを巡らせたせいで、ついそんな独り言が漏れてしまった。
城の屋根上にひとり佇み、城の見張りが逢引中の団長に気付かないように警戒し続けている。別に嫌というわけじゃないが、春の夜空がいつもより肌寒く感じられる。
――好きにすればいい。辺境伯の姪と団長の婚姻に、口を挟むつもりはない。
話を蹴りたければ蹴ればいい。領主との関係は悪化するだろうが、現状から鑑みて彼は俺たちを排除できない。いずれ栄える交易都市の収入と半島屈指の戦闘集団、これをわざわざ敵に回して潰す理由はない。
婚約話は白紙に戻り、俺たちの計画は現状維持。狼たちは順調に縄張りを広げ、来るべき時を待っている。
話を受けるならそれも一つの選択だ。団長はこの結婚を足掛かりにして辺境伯領の中枢に入り込み、ハスカールの持つ武力と財力を後ろ盾に力を振るう。そしていずれは――――
当初考えていた展開よりよほど穏当な未来だ。流れる血を考えるなら、むしろ受けない選択肢こそありえない。
しかし、我らが団長はこの二つに一つの選択すら嫌がった。
「伊達晴宗か……」
戦国時代における誘拐婚の代名詞。よその家に輿入れ途中の久保姫を襲い、かの大名は強引に娶ったという。
本気で惚れた相手ならこれくらいはするべき、とあのアホエルフが焚きつけたせいで、俺はこんな寒空の下で見張りなんぞをしている。
恋愛に政治を絡めたくないのだとあの男は言った。俺は俺が惚れた女だから彼女を嫁にしたいのであって、それにくっついてくる余分なものなど捨ててしまいたいくらいだ、と。
金も女も名声も、自らが勝ち取るから誇れるのであって、恵んでもらうものに用はない。たとえそれが本人に望まれずついてきてしまったものだとしても、他者からの白い視線は免れない。
――否、己自身が信じられなくなる、とあの男はのたまったのだ。
馬鹿な話だ、本当に。
男というやつは、こういう時に沽券にこだわるからやりづらい。
貰えるものは貰っておけばいい。それが実力に寄らないものだとしても、それを上回るものをこれから築いていけばいいのだから。
それが嫌だと言えてしまうあたり、あの男もまだまだ青い。
もしこの誘拐染みた駆け落ちが成功すればどうなるだろうか。
まず間違いなく、辺境伯と敵対することになるだろう。何しろ真っ向から面子を潰した形になるのだ。これを見逃しては領主の権威が損なわれる。
下手をすればハスカールに竜騎士がダース単位で殺到するかもしれない。そして、現在建築途中の城塞と飽和状態の村では軍勢を防ぎきれない。
恐らくは、村を捨てることになるだろう。
――――だが、それがどうしたというのか。
なるほど確かに竜騎士は脅威だ。弓矢の届かぬ高さから舞い降りて、目に映ることごとくを焼き尽くしていく。その様は天空の覇者と呼ぶにふさわしい。
しかし、手も足も出ないというわけではない。
戦いの場は華々しい昼の平原に限られるわけではない。山中で、洞窟で、森林で、雪中で、そして領都の夜闇の中すら戦場となりうるのだ。
やりようはある。そのやりようをこの十年でつくり上げてきた。そしてようやく形になろうとしている。
計画は前倒しになるだろう。だが流れる血は当初の予定よりはるかに少なくなるだろう。そしてこの半島は否応なしに変革を求められる。
「気張れよ、団長。あんたがこれをどう収めるかで、何もかもが切り替わる」
人の血も、狼の血も、どちらも見たいものではない。
全て穏やかに終わるに、越したことはないのだから。




